ねえお兄ちゃん、一人の命を救うために、誰かを見殺しにしてもいいの?(挿絵あり)
幼い頃に両親を事故で亡くし、妹のアイリと施設で育ったセイジは、「いつか人を救う仕事に就きたい」と強く願っていた。
厳しい訓練を乗り越え、念願の救助隊員として働き始めた彼だが、たった一人の家族である妹のことは常に気にかけている。というのも、最近彼女が付き合い始めた『ユウゴ』という男は、ろくでもない噂が絶えない人物だったからだ。
そんなある日、アイリがユウゴと山へピクニックに行くと言い出した。セイジは胸のざわめきを覚えながらも、「何かあったら、すぐに連絡するんだぞ」と念を押して彼女を送り出した。
幼い頃から素行が悪く、万引きなどでよく警察の世話になっていたユウゴ。大人になってからも、特に女癖の悪さは一部で有名な男だった。
そんな彼がアイリに近づいた理由は単純だ。世間知らずで大人しく、両親がいないうえに保護者代わりの兄も不規則な仕事で不在がち。彼にとって、都合よく扱える「遊び相手」としてうってつけだったのだ。
ユウゴは手下にアイリを襲わせ、そこへ駆けつけて助け出すという自作自演の芝居を打ち、見事に彼女の気を引いて付き合うことに成功する。
しかし、彼の思惑は外れた。アイリは交際こそ受け入れたものの、決して体を許そうとはしなかった。思い通りにならない状況に、ユウゴの苛立ちは募っていく。
「俺の貴重な時間を無駄にさせたこと、たっぷり後悔させてやる」
身勝手な怒りを募らせたユウゴが腹いせに思いついたのは、彼女を山奥に置き去りにするという非道な作戦だった。
深い谷間を渡るための唯一の手段である、古びた吊り橋。
ユウゴはこれにあらかじめ細工を施していた。アイリが対岸へ渡り切ったのを見計らって橋を落とし、自分だけ引き返して彼女を置き去りにしてやるという悪辣な計画だ。
しかし――事態は、ユウゴの想定外の方向へ転がる。
二人が橋の中央へ足を踏み入れた途端、細工が早まって突如として足元が崩落したのだ。
「なっ、うわあああああっ!?」
宙に投げ出された二人は、かろうじて残った一本のロープにすがりつき、谷底に向かって宙吊りになる形となった。
「た、助けてくれぇっ!」
パニックに陥り、届くはずもない助けを求めて無様に叫び続けるユウゴ。
対照的に、アイリの瞳にはまだ希望の光が宿っていた。
(お兄ちゃんなら、絶対に助けに来てくれる……!)
アイリは震える手を伸ばし、セイジから持たされていた緊急ブザーのボタンを祈るような思いで必死に押し込んだ。
数十分後
ダダダダダッ!
上空からヘリのローター音が鳴り響く。セイジたち救助隊が間一髪で現地へ到着したのだ。
だが、二人の体重を支え続けるロープは『ギリ……ッ』と不気味な音を立て、今まさに限界を迎えようとしていた。
「ユウゴさん、見て! お兄ちゃんが来てくれた! もうすぐ助けてくれるからね!」
涙声で安堵するアイリ。しかし、ユウゴの目は血走っていた。
「いや、もうロープが保たない……っ! このままじゃ二人とも落ちてしまう!」
「そんな、もうお兄ちゃんの姿が見えてるのに……っ」
「そういうわけだ。――俺のために死んでくれ」
「えっ?」
次の瞬間。ユウゴは無情にも、アイリの体を谷底へと強く蹴り落とした。
フッと一人分の重さが消え、ロープはギリギリのところで千切れるのを踏みとどまる。
ヘリから必死に身を乗り出していたセイジは、最愛の妹が絶望とともに空を舞うその一部始終を、ただ見せつけられることしかできなかった。
目の前で最愛の妹を失うという絶望。しかし、セイジは自らの感情を殺し、救助隊員としての使命に従った。「目の前にある命」を救うため、悪魔のような男へ向かってヘリから身を乗り出し、手を差し伸べたのだ。
――しかし、その崇高な決意すらも踏みにじられる。
ユウゴは差し伸べられたセイジの腕を思い切り引き寄せると、入れ替わるようにして自らがヘリへ這い上がり、同時にバランスを崩したセイジを無情にも谷底へと突き落としたのだ。
