棘の令嬢と不屈の騎士 ~万死に値する、と彼女はデレた~
「……何よ、その目は。不愉快だわ」
オルテンシア・ド・アルトワーズは、扇の向こうからローレルを鋭く睨みつけた。 金色の髪は完璧に巻かれ、最高級のシルクドレスを纏った彼女の姿は、まさに非の打ち所がない伯爵令嬢そのものだ。しかし、その口から放たれる言葉は、常にトゲを含んでいる。
「たかが護衛のくせに、私をじろじろ見るなんて、万死に値すると思わないの?」
対するローレルは、腰の剣に手をかけたまま、感情の読み取れない無表情で応じた。 「仕事ですから。不審者がいないか、周囲と、そして守るべき対象を注視するのは当然のことです」
「屁理屈ね! 私はね、あんたみたいな無愛想で、何を考えてるか分からない男が一番嫌いなの。さっさと私の視界から消えて……いえ、やっぱり離れないで! 護衛なんだから、三歩後ろを黙ってついてきなさいよね!」
オルテンシアはプイと顔を背ける。 だが、その耳の先が、夕焼けよりも赤く染まっているのをローレルは見逃さなかった。
「……承知しました、お嬢様」
「返事は一回! ……ったく、少しは『お綺麗です』とか言えないのかしら、この朴念仁……」
小さな呟きと共に、彼女は足早に歩き出す。ローレルは溜息を一つ吐くと、その背中を守るべく、静かに歩を進めた。
静寂が支配するはずの夜の回廊に、場違いな金属音が響いた。
オルテンシアが眉をひそめて文句を言おうと口を開いた瞬間、ローレルの腕が彼女の細い腰を強引に抱き寄せた。
「きゃっ!? ちょっと、何すんのよこの無礼……っ!」 「伏せて!」
鋭い怒声。直後、オルテンシアが先ほどまで立っていた場所の背後に、三本の投擲ナイフが深く突き刺さった。
暗闇から音もなく現れたのは、黒装束の集団だ。その数は五人。冷徹な殺気が、豪華な調度品で飾られた廊下の空気を凍らせる。
「……私の屋敷に、ネズミが迷い込んだようね」 オルテンシアの声がわずかに震える。しかし、彼女はローレルの胸元を掴みながらも、毅然と前を見据えた。
「ローレル。私の許可なく、ここでくたばることは許さないわ。いいわね?」 「命令とあらば。……お嬢様、俺の背中から離れないでください」
ローレルが剣を抜く。抜き放たれた白銀の刃が、月光を浴びて不吉に煌めいた。 彼は一歩前へ踏み出すと、襲いかかる刺客の一人を瞬きする間に斬り捨てた。鮮血が床を汚すが、ローレルの表情は石像のように動かない。
「死なせない。……貴女を汚させるものか」
低く、熱を帯びた声。 その背中越しに響く言葉に、オルテンシアは恐怖を忘れ、激しく鼓動する胸を押さえた。
「……当然よ。あんたは私の盾なんだから。守り抜きなさい。……一滴の血も、流すことは許さないんだから……!」
強気な言葉とは裏腹に、彼女はローレルの服の裾を、白くなるほど強く握りしめていた。
閃光のような太刀筋が闇を裂き、さらに二人の刺客が沈む。しかし、残った刺客の一人が、執念深く隠し持っていた小型のクロスボウをオルテンシアへと向けた。
「死ね、アルトワーズの小娘!」
放たれた矢は、必殺の軌道で彼女の喉元を狙う。 オルテンシアは目を見開き、迫りくる死のつぶてに身体を硬直させた。
「――っ!」
鈍い衝撃音。 オルテンシアが恐る恐る目を開けると、そこには自分の前に立ちはだかり、左肩でその矢を受けたローレルの背中があった。
「ローレル……!?」
「……かすり傷だ。気にするな」
ローレルは苦悶の表情一つ見せず、矢をへし折ると、そのままの勢いで最後の一人を一刀の下に斬り捨てた。 静寂が戻った回廊に、ローレルの肩から滴る鮮血が「ポタ、ポタ」と重苦しい音を立てて落ちる。
