UMAハンター虫州
モーターボートが沖合で停止する。船外機を取り付けただけの小さく頼りないボートは、エンジンを止められて静かに波間に漂い出す。山を背負った陸地は視界にあるが、かなりの距離がある。
天気は快晴。波は穏やかで風も強くない。週間予報でここのところはそんな天候が続き、そういう日を狙って沖に出ていた。
「では行ってくるからな。なにか異常があるかもしれんから、海を見ておいてくれ」
灰色のダイビングスーツに身を包んだ初老の男が、使い込んだアクアラングを背負ってボートの外へ両足を下ろす。海水の温度は低く、なにもこんな時期に海に潜らなくてもいいだろうにと思うような季節だが、仕事だからという諦観もなく、むしろ目をギラギラさせていた。
「はい、わかりました」
それに答えたのは、黄色のライフジャケットを身につけた女――三条愛美であった。吹きつける風が弱いとはいっても肌に冷たく、慣れていないと辛い。仕事でなければこんなところに一瞬だっていたくなかったが、むろん顔には出さない。
「気をつけて行ってらっしゃい」
ざぶん、と水しぶきをあげ、男は海中へと潜っていく。スキューバダイビングの経験豊かだとわかる無駄のない動きで、あっという間に黒い足ビレが見えなくなった。
ふう、と三条は息をつく。これが探偵の仕事なのかと内心少しばかり疑問もあったが、「身辺調査」といえば、その範囲になるかもしれない。
虫州武史。いましがた海に潜っていったその男が調査対象であった。五十七歳独身。職業、自称UMAハンター。
UMA(Unidentified Mysterious Animal)――未確認生物。平たくいえば、雪男やツチノコのような、存在が明らかになっていない生き物のことである。
彼はそれらを真剣に追いかけていた。何冊もの著作があり、その方面では名の知れた存在だった。もっとも、権威があるかといえば、世間からはほとんど色物を見るような目で見られ、ただの変人だと真面目に相手をされておらず、どちらかというと面白がられていた。
長年研究を続けていても、実際にUMAを捕獲できたことも写真撮影に成功したためしもない。それでもあきらめず我が道を突き進むメンタルの強さはある意味感心に値する。もっとも、ここまでやってきて、なおかつこれで生活している以上、いまさら辞められないというのもあるだろう。若い頃はどうだったかは知れないが、いまはもうとっくに内心UMAなど存在しないと気づいていて、けれども著作活動のためにパフォーマンスを続けざるをえないのかもしれない。だとすれば哀れである。
ただ、三条がここ数日見た限り、虫州の本気度は疑いがなかった。わざわざモーターボートを借りてまでして沖に出て海に潜って調査をしている。どんな研究をしていようと、それは個人の趣味嗜好や生き方に関わることで第三者があれこれ口出しするべきではないし、自由に生きればいいのだ。他人に迷惑をかけているわけでもなし、法に背いているわけでもない。
疑問なのは、どうして興信所の探偵がこの件を調査するのかということだった。三条自身、納得がいっていない。
虫州が不倫をしている――人妻に手を出しているのではないかと疑われていたり、あるいは、交際相手の家族から虫州の怪しい職業を調査してほしいというのなら、まだ話はわかる。
今回はそういうのでもないのだ。まだ数日しか見ていないが、虫州の身辺に女の影はこれっぽっちもない。きれいなものであるといえば聞こえはいいが、結婚歴もなく、情婦も身の回りの世話をやく女性どころかガールフレンドさえいないというのは、おそらく振り向きもされないのだろうとの想像に難くない。還暦に近く、すでにそういう色気はなくなっていて聖人のように心静かにいるのかといえばしかしそんなことはなく、UMAに対する情熱はいささかも衰えない。彼の興味はただそのことのみのようだ。
三条の課せられた調査は女性絡みなんかではなく、まさしくUMAの調査活動そのものなのだった。
興信所を使えば当然費用は発生する。その費用を負担してでも虫州の活動を監視しろという謎の案件だった。しかも依頼人は一般人ではなかった。
公安調査庁。
新・土井エージェントの事務所に一人で現れたその人物は、対応に出た三条の前に名刺を差し出し、そう身分を明かした。
「名波綾羽と申します」