山間部特有の狭い地形での救助活動のため、小型ヘリの搭乗員はパイロットとセイジの二人だけだった。谷底へ消えていくセイジを見届けたユウゴは、振り返ってパイロットへ悲痛な声を張り上げる。
「す、すみません……! 俺を引っ張り上げようとした救助隊の人が、バランスを崩して落ちてしまって……!」
「な、なんだって!? セイジが!?」
「でも、あの人……最後まで笑ってたんすよ。俺を助けられてよかったって顔で……。本当に、救助隊の鑑みたいな人っすね……」
「……あぁ、あいつは本当に真面目で、いい奴だったからな」
――無論、全てはユウゴの虚言である。
妹を殺した男を助けようと手を伸ばし、あまつさえ裏切られたのだ。絶望と無念の淵へ落ちていったセイジが、誇らしげに笑うはずなどなかった。
「あー……本部へ。要救助者一名を無事保護。しかし二名が転落し行方不明、至急応援と捜索を頼む」
無線を入れるパイロットに、ユウゴはわざとらしく首を振る。
「いや、あの高さからじゃ流石にもう無理じゃないっすか?」
「……死体を見るまでは諦めないのが、俺のポリシーなんでね」
パイロットは鋭い視線でユウゴを一瞥した。
「俺はどうなるんすか?」
「心配するな。このヘリは一度帰還する。後で警察の事情聴取があるはずだから、今は休んでおけ」
警察の取調室。ユウゴはハンカチで目元を拭いながら、悲痛な声を作った。
「それでね……俺は山の綺麗な景色を彼女に見せてやろうと、登山デートをしてたんですよ。そしたらいきなり橋が落ちて……。しばらくは二人で励まし合って耐えてたんです。でも、救助隊が到着した途端、急にロープがちぎれそうになって……!」
そこで一度言葉を区切り、ユウゴはわざとらしく声を震わせる。
「アイリは、『私のぶんまで生きて』って、自ら手を離したんです……っ。だから、俺はあいつの分まで生きていくと決めたんすよ!」
「そうか……。しかし、あの橋には細工がしてあってな。本来ならかなり丈夫なはずなんだが、誰かが意図的に落とそうとしていたのではないかと見られている」
刑事の鋭い視線に対し、ユウゴは大げさに目を見開いた。
「マジっすか!? じゃあ、俺たちはその見ず知らずの誰かのせいで、こんな目に……!」
「もしや、君の仕業じゃないだろうね?」
「まさか! 俺も死ぬところだったんすよ? 自分が乗ってる橋を落とすなんて、そんな無理心中みたいなことしませんって。仮にそうだとしても、ロープにしがみついて救助隊を待つなんておかしいでしょ?」
ユウゴの理路整然とした反論に、刑事は忌々しげに舌打ちを隠す。
「……まあ、言われてみればそうだな。今のところ、君を疑う証拠もない」
こうしてユウゴは罪に問われることもなく、あっさりと元の自堕落な生活に戻っていた。
そんなある日、テレビのニュース番組で『行方不明となっていたアイリとセイジが発見された』という報道を目にしたユウゴは、思わずニヤリと醜悪な笑みを浮かべた。
ニュース報道において、「発見された」という言葉は暗黙の隠語だ。もし二人が生きて無事ならば、キャスターは「無事保護された」、あるいは単に「保護された」と表現する。「発見された」という言葉が使われるのは、すでに手遅れ――つまり、遺体で見つかった時だけだ。
(なんだ、やっぱり死んでたか。これで完全に事件は迷宮入りだな)
ユウゴは缶ビールを煽りながら、心の底からの安堵を噛み締めていた。
「うぐっ……ここは?」
山の中腹。鬱蒼と生い茂る樹々の枝に引っかかるようにして、セイジは目を覚ました。
谷の頂上付近は岩肌が剥き出しだったが、運良くこの中腹には樹木が群生していた。それがクッション代わりとなり、セイジは奇跡的に一命を取り留めたのだ。
ズキリと足が痛む。見ると、酷く怪我をしているものの、布できつく縛られ止血処置が施されていた。一体誰が?