「ちょっと! 全然かすり傷じゃないじゃない! 何してんのよ、この馬鹿!」
オルテンシアはなりふり構わず彼に駆け寄り、震える手でその傷口を押さえた。高級なシルクのハンカチが、瞬く間に赤く染まっていく。
「言ったはずだ……俺は、あんたの盾だと」
「うるさい、黙れ! 誰が身代わりになれなんて言ったのよ! 私の許可なく傷つくなんて、万死に値するんだから……っ!」
彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 プライドも高慢さもどこかへ消え、ただ一人の少女として、自分を守り抜いた無愛想な護衛に縋り付く。
「……死んだら、許さないんだから。絶対に、絶対に許さないんだからね……!」
ローレルは、自分を叱り飛ばしながら必死に泣きじゃくる彼女の姿を、少しだけ困ったような、それでいて穏やかな眼差しで見つめていた。
騒乱が収まり、深夜の静寂が戻ったオルテンシアの私室。 ローレルはシャツを脱ぎ、肩に幾重にも包帯を巻かれた状態で、豪華すぎるソファの端に腰掛けていた。
その目の前では、オルテンシアが真っ赤な顔をして、甲斐甲斐しく(あるいは乱暴に)手当ての道具を片付けている。
「……お嬢様、もう十分です。後は自分でやれますから、休んでください」
「黙りなさいって言ってるでしょ! あんたは黙って座ってればいいのよ、この傷物!」
彼女は手を止め、鋭い視線をローレルに向けた。しかし、その瞳には先ほどの涙の跡がうっすらと残っている。オルテンシアはそのまま、ローレルの隣に無理やり腰を下ろした。
「……ねえ。なんであんな無茶をしたのよ」
「仕事ですから」
「またそれ! 仕事仕事って……あんたの命は、たった一回の依頼で捨てていいほど安いの?」
オルテンシアの声が震える。彼女はローレルの健常な方の腕を、ぎゅっと掴んだ。
「私のために死なれたら、私が一生、あんたのことを忘れられなくなるじゃない……。そんなの、嫌よ。……ずるいわ」
「お嬢様」
「オルテンシア、よ」
彼女は顔を伏せたまま、消え入りそうな声で訂正した。
「オルテンシアって呼びなさい。命令よ。……それから、もう二度と私に隠れて血を流さないこと。約束しなさい」
ローレルは少しの間、沈黙した。不器用な彼にとって、主人の心に踏み込むのは任務よりも難しい。だが、彼はそっと、自分の腕を掴む彼女の小さな手に、自身の大きな手を重ねた。
「……わかりました、オルテンシア。貴女が泣くような傷は、もう負わないと誓いましょう」
「……ふん、当たり前よ。あんたは私の……私だけの騎士なんだから」
オルテンシアは重なった手の温もりに、ようやく安堵したように微笑む。しかし、すぐに「勘違いしないでよね!」と叫びながら、顔を真っ赤にして跳ねのけた。
「今の……名前で呼んでいいって言ったのは、今日だけなんだから! 明日からはまた『お嬢様』に戻りなさいよね!」
そう言って部屋の隅へ逃げていく彼女の背中を見ながら、ローレルは微かに口角を上げた。
翌朝、伯爵邸のサンルームには、柔らかな陽光が差し込んでいた。
ローレルは昨夜の負傷を感じさせない毅然とした態度で、ティーテーブルの傍らに控えていた。そこへ、いつも以上に気合の入ったドレスに身を包んだオルテンシアが現れる。
「……おはよう、ローレル」 「おはようございます、お嬢様」
「……」
オルテンシアは席に着くなり、不機嫌そうにティーカップをスプーンでカチャカチャと鳴らした。ローレルが怪訝な顔をすると、彼女は頬を膨らませて彼を睨みつける。