三十歳ぐらいの、パンツスタイルの黒のスーツを着こなしたスラリとした女が、写真付きの身分証明書まで提示して見せた。
「公安調査庁……ですか?」
いつもは冷静な三条愛美だったが、このときばかりは驚きを隠せなかった。警察が事件捜査に協力してほしいと称して調査内容を聞きにくることはあったが、公安調査庁が客として依頼してきたことは三条の知る限りこれまでなかった。
公安調査庁といえば法務省が管轄する国家安全に関わる調査を行う部署である。具体的にはテロ組織をマークし取り締まる。そんなところから依頼というのはおだやかな話ではない。
いくら社内からの評価が高い三条といえど、この件は女性には向かないのではないかと不安になった。屈強な数人を相手に立ち回っても切り抜けられそうな男性探偵のほうがいいのではないか。
依頼内容はあらかじめ電話である程度会社として把握しており、その上で部長は担当する探偵を決定している。
(だから間違いはないと思うのだが……)
「いま、自分は女性だからこの案件には向いていない、と思ったんじゃないですか?」
名波は鋭く指摘した。
見透かされて、三条は思わず苦虫を嚙み潰す。
「さすがジェンダーレスを謳う国の機関らしいですね」
つい皮肉のようなことを言ってしまった。
しかし依頼者は気を悪くするふうもなく、
「いえ……当方も、できれば女性の探偵さんを……とお願いしましたから」
意外だった。いまの流れから、つい、女性の地位がどうたらこうたらと御託を並べる政治家か、度が過ぎる理想を熱く語るジェンダー活動家のようなことを言い出すのではないかと思ったのだが、予想に反してむしろ女性の探偵をリクエストするなんて。
(なるほど)
と、三条は選ばれたことに合点がゆく。ということは、女性を指名するなんらかの理由があるのだろう。
「わかりました……。では本題をうかがいます」
依頼案件もそうだが、公安調査庁がなんでわざわざ民間の興信所なんかに調査を依頼するのか。そもそも調査をするのが本職の部署なのに、それを外注するとはどういう了見なのか――。その意図まで知りたいと思った。
「調べてほしいのは、この人物の動向です」
名波は一枚の写真をテーブルの上においた。そこには気難しげな初老の男性が写っていた。日焼けしたその男の顔に、三条はどこか見覚えがあったがはっきりとはわからない。
「UMAハンターを自称する虫州武史。五十七歳。新たなUMA出現情報を得て、調査を始めようとしています」
UMAハンター。ユーマという普段あまり耳にしない単語がなにを指すのか思い出すのに時間がかかった。
「ええっと……、UMAといえば、あの、ネッシーとかビッグフットとかの……?」
「そう、それですね」
「民俗学として研究している学者さん……ではないですよね……たしか」
なんとなく思い出してきた。UMAを見つけだし捕獲しようと本気で考えている人物だ。正気とは思えない。
しかしその男と公安調査庁が結びつかなかった。UMA研究を隠れ蓑にしてテロを画策しているのか、それともUMA研究そのものがテロ行為なのか。
三条は想像が膨らんでいく。
そうです、と名波は大きくうなずいた。
「UMA研究にかけては、ここまでアクティブに動いている人物は他にいないでしょう」
バカバカしくて、そこまでする人がいないだけなのだろうが。
「その虫州武史に接近して、できれば助手のような立場になってでも細かくその行動を把握して逐一知らせてほしいのです。女性なら比較的警戒されないし、取り入るには有利だと判断します」
「ちょっと待ってください。助手って……そんなスパイみたいなことを?」
それで女性をつける、というのがやや引っかかったが、それよりも、取り入って探るという提案のほうに驚いた。
「できませんか?」
名波は意外そうな顔をした。
できるかできないかと問われたら、できると答えられる。しかし調査方法まで指定されるとは思ってもみなかった。そういう面はさすがは調査を生業としているだけはあるといえるだろう。とはいえ、そこまでしなければならないのか……。
さらに名波はトートバッグから数冊の書籍を取り出してテーブルに並べた。
「彼の著作です。読んで参考にするといいですよ。取り入るには、ファンだと言って近づくのもひとつの方法かと――」
開いた口がふさがらない。
「必要な情報や物品があれば、こちらで用意します」