周囲を見渡すと、すぐ近くに人が数人横になれる程度の平らな場所があった。痛む足を引きずってそこへ移動したセイジは、生きている妹を発見し息を呑む。
「アイリ……!? 無事だったのか! よかった……ッ!」
セイジが駆け寄ろうとすると、アイリは弾かれたように背中を向けた。
「いやっ! 来ちゃダメ、来ないで!」
「どうしたんだ? 俺が誰だかわからないのか?」
無理もない、とセイジは顔をしかめる。直前、彼女は信じていた恋人に崖から突き落とされたのだ。極限の恐怖で記憶が混濁したり、精神状態が不安定になっていてもおかしくはない。
「アイリ、心配するな。俺はお前の――」
「いいから! それ以上近づかないで、お兄ちゃん!」
「……ん?」
記憶が混乱しているわけではないらしい。それなのに頑なに拒絶するアイリに、セイジは怪訝に思いながら近づいていく。
「いや、ほんとにダメだってば!」
「おい、アイリ、こっちを――っ!?」
無理やり肩に手をかけ、振り向かせたセイジは絶句した。
「だから見ないでってばぁ……」
彼女の服は落下時の衝撃や木の枝に引っかかったせいか、あちこちが無惨に破け、白い肌が露わになっていた。さらにスカートの裾も大きく裂けており、下着が丸見えの状態だったのだ。
「す、すまん! そんなつもりじゃ……ッ!」
慌ててバッと背中を向けるセイジ。
ふと自分の足に巻かれた布を見る。よく見れば、それはアイリのスカートと同じ生地だった。自分の服を破いてまで、気を失っていたセイジの止血をしてくれたのだ。
背中を向けたまま、セイジは気まずさを誤魔化すように声をかける。
「お前……怪我はないのか?」
「私はかすり傷程度。お兄ちゃんの足の方が酷い怪我だったから……」
そうか。救助隊員として助けに来たはずが、逆に要救助者に助けられるとは。
(そうだ、無線は……ダメだ、完全に壊れてる。狼煙を上げるにも、この乾燥した状況じゃ最悪山火事になりかねない)
情けなさに唇を噛みながら、セイジは振り返らずに、自分が着ていた救助隊の厚手の上着を後ろ手に差し出した。
上着をアイリにかけ、二人は誰の目にも触れない深い山の中で、静かに救助を待つことにした。
救助隊による懸命な捜索は、夜間まで及んでいた。
一般的に、遭難者の発見が遅れれば遅れるほど生存率は著しく低下していく。しかし今回に限っては、この『夜』という状況こそが、二人を絶望の底から救い出す大きな助けとなったのだ。
バタバタバタバタッ!
「……あの光は?」
遠くの夜空を切り裂くような一筋のサーチライト。それを見たセイジの目に、力強い光が宿る。
「捜索隊のヘリだ。昼間はプロペラ音がうるさいだけだが、夜間はああやってライトで照らして捜索してくれる。アイリ、手鏡は持ってるか?」
「う、うん」
「貸してくれ。その光を反射させてヘリに向ければ、必ず気づいてくれるはずだ!」
セイジは立ち上がろうとするが、アイリが慌ててその腕を引っ張った。
「ちょっと待って! まだ、今はダメ!」
「どうしたんだ? 助かる唯一のチャンスなんだぞ?」
「実は……あの、ずっとトイレ……我慢してて……」
「は?」
予想外の返答に、セイジは間の抜けた声を漏らす。
「そんなの、この辺の草むらでさっさと済ませてこいよ」
「だって……拭くものもないし、それに、その……匂いとかも気になっちゃうし……」
もじもじと俯く妹に、セイジは思わず頭を抱えた。
この死と隣り合わせの極限状態で、なんと乙女なことを言っているのか。
だが、「命さえ助かれば、どんな恥をかいてもいいだろう」と正論をぶつけるのは、少し違う気がした。彼女はまだ年頃の女の子なのだ。