「あんた、昨日の約束、もう忘れたの?」 「昨日……? 傷は負わないという誓いなら、忘れておりませんが」 「そうじゃないわよ、この朴念仁! 名前! 名前で呼びなさいって言ったでしょ!」
ローレルは困惑したように眉を寄せた。 「ですが、お嬢様ご自身が『明日からはお嬢様に戻れ』と仰ったはずですが……」
「それは……! それはその場のノリっていうか、とにかく、私が『呼びなさい』って言ったら呼ぶのが護衛の仕事でしょ!」
彼女は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、ローレルの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「いい? 私が許可した時だけじゃなくて、これからは……その、二人の時くらいは、ちゃんと呼びなさいよね。……命令なんだから」
語尾が小さくなるにつれ、彼女の視線が泳ぎ出す。ローレルは一瞬、呆れたように息を吐いたが、すぐに観念したように短く頷いた。
「……わかりました、オルテンシア」
その瞬間、彼女は弾かれたように座席に戻り、熱い紅茶を勢いよく啜った。 「――っあつ! ……べ、別になんともないわよ! 呼んでほしかったわけじゃなくて、あんたが私の命令を忘れてるのが許せなかっただけなんだからね!」
真っ赤な顔で必死に言い訳をする彼女を眺めながら、ローレルは「やれやれ」と肩をすくめる。 二人の間に流れる空気は、昨夜の硝煙の匂いとは打って変わって、砂糖菓子のように甘く、そして少しだけこそばゆいものに変わっていた。
厨房は、まるで戦場のような惨状だった。
床には小麦粉が舞い、高級な大理石の調理台の上には、無残にも真っ黒に焦げた「何か」が転がっている。
「……信じられないわ。この私がお肉を焼くなんて、魔法を使うより難しいなんて!」
オルテンシアは、煤で汚れた頬を拭いもせず、エプロン姿でフライパンと格闘していた。普段、針一本持たない伯爵令嬢の手には、小さな絆創膏がいくつも貼られている。
「お嬢様、やはり私共にお任せいただければ……」 背後でハラハラと見守る料理長が声をかけるが、彼女は烈火のごとく振り返った。
「黙りなさい! 私が、あいつに……あの無愛想な護衛に、日頃の『労働の対価』として、直々に慈悲を与えてあげるんだから! 他の誰かが作ったものじゃ意味がないのよ!」
彼女が作ろうとしているのは、ローレルが以前「嫌いではない」と言っていた、シンプルなミートパイだ。しかし、生地はガチガチに固まり、中身の肉は火が通り過ぎて炭のようになっている。
数時間の格闘の末。 ようやく「食べ物」の形を保った物体を、オルテンシアは震える手で重厚な木箱に詰め込んだ。
昼下がり、中庭で待機していたローレルのもとへ、オルテンシアがツカツカと歩み寄る。その後ろ手には、不自然に大きな包みが隠されていた。
「……これ、食べなさい」 「これは?」
彼女は顔を真っ赤にして、ひったくるように包みをローレルの胸に押し付けた。
「な、中身を見たらすぐ食べること! それから、不味いとか言ったら即座に解雇よ! いいわね、これはあくまで余り物なんだから。たまたま……そう、たまたま厨房の掃除をしてたら食材が余ってたから、私が処分してあげただけよ!」
ローレルが慎重に蓋を開けると、そこにはお世辞にも綺麗とは言えない、歪な形のパイが入っていた。
一口、ローレルがそれを口にする。 オルテンシアは、処刑を待つ罪人のような心地で、彼の喉の動きを凝視した。
「……味は?」 「……少し、塩辛いです」
「なんですってぇ!? 感謝して食べなさいよ、この……っ!」
「ですが」 ローレルは、不器用な令嬢が隠しきれなかった指の絆創膏に目を留め、残りのパイを一口で頬張った。
