右岡の足跡を追って
「なぬ? 探偵だとぉ……?」
先野光介の眼の前にいる男は極道だった。
初対面では愛想がよかったが、用件を述べると途端に態度が変わった。その豹変ぶりは見事なもので、本性を剥き出したその男からは、なにをしでかすかわからない狂気が垣間見えた。
連れてこられたのは、それほど大きな事務所ではない。電話して待ち合せたらその男が駅前にいた。
若い男だった。三十歳にはなっていないだろう。スーツは着ていたが、顔つきからすでに堅気ではなかった。そこはかと漂う雰囲気には修羅場をくぐり抜けてきた、ある種のタフさがあった。
駅前から歩いて二分ほどの雑居ビルのなかの事務所には看板さえ掲げられておらず、それだけで違法性が高かった。消費者金融――と名乗ってはいるが、むろんまともな商売はしていない。借金にまみれて首が回らなくなった債務者をカモにして鎖で繋いで生かさず殺さず搾取するのだ。暴力団と関係あるのは疑いようがなく、この男も構成員に違いない。
「探偵がなにしに来やがった」
探られる、というのを極度に嫌う性質のためか、先野に対する態度がひどく攻撃的である。
「人をさがしているんですよ」
と、先野はストレートに言った。
「出ていけ」
金貸しの男は対話を拒否した。取り付く島もない口調で先野を見下ろす。
「商売の邪魔だ」
「まぁ、少しばかり雑談に付き合ってもいいでしょうが。お客さんもいないことですし」
身長では先野のほうが圧倒的に低い。低いが、萎縮などしない。
「借金を肩代わりしたおじさんがいたでしょう?」
本題を切り出した。相手が聞く耳を持つ気がないとなれば、用件は早めに言ったほうがいい。向こうは先野を警戒しているのだ。探偵などといういかがわしい人間に関わって、つまらない損害をこうむるのはご免なのである。
「ああ?」
金貸しのその反応は、「覚えている」と見えた。相当レアなケースだから記憶に残らないわけはないだろう。
だから先野は相手が動く前に、ボクサーがジャブを放つがごとく重ねて言った。
「スナックの女に熱を上げて、典型的なダメ男ですよね。で、そのあとどうなったか聞いていますかな?」
「知らねぇよ。こっちはしっかり利子をつけて返済してもらえればそれでいいからな」
(食いついた!)
意識の高いヤクザならここで会話を打ち切って、力づくでも先野を追い出すだろう。親しみを持たれるような、余計な雑談はしない。その拒絶は、いわば恐れの裏返しでもある。暴力団対策法によって身動きが取りにくい昨今、隙は見せられない。
とはいえヤクザとて人間である、面白そうな話は聞きたくなるものなのだ。もっとも、誰もが興味をそそられるかといえばそうもいかない。そこは当然ながら先野もわきまえている。相手の性格を瞬時に読み取り、勝負をかけるかどうかを判断するのだ。巨石のように、どうやっても動かすのが無理だと思える相手ならば、尻尾を巻いて退散するしかない。
だがこの金貸しはまだ見込みがありそうだった。
「可哀想に、その女に逃げられてしまったんですよ。気持ち悪がられたんでしょうな」
「ぐはっ」
金貸しは吹き出した。
「――だからおれは言ったんだよ、あの女には入れ込むなって。スナックの外でおれが出てくるまで待ってまでして、あの女の借金を肩代わりしようなんざ、イカれてる」
女に逃げられ呆然としている比森の顔が目に浮かんでいるのか、愚者を嗤うように口元がゆるんでいた。
「彼女はスナックを辞めて、連絡先もわからない。引っ越してしまったとママから聞いて、けれどもあきらめきれない」
「そりゃあ、そうだろうよ。六百万円もつぎこんで、その女をモノにできなかったとなれば。なるほど……で、おまえはそいつの代わりにその女をさがしてるってわけか」
「ご明察です」
「帰んな」
が、金貸しはそこでぴしゃりとつき放してきた。
「そういうことなら、なにも教えることはないぜ――」
少し余裕が出てきたのか、煙草を取り出し火をつけた。ふうっと紫煙を吐く。
「その女の個人情報は廃棄せずにおいてある。また顧客になってくれるかもしれんからな。だが逃げたとなると、それはもう役に立たない。住所も電話番号もSNSのIDも変更されてるだろう」