「……拭くものなら、俺の上着のポケットに包帯やガーゼが入ってる。それを使えばいい」
「でも……」
「あと、ヘリの中はエンジンオイルやら汗やらで、元々それなりに臭いから匂いなんて気にするな。どうしても長引く時は、俺たちだって機内で簡易トイレを使うこともあるんだから」
「……ほんとに?」
「あぁ。だから気にするな、早く行ってこい」
少し不器用な、救助隊員ならではの説得。それに背中を押されたアイリは、顔を真っ赤にして茂みの奥へと駆け込んでいった。
数分後。スッキリした顔で戻ってきたアイリから鏡を受け取り、セイジは迫り来るヘリのサーチライトに向けて、真っ直ぐに光を反射させた。
キラリと一閃。
それは絶望の闇夜を切り裂く、希望のサインだった。見事に光に気づいたヘリが旋回し、二人へ向かって真っ直ぐに降下してくる。
「セイジ! よく無事だったな! それに妹さんも……本当によかった」
「隊長……ありがとうございます。……一緒にいた、ユウゴという男はどうなりましたか?」
「ああ、彼なら昼間無事に保護されて、すでに事情聴取も終えているよ。お前たち二人の献身的な行いを、涙ながらに語っていたぞ。お前たちの生還を知れば、さぞかし喜ぶだろうな!」
「なっ……!?」
「ん? どうしたセイジ、そんな険しい顔をして」
セイジは拳を強く握りしめ、懇願した。
「隊長、お願いです。報道には、俺たちは『遺体で発見された』と流してくれないでしょうか」
「……なんだと? なぜそんなことを」
セイジは、山の中で起きたユウゴの悪逆非道な振る舞いを全て打ち明けた。
話を聞き終えた隊長は、苦渋に満ちた表情で首を振る。
「……しかし、証拠がない以上、メディアに対して我々が虚偽の報告をするなど不可能だ」
「ですが、このままではまたアイリが危険に晒されてしまいます! あの男が油断している今のうちに、なんとかしなければ……!」
「セイジ!!」
隊長の鋭い一喝が飛ぶ。
「我々は人命を救う救助隊だ! たとえどんな事情があろうと、人を陥れるような嘘に加担することは許されん!」
「隊長、しかし……!」
「もういい、セイジ! お前は今日限りで救助隊をクビだ! そんな考えを持つ人間は、我が隊には必要ない!」
「そ、そんな……待ってください! 俺は……っ」
絶望しかけたセイジに対し、隊長はフッと口元を緩め、声のトーンをガラリと変えた。
「……おや? そこにいるのは、ただの『一般人』になったセイジじゃないか。なになに? 妹を突き落としたクズに復讐したい、だと?」
「え……?」
「我々『救助隊』は一切協力できないがな。一般人のお前が個人的に何をしようと、勝手にすればいいさ。……ただし、法に触れるようなマネだけは絶対にするなよ?」
そう言って、隊長はニヤリと笑い、力強く親指を立てた。周りにいた隊員たちも、無言でサムズアップを向けている。
彼らなりの、最大限のエールだった。
仲間の温かい絆に背中を押され、セイジは改めて、ユウゴへの制裁に乗り出す決意を固めるのだった。
救助されたセイジとアイリは、検査と治療のため直ちに病院へと搬送された。
処置を終え、同室となったセイジは、ユウゴの悪逆非道な振る舞いを語り「あの男を絶対に野放しにはできない」と告げる。
だが、アイリは震える声で首を振った。
「でも……ユウゴさんは、暴漢から私を助けてくれた恩人なの。だから、許してあげて……」
妹のあまりにも純粋な言葉に、セイジは胸を痛めながらも一つの提案をした。
「なら、アイリ。お前の口から直接、奴の『本性』を確かめてくれ。少しだけ芝居を打ってほしいんだ」
その夜。ユウゴのスマートフォンに着信が入る。画面に表示されたのは、谷底で死んだはずの『アイリ』の名前だった。
