妹の恋文は、三年間ずっと私が書いていました。追伸のない手紙を一通出したら、辺境伯様が帰ってきました
妹の恋文は、三年間ずっと私が書いていた。
言い訳をさせてほしい。最初は一通だけのつもりだった。
「お姉様、お願い。三行で手が止まるの」
妹のミアは便箋を前に、本気で泣きそうな顔をしていた。
相手は北の砦に赴任中の辺境伯、クラウス・ヴェルナー様。祖父同士が決めた婚約者で、顔合わせは一度きり。お戻りは三年後。それまで月に一度、手紙を交わすのが両家の取り決めだった。
「『お元気ですか。私は元気です。寒いのでお体に気をつけて』。……ほら、終わっちゃった」
「終わったわね」
「リーゼ、書いてあげなさい」
母が刺繍から顔も上げずに言った。
「あなたは字がきれいなんだから。姉でしょう」
姉でしょう、は我が家の万能の接着剤である。たいていのものは、これで私にくっつく。
「でもお母様、それは嘘になります」
「署名はミアにさせます。なら嘘じゃないわ」
そういうものだろうか。
そういうものではないと思うが、私は筆を取った。
断れなかった理由は、姉だからではない。
慣れていたからだ。
私には前世の記憶がある。日本という国の、小さな会社の総務だった。
社長の年頭挨拶。専務の弔電。部長の詫び状。営業部の年賀状、四百枚。
全部、私が書いた。全部、他人の名前で。
自分の名前で書いた文書は、たしか一通だけある。退職届だ。
下書きのまま、出す前に死んだ。
生まれ変わって伯爵家の長女になり、今度こそと思っていたら、これである。
人は、得意なことから逃げられない。
◇
一通目は、三行を三十行にしただけだった。
砦は寒いと聞きます。こちらは庭の柿が色づきました。姉が梯子から落ちかけました。
書き終えて、余白が気になった。
前世からの癖で、私は余白が残ると何か書かずにいられない。
『追伸 柿は渋柿でした。姉は落ちかけ損です。』
ミアが末尾に、ミミズがのたくったような字で署名をした。
ひと月後、返事が来た。
前半は、型どおりだった。
『ミア嬢 お手紙拝受しました。当方つつがなく。』
三行で終わっている。似た者同士かもしれない。
ところが、その下に続きがあった。
『追伸へのお返事』
と、わざわざ見出しがついている。
『渋柿は、皮をむいて軒に吊るすと甘くなります。砦では兵が毎年やります。梯子は、誰かに押さえてもらってください。』
私は三度読んだ。
それから、庭の柿を全部むいた。
二通目の追伸には、干し柿の出来を書いた。三通目には、読んだ本のことを。四通目には、領地の水路の修繕が遅れている愚痴を。
追伸は月ごとに長くなり、半年後には本文の三倍になった。
辺境伯様の『追伸へのお返事』も、同じだけ長くなった。
砦の冬のこと。兵の喧嘩の仲裁のこと。水路なら石工より先に測量だ、という実に正しい助言。雪の朝に、狐が門の前で伸びをしていたこと。
変わった方だ、と思っていた。
なぜ本文に書かないのだろう、と。
二年目の冬、私は自分が、月の半ばから郵便馬車の音に耳を澄ませていることに気づいた。
三年目の春には、気づかないふりができなくなった。
これは妹の婚約者だ。
そして私は、妹の名前で、この人を騙している。
◇
「もう書かないわ」
お戻りがひと月後に迫った日、私はミアに言った。
「次の一通で最後。それから、あの方には本当のことを申し上げるべきよ」
「だめ!」
ミアは真っ青になった。
「ばれたら婚約が流れるわ。お父様に殺される」
「あなた、あの方と結婚するのよ。干し柿の話を振られたらどうするの」
「……干し柿?」
「三年分、読んでおきなさいと言ったでしょう」
「読もうとしたのよ。でも長いんだもの。特に追伸が」
反論できなかった。
ミアは両手を揉んで、扉のほうをちらりと見た。
扉の外には、護衛騎士のヨハンが立っている。妹が子どものころから、ずっと。
その視線の意味に、私はもっと早く気づくべきだった。
最後の手紙は、短く書いた。
お戻りをお待ちしております。道中お気をつけて。
余白がたっぷり残った。
手が勝手に『追伸』と書きかけて、止めた。
書けば、また騙すことになる。
ミアが署名をした。
私は生まれて初めて――前世を入れても初めて――余白を残したまま、封をした。
◇
辺境伯様は、予定より二十日早く着いた。
馬を三頭乗り継いだそうだ。
応接間には両親とミア。私は呼ばれていない。廊下に立っていた。行儀が悪いのは承知している。
扉は薄い。
「ミア嬢。干し柿は、今年もうまくできましたか」
「は、はい! とても、あの、柿でした」
「水路の測量は」
