別矢と帆村と比森
直接会うのは初めてだった。
パソコンの画面で顔は知っていたし、会話はずっと以前からしていたから、直接会う必要をお互いに感じていなかった。それで仕事はできていたし、とくに不自由はなかった。
誰からも、ひとつの組織を作って活動しようという話が出たこともなかった。このままの体制で続けられるのならそれでいいと、なんとなく思っていた。
ついひと月半前までは。
幕石閃輝からの連絡がなくなってから、もうそんなにもたっていた。
別矢芽依咲は細い糸を手繰り寄せるようにして幕石の消息を求めた。しかしお互いの個人情報については明かしていなかったため手がかりが少なく、半月の間あちこちに問い合わせ訪ねてまわっても行方はわからないままだった。
だいじょうぶ、いつか連絡してくるさ――。
そう楽観視していたもう一人の仲間、帆村央晴であったが、さすがにここに来て気楽にかまえていられなくなった。
一度、会わないか――?
帆村は別矢にそう呼びかけた。
――幕石さんのことで話し合おう。そして今後のためにも互いの個人的な諸々も知っておこう。
そう提案したのだ。幕石をさがす別矢の行動は、仕事のパートナーだというのにお互いが一度も直接会ったことがないという不安からきているのだから。幸いにも、三人ともそれほど離れた場所に住んでいなかった。
「ちょうどよかったです。訪ねようと思う場所があるから、いっしょに行きましょう」
すると別矢はそう言って、日時と場所を指定してきた。
なにをしに行くのかと尋ねると、
「幕石さんの手がかりを聞きにいくんです」
と答えた。
都会に隣接する住宅街の最寄り駅へは、ほぼ十数分間隔のダイヤで運行されている路線であるため、指定された時刻に到着はしやすかった。平日の午前とあってか乗降客はそれほど多くない。帆村がホームから数人の乗客とともに階段を降りて自動改札を抜けると、
「帆村さん」
歩み寄ってくるのは、意外と背丈が小さい女性だった。薄茶色のコートを羽織った下にはビジネススーツにネクタイで、いつも画面越しに見ているのと印象が違う。
「ああ、別矢さん、初めまして……というのは、なんか違いますね」
なんだか緊張してしまう。
「そうですね。帆村さんは画面で見たのとおんなじですね。とりあえず用事を先にすませましょう。互いの情報交換はそのあとで――。じゃあ、行きましょうか」
歩き出す別矢。
帆村にもスーツを着てくるように言っていて、これから向かう先は、比森という男性の事務所兼自宅ということであった。
帆村には、そして別矢にも面識のない人である。別矢がさんざんあちこち尋ね回ってたどり着いた、幕石閃輝を知る人間であった。元は、幕石の上司であったという。一年ほど前、今の音楽制作で成功するまで勤めていた会社の社長である。社長といってもベンチャー会社で社員は数人。事務所も自宅の一室を改装して仕事場としていた。
幕石が副業として始めた音楽制作は、別矢と帆村と出会ったことでブレイクし、会社員としての収入を超える勢いであったため、思い切って退職したのだった。以降、楽曲制作に専念していた。しかし退職後も比森社長とは交流はあったらしい。
別矢はそこまでつきとめていた。幕石が行方不明になっている手がかりを知っているかもしれないと、訪問して直接聞こうというのであった。
日差しはあったが冷たい風がときおり吹いて街路樹の枝をざわざわと揺らし、春はまだ先だと思わせた。数日前に少し積もった雪が、日陰ではまだ溶けきっておらず黒く汚れていた。
スマホで地図を確認しながら住宅街を進むこと数分――
「ここですね……」
到着したのは一戸建ての住宅だった。建坪二十もなさそうな二階建てで築年数はかなり古そうだった。周囲も似たような外観の住宅が多いことから、おそらくこの辺りは同時期に開発された地区なのだろう。
表札には確かに「比森」とあり、その横に小さく「株式会社Rpj」というプレートが貼り付けてある。
この家に比森は一人で住んでいた。生まれたときからここで両親と暮らしていたわけではない。成人すると田舎から都会へ出てきて働いていたが、ベンチャー会社を立ち上げるにあたって自宅兼事務所にできるような中古物件を購入したのだ。そこも別矢の調べでわかっていた。
「いいですか、帆村さん。わたしたちは社会保険庁の職員で、あくまでそういう態度で訪問してきたと装ってくださいよ。公的機関の用事じゃないと、なかに入れてくれませんから」