「も、もしもし……?」
『ユウゴさん……私、アイリよ』
「ば、バカな! お前は死んだはずだ! 誰だ、お前は!」
怯えるユウゴに対し、アイリは虚ろな声で紡ぐ。
『ええ、私は死んだの。でも……どうしても聞きたいことがあって、成仏できないのよ。本当のことを教えてくれれば、私は逝けるわ』
「な、何を聞きたいんだ……ッ」
『あの日……私が暴漢に襲われて、あなたが助けてくれたこと。あれは、あなたの自作自演だったの?』
「あ、あぁ、そうだよ! お前を手っ取り早くオトしたくて、子分に命令したんだよ!」
アイリの目から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。
『そう……。そこまでして手に入れた私を、どうして突き落としたの?』
「お前に飽きたからに決まってんだろ! あの日は最初から、お前を山に置き去りにするつもりだったんだよ。まさかあんなに早くロープが切れるとは思わなかったから、俺だけ助かろうとしたんだ!」
――聞きたくなかった残酷な真実が、次々と耳に突き刺さる。
『……お兄ちゃんを落としたのは、なんで?』
「あいつは、俺がお前を蹴落としたのを見た唯一の目撃者だからな。俺の平穏な人生のために、消えてもらうしかなかったんだよ」
ペラペラと自らの罪を告白するユウゴ。アイリの頬を伝う涙は、もう止まらなかった。
『……そう。いろいろ聞けて、スッキリしたわ』
「そ、そうか! じゃあ、もう成仏してくれるよな!?」
『ええ。もう、あなたとは永遠にお別れね』
そう言って、アイリは嗚咽を殺しながら静かに電話を切った。
その後、警察に提出された通話の録音データが決定的な証拠となり、ユウゴは逮捕された。
セイジの狙い通り、法による裁きは下されたのだ。
だが――最後までユウゴを信じたかったアイリの心は、真実という猛毒に耐えきれなかった。
事件からしばらくの後。彼女は自らの首を吊ってしまった。
少しだけ時をさかのぼる
ここ数日、深い沈黙に包まれていたアイリの部屋から、珍しく物音が聞こえてきた。
ずっと部屋に閉じこもっていた彼女に、ようやく変化の兆しが見えたのか。セイジが淡い期待を抱いて様子を見に行こうとしたその時――。
ガタンッ!
室内で、重い何かが倒れる大きな音が響いた。
「アイリ!?」
慌ててドアを開けようとするが、ビクともしない。鍵は掛かっていないはずだ。何らかの家具を動かして、内側から扉を塞いでいるのだと直感した。
「アイリ、開けろ! アイリッ!」
セイジは肩に全体重を乗せ、ドアに何度も体当たりを食らわせる。蝶番が悲鳴を上げ、ついにはバリバリと音を立てて扉がこじ開けられた。
部屋に飛び込んだセイジの眼前に広がっていたのは、最悪の光景だった。
部屋の中央で、アイリが首を吊っていた。
「……っ、クソッ!」
セイジの思考より先に、身体が動いた。救助隊員として叩き込まれた習性が、極限状態の彼に冷静な処置を強いる。
素早く彼女を降ろし、すぐさま心臓マッサージを開始した。まだ息はある。蘇生措置を行いながら、片手で救急車を手配する。その一連の動作は、皮肉なほど滑らかで、手慣れたものだった。
ふと、視界に机の上のメモが入った。そこにはアイリの震える字で、短くこう記されていた。
『お兄ちゃん、ごめんなさい』
――追い込んだのは、俺だ。
正しさを証明するために、彼女が信じていた最後の希望を無残に暴いてしまった。救助隊員として身体は救える。今の状況なら蘇生の確率は高いだろう。
だが、死を望んだ彼女が再び目覚めた時、俺は彼女にどんな顔で、どんな言葉をかければいい?