「誰かに作ってもらった食事というのは、存外、悪くないものですね。……ありがとうございます、オルテンシア」
「……っ! ……ふ、ふん! 分かればいいのよ、分かれば! 明日はもっとまともなものを『処分』してあげるから、覚悟しなさいよね!」
彼女はそう言い捨てて駆け出したが、その足取りは、羽が生えたかのように軽やかだった。
中庭でのやり取りを、本館二階の執務室から苦々しい表情で見下ろす男がいた。 アルトワーズ伯爵。オルテンシアの父であり、帝国の政界に重きをなす厳格な男だ。
「……ローレルを呼べ。今すぐにだ」
数分後、重厚な扉の向こう側でローレルは直立不動の姿勢を取っていた。部屋には沈黙が満ち、伯爵の放つ威圧感が空気を重く沈ませている。
「ローレル。貴公の仕事ぶりは聞いている。娘を暗殺者の刃から守ったこと、感謝の言葉もない」
伯爵は机の上に組んだ手に顎を乗せ、射抜くような視線をローレルに向けた。
「だが、先ほどの中庭での光景はどう説明する? 我が愛娘が、煤まみれになってまで料理を作り、あまつさえ護衛の貴公に『あーん』でもせんばかりの様子で寄り添っていた。……貴公、何か娘に術でもかけたか?」
「……術などは。私はただ、与えられた職務を全うしているに過ぎません」
ローレルの淡々とした回答に、伯爵は机を強く叩いた。
「職務だと!? 護衛の職務に、令嬢を赤面させて狼狽えさせる項目があったか? 娘は昔から誇り高く、男になど見向きもしなかった。それが今や、貴公が少し名前を呼んだだけで、熟れた果実のように顔を真っ赤にしておるのだぞ!」
伯爵は立ち上がり、ローレルの至近距離まで歩み寄る。その瞳には、親馬鹿ゆえの怒りと、娘を奪われることへの根源的な恐怖が混じっていた。
「正直に言え。貴公、娘を……オルテンシアをどう思っている」
「……」
ローレルは一瞬の沈黙の後、真っ直ぐに伯爵の目を見返した。
「命に代えても守るべき、至上の君主です。……そして、その傲慢な毒舌すらも、守るに値する美徳であると、今は考えております」
「……貴様、それはつまり……」
「これ以上の言葉は、私の立場では越権行為かと」
「くっ……! 言わせておけば!」
伯爵がさらに問い詰めようとしたその時、扉が勢いよく開け放たれた。
「お父様! ローレルに何の用よ! 彼は怪我人なのよ、あんまりいじめないでくださる!?」
顔を真っ赤にしたオルテンシアが乱入し、ローレルの前に立ちはだかった。伯爵は娘の剣幕に気圧され、「いや、これは……」と、帝国の重鎮とは思えないほど情けない声を漏らした。
「……いいだろう。そこまで言うのなら、貴公のその覚悟、口先だけではないことを証明してみせろ」
伯爵は娘の制止を片手で制し、鋭い眼光をローレルに向けた。
「明日、我が家が主催する狩猟祭が行われる。そこで貴公には、森の最奥に潜む『黒鬣の魔猪』を仕留めてきてもらおう。あれは並の猟師では手も足も出ぬ化け物だ」
「お父様! そんなの無茶よ! 彼は肩を負傷しているのよ!?」
オルテンシアが叫ぶが、伯爵は冷徹に言い放つ。
「怪我が理由で守るべきものを守れぬというのなら、それまでの男だということだ。ローレル、期限は明日の日没まで。仕留めて戻れば、今後お前が娘の傍にいることを、ある程度は……認めんこともない」
ローレルは、隣で顔を青くしているオルテンシアを一度だけ見て、深く頭を下げた。
「承知いたしました。必ずや、その首を携えて戻りましょう」
翌朝、森の入り口。 重装備に身を包んだローレルの腕を、オルテンシアが必死に掴んでいた。
