歴史の授業のモノクロ写真
資料集の写真ありますよね。小学校とか中学校、高校の社会の授業の、特に歴史の、近代の戦時中の頃とかの。明治時代とかでもいいけど、とにかく写真が発明された後の、モノクロの写真。大勢の人たちの生活の様子がうってるのよ。こっち見てたり見てなかったりどこの場所かもよく分からない。それ見ると不思議な気持ちになりませんか?もう死んでるかもしれないのに、写真としては残っててなんか不思議だなって。言い方は良くないけど、死者が写ってるんだって思うとなんか怖くなって。別に、遺影とかも死者なはずだし、取られた写真の全ては、見る時にはほとんど死んだも同然な所があるのに、それは別に怖くないんですけどね。
チャイムが鳴って、歴史の授業が始まりました。先生が教壇に立って、教えてくれますよね。こんなことがありました。これきっかけで第二次世界大戦始まりました。抑留されてました。朝鮮支配しました。とか事実を淡々と。生徒に興味を持たれるように話されることもあるけど、大体は最低限知っておかないといけないところをピックアップして教えてくれます。すごい年月を短い期間で一瞬で浴びていきますよね。
板書の早いスピードの先生だと、黒板の文字が消されれてしまう前にノートに走り書きで板書しますね。別に先生は優しかったから、まだ書けてないって手をあげれば黒板に残してくれただろうけど、みんなはもう書き終えてたら、自分だけ書くの遅いとか思われたくなくて言えないかもしれません。
他にも色んなこと考えてました。
今日、当てられるのかなとか、当てられた人から逆算して考えてたりさ、次、教科書読む番かな?とか、授業に関係ないことも色んなこと考えますね。
それでふと、『 資料集、開いとこか。』って先生に言われて、滅多に開かないデカくて重い資料集を開きます。何人か、ロッカーに資料集を取りにバタバタと行く人もいますよね。それで、資料集開くとその時代の社会にいた一般の代表みたいな生活のモノクロの写真があります。でも、先生は別にその写真の紹介はしないわけよ。話したいことは別だから。そのモノクロの写真たちは、テストにも出てこないし、注目されるわけではない。大事なところは、教科書には書ききれていなかった文章や年表とか。
でも、文字より写真の方が目に入るわけ。で、先生の話はそぞろに、その写真を見つめます。
なんかこの世界にいた人じゃないみたい。この時代を経て、今があるってのがどこか信じられません。
その時のモノクロ写真は、戦時中なのかな?日本ではない場所で、日本人の子供たちがいます。男女も身長も様々な子供たちがなんか丘?っぽいところに立ったり座ったりしてるモノクロ写真。その中に、1人、こっちを見てるモンペきた女の子がいた。なんかすごい印象的かもしれませんね。こっち見てるっても、カメラに向けての表情なはずなのに、自分に何かその感情を訴えてんだって思い違っちゃう。等身大の女の子で、どこか気だるそうな表情にも感じるかもしれませんね。
その一瞬の感情が切り取られて資料集に生き続けてるんだなーって。閉じ込められてるっていうか。
この写真では、小学生ぐらいかな?下手したら未就学の子供がさ、自分よりも年上で、先輩なんだーとか思うと不思議だー。
そしたら、上手く形容できないけど、わかる?なんか感情が溢れてくるわけ。
この子達はどうなったんだろ?歴史としては学ぶけど、個人のことは、この女の子のことは分からない。知ろうと思えば知れるかもしれないけど、調べるまでの気は起こはないからね。
その写ってる一人一人にもさ、出会いとか別れとかその人の一生分の人生があったわけでしょ。そう思うとなんか悲しくなってきた。私もこの人たちと一緒だ。生まれて死んでく、社会の1人でしかないんだって。
そう空想してるうちに、授業は先に進んで、資料集はもう閉じられて、教科書のページはくられて違う歴史の話になっていくわけです。それで、休み時間になって、友達となんか楽しく話してるの。もう一生そのモノクロ写真が載ったページを見直すことはないのでした。