「私もそう思います」
「なら、なにを聞きに来た」
「彼女の勤め先が知りたいです。昼間に派遣社員として働いていた職場ですよ。登録している派遣会社でもいい」
「そこも辞めているだろうよ」
「知ってるんですね?」
「それは教えられねぇな。自分でさがしな」
「会計事務所はどこにあるんですか?」
ちっ、と金貸しは舌打ちした。途端に不機嫌になった。
取り立てに行っているとなれば、場所ぐらい覚えているはずだ。そんなに昔のことでもない。
「鬼牧市だ。それ以上は教えられん。出すもんを出してもらえれば別だがな」
ニヤリと笑みを浮かべた。先野から情報料を引き出す算段だ。
小出しにして吹っ掛ける気だろうが、先野はその手には乗らない。
「こちらも虱潰しに調べるよりお金で情報が買えるならそのほうがいいと思いますが、予算が限られてるんで五千円が上限なんです。それで無理なら帰ります」
「しみったれめ、煙草代にしかなりゃしねぇ……。わかった、ちょっと待ちな」
男はスマホを取り出し、太い指先で操作する。
「盟田会計事務所で、派遣会社はクリアワークだ」
「それはどうも……」
先野は、あらかじめ内ポケットにしのばせていた五千円札を指先でつまんで差し出す。これであちこち歩き回って時間を空費することもなくなったのだから安いものである。
原田翔太から電話がかかってきたのは、ちょうど闇金の事務所を出たところだった。チャイムを鳴らし続けるスマホの画面を見て、コールしてきた相手を知る。
「どうした、ハラショー」
『先野さん、実は、ちょっと相談したいことがありまして……』
「相談……? なにかわかったのか?」
『一度事務所に来てくれませんか……?』
原田の声には困惑の色が含まれているように感じられた。電話では要領を得ない、ということはよくある。
騒々しい道端で込み入った話をしたくないというのもあり、
「わかった、すぐ事務所に戻ろう」
と、通話を切った。
電車で三十分ほどかけて事務所に向かう。平日の電車内は乗客も少なく、のんびりとした空気が漂っていた。低い冬の日差しが窓から差し込む。
駅から歩いて五分ほどの雑居ビルの三階のひとフロアすべてを借り切っている新・土井エージェントは、興信所としては手広く商売をしているほうだろう。
売上の半分は企業からの依頼だ。企業の調査を行うといっても産業スパイなんかではない。取引しても問題ない企業なのかどうかを調べる、いわゆる信用調査だ。
そしてもう半分が、先野が所属する探偵部である。浮気調査、身辺調査、人さがし、ペットさがしなどが主な業務の、いわゆる私立探偵である。
ミステリー小説によく登場するような、刑事事件に関わることはほとんどない。警察の捜査に加わって犯行現場に立ち会うなどというのはありえない。かといって捜査に協力するシーンがないかというと、そうでもなかった。たとえば依頼人からの求めに応じてストーカー被害を調査していて、このままでは危険であると判断される場合ならば警察へ連絡することもある。
先野自身、過去に浮気調査をしていて不倫相手との刃傷沙汰に巻き込まれそうになったことがあった。幸い大事には至らなかったが、人間の隠したい部分を暴く面もあるゆえ犯罪に遭遇する率も他の職業よりも高いといえるだろう。それでもそういう仕事をわざわざ選んでいるのは、ある種のプライドや職業意識のたまものなのかもしれない。
コートの襟を合わせ、吹きつける北風に口元を引き結んだ先野は、ビルの玄関に入ると細い通路の奥に設置されたエレベーターに乗る。
三階で降りると、正面に「新・土井エージェント」のプレートを貼り付けたドア。開けると、そこは面談コーナーだ。受付カウンターがあり、その横に天井まで届くパーテションで区切られたブースが六つ壁際に並ぶ、細長い部屋である。
カウンターの横の「従業員用《STAFF ONLY》」のドアから事務所内に入ると、事務机が並ぶだだっ広い空間。