「……バカじゃないの!? あんなの、お父様の嫌がらせに決まってるじゃない! 行かなくていいわよ、私がなんとか言い聞かせて……」
「お嬢様」 ローレルが、彼女の震える手をそっと解く。
「俺が俺自身の意志で、貴女の側にいたいと思っているんです。そのためには、伯爵の承認が必要だ。……違いますか?」
「っ……! 誰が、私の側にいてほしいなんて……!」 彼女はいつものように言い返そうとしたが、ローレルの真剣な眼差しに射抜かれ、言葉を飲み込んだ。
「……死んだら、承知しないんだから。……いい? 帰ってきたら、最高級の、昨日よりずっと美味しいパイを作って待っててあげるわ。だから……絶対に、無傷で戻りなさいよね!」
彼女はローレルの胸元に、自分のお守りである「紫陽花の紋章が入った小瓶」を無理やり押し付けた。
「これは貸し出しよ! 返しに来るのを忘れたら、一生呪ってやるんだから!」
ローレルは、その小瓶を大切に懐に収めると、一度も振り返ることなく、深い霧が立ち込める森の中へと消えていった。
霧が深く立ち込める森の最奥。腐葉土の匂いと、獣特有の重苦しい臭気が立ち込めていた。
「……来たか」
ローレルは、左肩の傷をきつく縛り直し、愛剣を引き抜いた。 茂みの奥から姿を現したのは、家畜の豚などとは比較にならない、巨木のような体躯を持つ**『黒鬣の魔猪』**だった。その牙は槍のように鋭く、赤い眼光には知性すら感じさせる憎悪が宿っている。
ドォォン!!
地響きを立てて突進してくる魔猪。ローレルは紙一重でそれを回避するが、巨体が通り過ぎた風圧だけで、周囲の若木がへし折られた。
「流石に、一筋縄ではいかないな……」
肩の傷が疼き、視界がわずかに歪む。 魔猪は瞬時に反転し、再び突進の構えを見せる。もはや回避は不可能。ローレルは覚悟を決め、低く身を構えた。
その時、懐に入れたオルテンシアの小瓶が、カチリと微かな音を立てた。
(死んだら、承知しないんだから……!)
脳裏に響く、あの身勝手で、誰よりも優しい少女の叫び。 ローレルの生存本能が、限界を超えて加速した。
「――はあぁぁッ!」
魔猪が牙を突き立てる寸前、ローレルは地面を蹴り、その巨体の懐へと飛び込んだ。 魔猪の剛毛が頬を裂く。だが、ローレルは怯まない。全体重を乗せた一撃を、魔猪の眉間、唯一の弱点である魔力の核へと突き立てた。
ギィィィィィアアアアッ!!
断末魔の咆哮が森を震わせる。 魔猪の巨体が崩れ落ち、周囲に激しい土煙が舞った。 ローレルは剣を支えに、荒い呼吸を繰り返しながら立ち上がる。服は裂け、全身泥まみれだが、その瞳には確かな勝利の光が宿っていた。
「……約束だ。無傷とはいかなかったが……戻らせてもらうぞ、オルテンシア」
彼は魔猪の巨大な牙を切り出し、それを肩に担ぐと、夕闇が迫る森の出口へと歩き出した。
夕闇がアルトワーズ邸の庭園を濃い紫に染める頃、森の境界線から一筋の影が現れた。
引きずるような足取り。泥と返り血で汚れ、ボロボロになった制服。しかし、その手には約束通り、魔猪の巨大な牙が握られていた。
「ローレル……!?」
バルコニーで立ち尽くしていたオルテンシアが、ドレスの裾を翻して駆け下りてくる。石畳を走る彼女の足元はおぼつかないが、それでもなりふり構わず、門を潜ったばかりのローレルの元へと飛び込んだ。
「ローレル! ローレル、あんたって人は……!」
ローレルは、今にも倒れそうな身体をなんとか支え、彼女の前に跪こうとした。
「お嬢様……ただいま戻りました。約束の品です……」
「そんなのどうでもいいわよ! バカ! 大馬鹿! どぶねずみ!」
オルテンシアは差し出された牙など見向きもせず、泥まみれのローレルの胸元に顔を埋めた。彼女の震える肩から、温かい涙がローレルの汚れたシャツに染み込んでいく。