「あ……はい……」
そんな探偵みたいなことまでする必要があるのかなと帆村は首をひねる。首から下げるネームプレートまで作ってきている念の入れようは、どこか恐ろしくさえあった。
別矢は呼び鈴を押す。普通のチャイムが鳴った。
「はーい」
数秒後、疲れたような男の低い声がインターホンから聞こえてきた。
「おはようございます、こちら社会保険庁から参りました別矢と申します。御社の提出書類につきまして不備がございましたので説明にあがりました」
練習でもしてきたのか、淀みなく言った。
「社会保険庁……? ちょっと待ってください……」
インターホンから戸惑い気味な声。
しばし待つと、門扉とさほど距離のない玄関ドアが開いた。どこか冴えない中年男が訝しげな顔を見せる。頭髪がやや後退していた。
別矢は深々とお辞儀する。
「突然すみません。書類をお持ちしましたので説明に上がらせてもらってよろしいでしょうか?」
すらすらと、まるで舞台俳優のように架空の用件をニコニコと告げる別矢に、比森は「はぁ……?」と心当たりがないといった返事。だが追い返すとあとで面倒なことになるかもしれないと、話だけは聞こうという感じで、
「どうぞ……」
と、陰気な声で二人を通した。
玄関を上がってすぐ右側の部屋が事務所として改装されていた。広さは十六帖ほどあり、元はリビングルームだったのだろう。
比森のほかに従業員はいなかった。キャビネットから出された書類が足の踏み場もないほどに積み置かれていて、通常の業務をしているようには見えない。
会議用のテーブルがすみにあり、六人が囲めるよう椅子が置かれていた。
「で、書類というのは……?」
比森が問いかけると、
「すみません。わたしたちは本当は社会保険庁の職員じゃありません」
別矢はさらりと言ってのけた。
「どういうことですか?」
意味がわからず、問い返す比森。
「幕石さんから来た最後のメッセージには、『これから比森さんとクルーザーで海に出ます』でした。そのあとなにがあったのか聞かせてください」
あっ……と、比森の表情が引き歪む。
「電話では、幕石さんの名前を出した途端に切られましたから、今日は、多少汚い手を使ってでも直接聞こうとやって来たんです」
気まずそうに目を逸らす比森。
「幕石さんはここで働いていたんですよね? 比森さんの会社で」
「それがどうした。幕石は一年も前に退職した」
「あの夜、どうして幕石さんのクルーザーに比森さんは乗ってたんです?」
「たまたまだ。あいつが音楽で成功して、中古のクルーザーを何百万円かで買ったというから、どんなものか見てみようと思ってな……」
「幕石さんはなんで夜中に海に出たんでしょうか……? 比森さん、なにか知ってますか?」
「知らんよ、そんなこと……」
わずかに強い口調で、比森は答えた。
「帰港してからの幕石さんのことは、なにか知りませんか? たとえばどこかへ行くとか、言ってませんでした?」
「知らんといったら知らん。帰ってくれ、仕事の邪魔だ」
「仕事って……」
別矢の行動力に感心して口を差し挟めなかった帆村は室内を見回し、
「この書類の山は……?」
部屋に入ってきたときから感じていた疑問を口にした。
「会社をたたむんだよ。廃業だ。書類を全部処分しようとしているところなんだ。社会保険庁に提出し忘れた書類でもあったかな、と思っておまえらを通したが、だましやがって」
不機嫌そうに比森は吐き捨てた。
ああ、それで、と帆村は納得する。従業員が誰もいないのも、そういうことだったのだ。
「どうして会社を閉じてしまうんですか?」
「それを訊くか? 業績不振しかないだろ。こんな小さな会社、銀行も相手にしてくれない……」
「そうでしたか……」
それはお気の毒だと比森に同情する。会社を立ち上げるはいいが、五年もたずに行き詰まってしまうのがほとんどだという。成功したとしても、今度はそれを維持・拡大していくのが難しい。苛烈な資本主義の競争という荒波を乗り切り、安定した企業に育て上げるのは至難の業だ。一国一城の主になるべくさんざん苦労した末、夢やぶれて、あとに残るは莫大な借金……それが起業の現実なのである。
「もう話すことはなにもない。わかったら帰ってくれ」
そこへ、スマホのコール音。帆村のスマホだった。ちょっと失礼、と言ってポケットから取り出すと、解放されたかのようにコール音が大きくなる。