普通の会社の事務所なら大勢のビジネスパーソンが忙しく働く活気ある職場なのだろうが、興信所はがらんとしている。ほとんどの仕事が外回りなので、営業部のように人が少ないのである。それでも資料の整理や書類作成のために個人のデスクは用意されていた。
先野が事務所に来たときも原田しかいなかった。
「あ、先野さん、おかえりなさい」
立ち上がって迎える原田。
「なんだ、今日はハラショーひとりしかいないのか……?」
マネージャや一般事務をしている部署は、隣の部屋であった。
「はい、そうなんです」
「珍しいな……。ところで、電話で呼び出すとは何事なんだ?」
「はい、実は――」
原田は、今朝飛び込みの依頼客が来まして……と、その顛末を話した。
「なるほどな」
説明を聞いていた先野はうなずいて、さがし人だというモノクロの細密画をながめる。
「確かに変わった依頼者だ」
カネを持ってなかったり、字が書けなかったり。
「それで……いま、サブとして先野さんの案件に関わっている手前、相談しないといけないだろうと……」
「で、この案件をメインで受けたから、おれのサブを降りたいと……?」
「はい……。たいへん申し訳ないですけど……」
「ハラショーはまだ新人だからな。二つも案件を同時に抱えられないというのはわかる」
先野が理解を示したことに、原田はほっとする。
「しかしこの依頼、おまえ一人で解決できるか? っていうか、よくこんな依頼を受けたな」
「はい、ですから誰かに手伝ってもらえとマネージャさんが……」
「まぁ、そうだろうな……」
原田一人では荷が重いだろう。
先野は細密画を原田のデスクに置き、突き返す。
「いいぜ、おれが手伝ってやろう」
「えっ、しかし……」
「みくびるんじゃねぇ。それぐらいで顎を出すかよ。期限を切られているわけじゃないんだから並行して進められるさ」
頼りがいのある先輩風を吹かせる先野であった。
「――とはいうものの、手がかりが少なすぎるなぁ。せめてもう少し情報がほしいところだ」
「はい……それはぼくもそう感じましたが……先野さんでも、これだけでは無理ですか……」
「限りなく不可能に近いな。名前と写真だけでさがしてくれなんて無茶もいいところだ。このマクイシセンキって男は、依頼者とどういう関係なんだ」
「それは……」
「スマホも持ってないその依頼者、次はいつ事務所に来るんだ?」
「五日後です」
「ではそのときに追加の情報を引き出したいものだな。それまでは、この心もとない手がかりだけでなんとか捜索を進めるしかないわけか……」
スマホの呼び出し音が鳴りだした。
原田はスーツのポケットからスマホを取り出すと机の上に置いて、画面を見る。知らない番号からだったが、探偵をしていたらよくあることだ。通話ボタンをタップする。
「はい、原田です」
『あの、〈クラブメゾピアノ〉のシャローです』
置いたスマホから声がする。昨日の夜、聞き込みに行ったホストクラブの店員からだった。
「ああ、昨日はお時間をいただきましてありがとうございました」
右岡奈音が贔屓にしていたホストはシャローの他にもう一人いたが、半年前に辞めていたという。
『いえ……。それで、そのときに店長も言ってましたが、元店員のマコトと連絡がつきまして、右岡さんについてなにか覚えているか訊きました』
「どうでした?」
『はい、よく覚えているようでした。探偵さんに会って話をしてもいいかと訊いたら、明日なら時間を取れそうだと言ってます』
「それはありがたいです」
『時間は何時からがいいですか?』
「それはマコトさんの都合に合わせますし、場所もどこへでも行きますよ」
『ではマコトにそう伝えます。決まったら、また電話します』
「お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
通話が切れる。
だだ漏れの通話内容を黙って聞いていた先野が、
「ちょうど仕事ができたようだな。おれの案件から降りる前にそれはすませてしまってくれ。明日、行ってくるといい。それまでは……作戦会議をするか」
「はい……お願いします」
原田は素直に頭を下げた。なにもかもが急に目まぐるしく動き出したようだった。