「無傷で戻れって言ったじゃない! なんでこんなに傷だらけなのよ……死んじゃうかと思ったんだから……私を、一人にするつもりだったんでしょ!」
「……すみません。ですが、貴女の顔をもう一度見るまでは、死ぬわけにはいきませんでした」
ローレルが、残された力で彼女の背中にそっと手を回す。 オルテンシアは泣きじゃくりながら、彼の胸を何度も弱々しく叩いた。
「……もう、どこにも行かせない。お父様が何と言おうと、世界中の誰が反対しようと、あんたは私のそばにいるのよ。……離れたら、今度こそ本当に万死に値するんだからね!」
顔を上げた彼女の瞳は、涙で潤み、夕刻の光を反射して宝石のように輝いていた。 彼女は鼻をすすり、真っ赤な顔で、しかしこれまでで一番まっすぐな眼差しで彼を見つめる。
「……好きよ。嫌いだけど……大嫌いだけど、大好きよ! 責任、取りなさいよね。一生、私の隣で、私のために生きて……!」
告白という名の、あまりに傲慢で、あまりに切実な命令。 ローレルは微かに微笑み、彼女の額に、誓いを立てるように静かに自分の額を合わせた。
「――御意、我が愛しき君主」
二人の仲が深まったのも束の間、アルトワーズ邸に招かれざる客が訪れました。
辺境を守護する武門の名家、グレンデル辺境伯家の次男・カシム。 彼は「魔猪を一人で仕留めた護衛騎士がいる」という噂を聞きつけ、視察に訪れたのですが……彼の目的は、それだけではありませんでした。
「――貴女が、社交界のバラと名高いオルテンシア様か。噂以上の輝きだ」
広間で優雅に礼を執るカシムは、野性味溢れる精悍な顔立ちをした青年でした。彼はオルテンシアの前に跪くと、彼女の指先に熱烈な口付けを落とします。
「な、な……!? ちょっと、何すんのよこの野蛮人!」 オルテンシアは弾かれたように手を引きますが、カシムは不敵に笑い、傍らに控えるローレルを挑発するように見上げました。
「父上から聞いた。貴女のような気高い女性を、たかが雇われの騎士に守らせるのは酷だ。……どうだろう、我が辺境伯家へ来ないか? 貴女に相応しいのは、死神の匂いがする男ではなく、勝利を約束する私の隣だ」
完全なプロポーズ、そしてローレルへの明確な侮辱。 オルテンシアの顔が、怒りと戸惑いで一気に沸騰しました。
「あ、あんた、自分が何を言ってるか分かってるの!? 私が……私が、あんたみたいな図々しい男のところへ行くわけないでしょ! この、無礼者! 万死に値するわ!」
彼女は叫びながら、救いを求めるようにローレルを見やります。 しかし、ローレルは職務に忠実な無表情を崩さず、ただ静かにカシムを凝視していました。
「……ローレル! あんたも何とか言いなさいよ! こいつ、私のことを連れて行くって言ってるのよ!? 黙って見てる気!?」
ローレルは一歩前へ出ると、カシムとオルテンシアの間に割り込むように立ち、剣の柄に手をかけました。
「……カシム殿。お嬢様の仰る通り、これ以上の無礼は護衛として見過ごせません。お嬢様は、私の……いえ、アルトワーズ家の至宝です。貴殿のような不躾な御方に譲る予定は、今のところ、一分もございません」
「……ほう。ただの番犬かと思えば、牙を剥くか」
カシムは立ち上がり、腰の重剣を抜き放ちました。 「面白い。ならば、どちらが彼女の隣に相応しいか、この剣で白黒つけようじゃないか」
オルテンシアは、二人の間に火花が散るのを見て、顔を真っ赤にしながらも必死にローレルの腕を掴みました。
「ちょっと……! ローレル、絶対に負けたら承知しないんだから! 負けたら、本当にあんたの給料、一生分カットしてやるんだからね!!」