壊れてしまった彼女の心に、どうやって「生きる力」を灯せばいいのか。
セイジはその答えを求めて、出口のない暗闇を彷徨い続けていた。
「……ここは?」
消毒液の匂い。アイリは病院のベッドでゆっくりと目を覚ました。
「あら、気がついたのね」
様子を見に来た看護師が声をかける。
(そっか……私、死ねなかったんだ)
アイリの心に安堵はなく、ただ重い絶望だけが沈んでいく。
「あなたが首を吊った時、お兄さんが即座に的確な蘇生術を行ってくれたおかげで、命を繋ぎ止められたのよ」
また、お兄ちゃんに助けてもらったのか。アイリは激しい自己嫌悪に押し潰されそうになる。
「あ、あの……お兄ちゃんは?」
「そ、それは、その……」
看護師が気まずそうに言葉を濁した、その時だった。
「私から話すわ」
病室に入ってきた担当の女医が、静かに告げた。
「どうしたんですか? お兄ちゃんに何かあったんですか!?」
「アイリちゃん、落ち着いて聞いて。……あなたが自ら命を絶とうとした行為は決して許されることではないけれど、皮肉なことに、結果としてそれがあなたの命を救う引き金になったの」
「どういう……ことですか?」
「山から帰還した時のあなたは軽傷に見えたから、精密な検査は行わなかった。でも、見えないところで内臓が激しく損傷していたのよ。今回、首を吊ったショックと肉体的な負荷が引き金になって、体内で大出血を起こしてしまったの」
「でも、私は今なんとも……まさか?」
血の気が引くアイリに、女医は残酷な真実を突きつける。
「そう。あなたの命を繋ぐには、即座に大量の輸血が必要だった。でも、病院の備蓄だけでは到底間に合わなかった。……そこでお兄さんが、『自分はどうなってもいいから』と、自らの限界を超えて血液を提供し、あなたを救ったのよ」
「そ、そんな……私のせいで、お兄ちゃんが……ッ!」
嘘だと言ってほしかった。アイリはその場で泣き崩れる。だが、女医から告げられるのは、さらなる残酷な『現実』だった。
「ええ、そうね。あなたのせいでお兄さんはこんな事になった。……でも、泣く前に考えなさい。もしあのままあなたが死んでいたら、たった一人の妹を失ったお兄さんは、今のあなたと同じ気持ちを抱えて生きていくことになったのよ?」
「え……」
「自分が追い詰めたせいだ、と……残された側は、一生その痛みを背負って生き地獄を味わうことになるの。あなたにその重さがわかるかしら」
その言葉は、今のアイリの胸に痛いほど突き刺さった。
(私が死んでいたら、お兄ちゃんに……この『死ぬより辛い後悔』を押し付けていたんだ……)
今更気づいても、もう遅い。
ほんとにごめんなさい、お兄ちゃん。アイリはただ、戻らない兄へ向かって泣き叫ぶことしかできなかった。
泣きじゃくるアイリ。嗚咽にも似た咳を漏らす彼女の肩に、女医がそっと手を置いた。
「もう、こんな思いをするのも、させるのも懲り懲りでしょ?」
優しく問いかけられ、アイリは震える声で絞り出す。
「はい……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「そう。じゃあこれからは、二人仲良く生きていくのよ。……私がアイリちゃんを、お兄さんのところへ送ってあげるから」
「え……!?」
次の瞬間、突然アイリの視界が真っ暗になった。
兄の元へ送る? それはつまり、私を殺すということ?
(だめ……っ! せっかく、お兄ちゃんが命を懸けて繋いでくれた命……失いたくない!)
生きたいと、心の底から強く願った直後――パッと視界が明るくなった。
目の前に立っていたのは、手術着姿のセイジだった。先ほど視界が暗くなったのは、単に一度照明が落とされただけだったのだ。
「私、お兄さんが『死んだ』なんて一言も言ってないし〜」
女医が悪戯っぽく、てへぺろと効果音がつきそうな顔で笑う。
「ど、どういう事……?」
「それは俺が頼んだんだ」
セイジが一歩前に出た。
確かに彼が自分の限界まで血を提供したのも、アイリの手術が危うかったのも事実だ。だが女医は、セイジが死なないギリギリのラインを見極めて輸血を行い、見事に二人とも救い出していたのだ。
「でも、なんであんな……お兄ちゃんが死んだみたいな言い方を……ッ」
「たとえ今回助かったとしても、お前は罪悪感から、また命を投げ出しかねない。だから……『家族を失うこと』がどういうことなのか、一度お前にちゃんと知ってほしかったんだ」
「それは……でも……」
「残酷だとは思った。でも、アイリがこれからも生きるための『理由』を、どうしても作りたかったんだ」
申し訳なさそうに眉を下げる兄に、女医がウインクをする。
「アイリちゃん、あんな思い、もう二度としたくないし、させたくないでしょ? だからさっきも言った通り、これからは二人仲良く暮らすのよ」
「はい……っ、ありがとう……ございます……っ!」
再び泣きじゃくるアイリ。しかし今度の涙は、さっきまでの悲しみと絶望のそれではない。
「ってか……お兄ちゃん、あっち行ってよぉ……。私、今すごい顔くちゃくちゃで、全然可愛くないから……」
ここへ来て強がる妹に、セイジは優しく微笑んだ。
「どんな姿でも、お前は俺の可愛い妹だ」
そう言って、セイジは背後から愛おしそうにアイリを力強く抱きしめるのだった。