「すい……ろ?」
「先月の手紙に、石工の親方と喧嘩をした、と」
「け、喧嘩などいたしません、私!」
沈黙。
母の咳払い。父が茶器を置く音。
私は自分の袖を握りしめた。
ここで逃げれば、ミアが一人で嘘の責任を負う。書いたのは私だ。
他人の名前で書いたものの後始末を、他人にさせてはいけない。前世で一度も守れなかった決まりを、私は今、守ることにした。
扉を開けた。
「失礼いたします」
両親が凍りついた。ミアが、助かったという顔と、終わったという顔を同時にした。
窓際に、背の高い方が立っていた。日に焼けて、旅装のままで、手紙の印象よりずっと無口そうな人だった。
「長女のリーゼと申します。辺境伯様に、お詫びしなければならないことがございます」
「リーゼ!」と母が言った。
「三年間の手紙は、すべて私が書きました。妹は署名をしただけです。お咎めは、どうか私に」
言ってしまった。
膝が震えた。退職届を出せなかった女にしては、上出来だと思う。
辺境伯様は、少しも驚かなかった。
「存じています」
「……え?」
「一通目から。署名だけ、字が違いましたので」
応接間じゅうの目が、ミアに向いた。
ミアは自分の手を見た。
「わ、私、そんなに字が」
「ええ」と辺境伯様は気の毒そうに言った。「かなり」
それから私のほうを向いた。
「本文と追伸は同じ手でした。署名だけが別人です。ですから私は、ミア嬢には三行でお返事をし、残りは」
懐から、紙の束を出した。三年分の、私の手紙だった。角がすり切れていた。
「追伸を書く方に、書いていました」
「……なぜ、当家にお尋ねにならなかったのですか」
「尋ねれば、手紙が止まると思いました」
辺境伯様は目を伏せた。
「卑怯でした。お詫びするのは、私のほうです」
『追伸へのお返事』。
あの見出しは、変わった癖ではなかった。
宛名だったのだ。
「先月、追伸のない手紙が届きました」
辺境伯様の声が、初めて少し揺れた。
「何かあったのだと思いました。病か、叱られたか、それとも、私の返事が長すぎて嫌われたか。砦で二十日待つより、馬を三頭潰すほうが早かった」
「潰したのですか」
「いえ、三頭とも元気です。言葉のあやです」
真面目な方だ。手紙のとおりの。
父が、ようやく声を取り戻した。
「へ、辺境伯。この件は当家の落ち度で、婚約は、その」
「婚約書をお持ちしました」
辺境伯様は、古びた羊皮紙を卓に広げた。
「三年前、署名に気づいた晩に読み返しました。祖父の字です。大雑把な人でして。『ヴェルナー家当主は、ハルトマン家の娘を妻に迎える』。――どの娘か、書いていません」
ミアが息を呑んだ。
私より先に意味が分かったらしい。こういうときだけ、妹は速い。
「お、お姉様でいいんですか!? 私じゃなくて!?」
「ミア、言い方」
「だって、私、ヨハンが」
言ってから、ミアは自分の口を両手で押さえた。
廊下で、鎧ががしゃんと鳴った。
母が額に手を当てた。
「でも、妹より姉が先に、いえ、姉が妹の縁談を、そんな順序の」
「奥方」
辺境伯様は丁寧に言った。
「三年分の手紙の礼は、書いた方に申し上げたいのです。署名をさせた方にではなく」
母は口を閉じた。
生まれてこのかた初めて、「姉でしょう」が何もくっつけなかった。
「リーゼ嬢」
辺境伯様が、私の前に立った。
「返事は急ぎません。ただ、一つだけお願いがあります」
「……何でしょう」
「手紙をください。今度は、あなたの名前で」
◇
その夜、私は机に向かった。
便箋を前に、三行で手が止まった。
おかしい。年賀状四百枚を三日で書いた女である。
他人の名前なら、いくらでも書けた。社長の抱負も、専務の哀悼も、妹の恋も。
自分の名前で書くとなると、最初の一字が出てこない。
前世の私は、とうとうそれを出せなかった。
窓の外の軒に、去年の干し柿の縄がまだ残っていた。
私は筆を取った。
『クラウス様
お返事を申し上げます。
はい。』
三行で終わった。
似た者同士かもしれない。
少し考えて、末尾に署名をした。
リーゼ・ハルトマン。
自分の手紙の末尾に書くのは、二つの人生で初めてだった。思ったより、画数が少なかった。
余白が、たっぷり残っている。
今度は、手を止めなかった。
『追伸 今年の柿は、あなたがお戻りになってから一緒にむくつもりで、まだ木に残してあります。梯子は押さえてくださいますか。
追伸の追伸 ミアとヨハンのことは、両親には私から話します。得意なのです、他人の用件を書くのは。
追伸の追伸の追伸 追伸が本文より長いのは、前世からの癖です。直す気はありません。』