アルトワーズ邸の練兵場。石畳を照らす昼下がりの陽光が、対峙する二人の男の剣に反射して火花のように散った。
「辺境の剣筋、その身に刻んでやるよ。――死神の弟子!」 カシムが吠え、重厚な大剣を軽々と振り回して突進した。力任せではない、計算された暴力。石畳が悲鳴を上げ、凄まじい風圧が周囲を圧する。
対するローレルは、あえて抜剣せず、鞘に収めたままの剣でその猛攻を受け流した。
「ガキィィィィィィン!!」
「なっ……! 抜かないだと!?」 「……主人の前で、不必要な血を流すなと教育されておりますので」
ローレルの冷徹な声が響く。彼はカシムの力強い一撃を、最小限の動きでいなすと、重心を崩したカシムの懐へ一気に踏み込んだ。
「ふざけるなッ!」 カシムが無理やり剣を引き戻し、横薙ぎに払う。だが、ローレルは既にその死角へ回り込んでいた。
「終わりです」
ローレルが鞘のまま、カシムの手首を鋭く打った。 カシムの握力が弾け、重剣が石畳に突き刺さって虚しく震える。間髪入れず、ローレルは鞘の先をカシムの喉元へ突きつけた。
「……勝負ありだ。辺境伯の令息」
練兵場を静寂が包み込む。カシムは呆然と立ち尽くし、やがて悔しげに顔を歪めて両手を挙げた。
「……はっ、完敗だ。技も、冷静さも……そして、守るべきものへの執着も、お前には敵わないらしい」
カシムが潔く身を引いたその瞬間、観覧席から一筋の弾丸……もとい、ドレスをなびかせたオルテンシアが飛び出してきた。
「ローレル!!」
彼女はローレルの腕を掴むと、これでもかと彼を引き寄せ、カシムを鋭く睨みつけた。
「見たでしょ! 私のローレルが世界で一番強いのよ! 二度と私の前にツラを出さないでちょうだい! 万死! 万死に値するわよ!」
「……わかった、わかったよお嬢様。お熱いことで」 カシムは苦笑しながら、潔く練兵場を後にした。
オルテンシアはカシムが見えなくなるまで睨みつけていたが、ふと、自分がローレルの腕を抱きしめるように掴んでいることに気づき、弾かれたように離れた。
「……あ、あんた! 鞘のままなんて、格好つけすぎなのよ! 万が一負けたらどうするつもりだったの!? 給料カットじゃ済まさないって言ったでしょ!」
「信頼していただけていると思っていました」 「し、信頼なんてしてないわよ! 心配しただけ……あ、今のなし! 心配なんて一ミリもしてないわよ!!」
彼女は真っ赤な顔でローレルの胸をポカポカと叩くが、その表情には、誰にも彼を譲らなかったという安堵と、誇らしさが溢れていた。
夕刻、アルトワーズ邸の重厚な謁見の間に、かつてない緊張感が漂っていた。 上座には、厳格な面持ちの伯爵と、その傍らで祈るように手を組むオルテンシア。そして正面には、正装に身を包んだローレルが立っていた。
「……ローレル。貴公の素性を改めて精査させてもらった」
伯爵が、一枚の書簡を机に置く。
「北方の国境を守護するローレンツ家。家格こそ『気子爵家』という吹けば飛ぶような小家だが……その血脈は、建国以来の武門の名門。貴公がその嫡男でありながら、家を捨てて傭兵に身を落とした理由は、もはや問わぬ」
オルテンシアが目を見開く。 「ローレル、あんた……貴族だったの? なんで言わなかったのよ!」
「捨てた名に意味はないと思っておりましたので」 ローレルは淡々と答えるが、伯爵はその言葉を遮るように首を振った。
「いや、意味はある。辺境伯の次男を退け、魔猪を屠り、我が娘を救った。その実力に相応しい『格』が貴公にあるならば、もはや反対する理由はどこにもない。……ローレル・フォン・ローレンツよ。貴公をアルトワーズ伯爵家の『筆頭騎士』として、正式に叙任する」