「至れり尽くせりですね……」
三条はハードカバーを一冊手に取り、ためつすがめつし、これは失敗できないなと覚悟を決めるしかない。どんな手を使っても虫州に取り入らねばならない。
「虫州さんは、どんなUMAを狙ってるんですか?」
三条はポイントを尋ねた。そこは知っておきたかった。
「それも含めて調査してほしいのです」
けれども答えを濁された。
公安はおそらく知っているな、と名波の目を見て確信した。しかしそれは口には出さず、
「わかりました。お引き受けします」
ここは素直に応じた。その代わり、ところで……と質問した。
「なぜ公安調査庁が直接調査しないのですか? 我々民間企業を使う理由はなんですか?」
「単に人員不足だからです。正直、UMAなんかを追いかけている人なんて、国家の安全にどう影響があるかと思われるでしょう? まさしくその通りで、ですから人員を割けないのです。職員を使うより探偵を雇うほうが安上がりです」
「まぁ……そうなんですかね……」
確かに国家の安全に関係するという感じはない。とはいっても放置するわけにもいかない理由があるのだろう。この担当官も知らない機密があるのかもしれない。そこはあまり突っ込んで訊かないほうが身のためではなかろうか。いらぬ好奇心は身を滅ぼす。
「どうにかして虫州に取り入って、毎日報告をお願いします」
「努力します」
こうして三条は、目的のよくわからない依頼を受けることとなった。
名波が置いていった、虫州の著作を読み込み知識を頭に詰め込むと、彼が活動を開始したという場所へ向かった。
もらった情報は正確で、虫州が宿泊している海辺に建つ年季の入った民宿を訪れると簡単に面会できた。そこで先生のファンなのでぜひお手伝いさせてくださいと申し出ると、これまで同志に恵まれなかった──というか、変人すぎて誰にも相手にされなかったせいか、あっさり受け入れてくれた。色仕掛けをしなければならないならイヤだなと危惧していたが、そんなこともなく。
虫州の関心はUMAにしかなく、色恋には興味がないようだった。結婚歴がないというのもうなずけた。
そしていま、三条はモーターボートの上にいた。
たえず揺れる海面を見ていると、気持ちが悪くなってきそうだった。いくら穏やかな日和とはいえ冬の海である。それなりに波はある。が、この作業もすでに三度目であった。
「この海でどんなUMAがいそうなんですか?」
三条は虫州に質問したが、
「それをこれから見つけるんだ」
と、名波と同様、明確な回答はもらえなかった。
具体的なターゲットはないのか、それとも実際にUMAの存在が明らかになるまで黙っているつもりなのか。そんなどこかもやもやする気持ちを抱えながらも仕事は進めていく。
十分以上たった。
虫州が海中から戻ってきた。手にはなにかの機械を二台持っていた。
「カメラのバッテリーとSDカードを入れ替えてくれ」
三条は、水で濡れた手から機械を受け取ると、海水をタオルでぬぐい、防水のためネジ止めされているケースのフタを外してカメラを取り出すと、事前に用意してもらっていたバッテリーとSDカードを入れ替えた。
「はい、セットできました」
カメラを二台とも差し出すと、
「三条さんが来てくれたおかげで助かったよ。わし一人だと濡れた手でメモリカードを交換するのもできず、映像のチェックも追いつかないからな」
このあとは海中に仕掛けたカメラがなにを捉えているのかを宿に戻って確認するのだ。記録された映像は二十四時間分もあるから、これもまた忍耐のいる作業になる。もう三日、三回もこの作業をしているが、虫州が求めているものはまだどちらのカメラにも映っていなかった。
「では行ってくる」
新しいSDカードを装着した二台のカメラを持ち、再び海中へと潜っていく虫州。その行動は、目的がUMAでなければ普通の海洋生物学者そのものだった。
茶番に見えた。
(これが本気なのだとしたら、虫州武史はどうかしている……)
そう思えて仕方なかった。
数分後、虫州が戻ってきた。
「よし、宿に戻るぞ」
ボートに這い上がると、虫州はウェットスーツのまま、船外機のエンジンをかける。
これから宿に帰れば、回収したSDカードにUMAが写り込んでいないか確認する地味で疲れる作業が待っていると思うと、三条はため息がこぼれるのだった。