画面の「店長」という表示に、目を細めた。元の職場であるホストクラブ「クラブメゾピアノ」の責任者であるが、辞めて半年もたっているいまごろになんの用なのか見当もつかない。
帆村は背中を向け、通話アイコンをタップ。
「はい、帆村です……」
店長は、『いま、いいか』と断ってから用件を切り出した。
はい、はい、と相槌を打ちながら聞いていた帆村は、
「右岡奈音さん、ですか……? はい、憶えていますよ。贔屓にしていただいていたので、アフターや同伴(営業時間外のデート)にもつきあいましたよ」
『どこかに引っ越してしまったそうなんだが、その……、行方をさがしている探偵さんに一度会ってもらえないかな。都合のいいときでいいし、そちらに出向くと言っている』
「でも……」
『言える範囲でいいと思うよ。言いたくないこともあるだろうし。探偵さんに、依頼人がなんで行方を知りたがっているのかとか詳しく聞くといい……』
「はあ……」
予想していたどんな話でもなく、帆村はキツネにつままれたように戸惑う。
「わかりました……では、明日でお願いできますか。昼間でも夜でも、時間はとれますし」
『そうか。わかった。探偵さんにそう伝えておくよ。ところで、そちらの仕事はどうだい? 調子がいいようだけど』
「ええ、まぁ……」
帆村はごまかした。これまでは順調だったし、怖いくらい順調すぎた。だが今後はどうなるかわからない。楽曲制作の幕石閃輝と連絡がつかなくなって、こんな根無し草のような暮らしが続けられるのかどうか、その瀬戸際にいまはいた。
『そうか、もしうまくいかなくなったとしても、いつでもうちに戻ってきていいから』
「はい、ありがとうございます……」
『それじゃ、また連絡するよ』
通話が切れた。
帆村が、失礼しました、と言って振り向いたとき、眼前に比森がいた。
「おまえ、右岡奈音とどういう関係なんだ!」
目をむいて激しい口調で詰問してくる。
「なんですか、突然?」
帆村が呆気にとられていると、胸倉をつかまれた。
「どういう関係なんだと訊いているんだ。答えろ。右岡奈音をどこへ隠した!」
「手を放してくださいよ。いったいなにを言ってるんですか……」
「知っていることをすべて言え。あいつはおれに恩があるのに……」
「ちょっと比森さん、落ち着いてください!」
別矢が割って入った。
「――いきなりどうしたんですか」
「こいつは、右岡奈音のなんなんだよ」
別矢にも食ってかかった。
「右岡奈音さんは、ぼくのお客様ですよ。ぼくがホストだったときの──」
別矢と帆村は疲れ切った表情で比森宅を出た。
嘘までついて面会したものの、知りたいことは結局わからずじまいであった。だが比森が強い口調で知らないと言ったのが別矢には気になった。なにか隠しているのではないかと疑いたくもなるが、かといって口を割らせるのは無理だろう。一念発起して立ち上げた会社をたたまなければならない心情を思うと不機嫌がちになるのもわからないではないが、それにしても……と、あの否定のしかたはただ事ではないような気がしてならない。
(それと……)
と、隣を歩く帆村をちらと見る。──女性への執着心が異様に映った。
「右岡さんでしたっけ……比森さんはどこで知り合ったんでしょう?」
「さぁ……おれはよく知らないよ」
「探偵さんに会いに行くんですよね?」
「一応……」
「でも、比森さんが探偵を雇ってまで、その女性をさがしてるなんて、ちょっと引いてしまう。だから逃げられたんじゃないですか。見つからないほうがいいんじゃないと思います。なんか、悪い未来しか見えてこない」
帆村は、うんうんとうなずいた。
「おれもそんな気がする……」
協力しないほうがいいかもしれない。
「──でも、電話では探偵に会うって言ってしまったし」
「いまからでもキャンセルしたら……?」
「いや、おれからの情報がなくても、探偵だからね、どこからか手がかりをたどって見つけてしまうかもしれない。だからおれが探偵に、そういう懸念を伝えようと思う。比森さんとは会わせないほうがいいって……。だいたい、右岡さんは二十代なんだよ。比森さんとは年齢が釣り合わない」
「そうですね。それがいいかもしれない」
別矢はそう言いつつ、それはそれとして――と困ってしまっていた。幕石の消息はどうしたらわかるのかと、やっとたどり着いた比森からならなにかわかるだろうと思っていただけに、行き詰ってしまった。
「わたしたちもいっそ探偵に頼もうかな……」
ぽつり、とつぶやいた。