それは、単なる雇われ人からの昇格ではない。オルテンシアの「婚約者候補」として、アルトワーズ家が公式に認めることを意味していた。
「……っ!」 オルテンシアは、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「ちょっと、お父様! それじゃ、まるで私があんたを……こ、この不愛想な男を選んだみたいじゃない!」
「選んだのだろう? 違うのか、オルテンシア」
「それは……! それはそうだけど! でも、私から言う前に勝手にお墨付きを与えるなんて、万死に値するわよ!」
彼女は毒を吐きながらも、その瞳には隠しきれない歓喜の涙が溜まっていた。彼女はローレルの前まで駆け寄ると、その胸ぐらを掴むようにして引き寄せる。
「いい? 貴族だろうが騎士だろうが、あんたが私の『所有物』であることに変わりはないんだからね! 私が許可するまで、一生私の隣で……今度は『対等』な相手として、苦労しなさいよね!」
ローレルは、初めて見るほど穏やかな微笑を浮かべ、彼女の手に自分の手を重ねた。
「……仰せのままに、マイ・レディ。貴女に一生振り回されるのが、私に与えられた最も困難で、最も幸福な任務のようです」
「……ふん! 分かればいいのよ!」
夕日に照らされた謁見の間で、ツンデレ令嬢と不器用な騎士の新しい物語が、今、公式に動き出した。
アルトワーズ伯爵邸の大聖堂は、数えきれないほどの紫陽花と白いバラで埋め尽くされていた。
「……信じられない。何よ、この鏡に映っている女は。派手すぎて、まるで歩くシャンデリアじゃない」
控室で、オルテンシアは純白のウェディングドレスを纏い、鏡の中の自分を睨みつけていた。しかし、その手は震えており、頬は薄紅色に上気している。
「そんなことはありません。世界中のどの宝石よりも、今の貴女は輝いていますよ、オルテンシア」
背後から声をかけたのは、白銀の礼装に身を包んだローレルだった。かつての無骨な傭兵の面影は消え、今や一国の騎士爵としての風格を漂わせている。
「あんた……! 勝手に入ってこないでって言ったでしょ! 万死に値するわよ! それに、何よその顔。私の美しさに見惚れて、語彙力まで失くしたのかしら?」
「ええ、その通りです。言葉を失うほどに、貴女は美しい」
ローレルが迷いなく真っ直ぐに答えると、オルテンシアは「うぐっ……」と言葉を詰まらせ、扇で顔を半分隠した。
「……もう、相変わらずあんたは……。数年経っても、少しは私をからかうくらいの余裕を持ちなさいよね。これじゃ、どっちが主人か分からないじゃない」
「今日からは『主人と護衛』ではありません。『夫と妻』です」
ローレルは彼女の前に立ち、優しくその手を取った。かつて泥にまみれ、剣を握っていた彼の指先が、今はオルテンシアの指に、誓いの証である巨大なダイヤの指輪を滑り込ませる。
「……分かってるわよ。あんたは一生、私の隣で、私のために苦労する義務があるんだから。もし私を泣かせたり、一秒でも目を離したりしたら、その時は……」
「その時は、万死に値する、ですね?」
ローレルが先回りして言うと、オルテンシアはついに、この日一番の、そして人生で一番幸せそうな笑顔を見せた。
「……分かってるじゃない。一生かけて、私に尽くしなさいよね。ローレル」
「御意、私の愛しき奥様」
教会の扉が開かれ、眩い光の中へと二人は歩き出す。 鳴り響く鐘の音と、参列者の歓声。その中心で、世界一素直になれない花嫁は、隣にいる最愛の騎士の腕を、誰にも渡さないと言わんばかりに強く抱きしめていた。
【完結】




