おれんじ園
風もなく穏やかな日だった。太陽の位置はまだ低い時期ではあったが、あとひと月ほどで春分を迎えるとあって、日に日に暖かくなってくる。
庭へ出てみましょう、と言って青年は車椅子を押す。雲は晴れて、まぶしい日差しに椿の赤い花が浮かび上がるように映えていた。
車椅子に座る老婆はそれを眺め、
「きれいな椿ねぇ……。山茶花に似てるから間違いやすのよね。でも咲く時期が違いうから」
「そうなんですか……」
青年はうなずいた。
老人ホーム「おれんじ園」――都会から離れた海辺の町にある平屋建ての宿舎には、四十人ほどの高齢者たちが静かに暮らしていた。
敷地内の庭には椿以外にも四季を感じさせる様々な植物が植えられている。ソメイヨシノ、八重桜、もみじ、百日紅、金木犀の他、花壇も職員が手入れをしていて、いつもなにかしらの花が咲いていた。いまはパンジーが可愛らしく開いていた。屋内に閉じこもりがちの高齢者にとっては、この庭を散策するのが楽しみのひとつでもあった。
ちょうど昼食が終わって、午後のレクリエーションタイムだった。それぞれが自由にすごしてもよいし、ホーム側が用意したプログラムに参加してもよいし、みんな楽しくのんびりすごす時間帯だった。
その二人の他にも、職員に連れられて庭を散歩する入居者が何人かいた。
「太郎さーん」
職員に呼ばれて、青年は振り返る。
「──施設長さんが帰ってきましたよぉ」
四十代の太った女性職員が駆け寄ってきた。エプロンに「斎藤」というネームプレートを付けている。
「ここはわたしが代わりますから、施設長室へ行ってください」
「あ、はい……」
青年は、車椅子の老婆に、「ちょっと行ってきます」と会釈し、女性職員にその場を預けると、建物の玄関へと早足で歩いていった。
玄関を入ってサンダルに履き替え、廊下を右に進んで施設長室に至る。木製のドアをノック。
「失礼します……」
ドアノブを引いて顔をのぞかすと、広い施設長室のデスクにスーツを着た、そろそろこのホームに入居するような年齢の男性が待っていた。おれんじ園の施設長である。
「ああ、ご苦労さん。そこへかけて」
と、応接セットを示す。
施設長室は来園者のための面談室を兼ねていた。入居を希望する本人や家族に説明したり相談を受けたり、また、市役所や外郭団体の職員がなんらかの用件で訪ねてくるときの応対に使ったりする。
青年が応接ソファに腰を下ろすと、その向かい側に施設長も座った。
「結論から言いますと、見つかりませんでした……」
施設長は渋い表情を作った。残念である、という思いがそうさせていた。
「そうでしたか……」
「浦亀だけでなく、種浜と子能の警察署を回りましたが、太郎さんらしい特徴の人の捜索願は出ていませんでしたし、行方不明の問い合わせに来た人もいませんでした」
「わざわざありがとうございました」
青年は頭を下げた。
「いやいや……。見つからなくて私も心苦しい」
沈黙が降りた。
青年はブラインドが半分上がった窓を一瞥すると、視線を移動させる。壁には数枚の彰状が掲げてあった。長年老人ホームを続けてきた功績をたたえるものであったり、業務に必要な許可証だったり。スチール製のキャビネットには施設運営に関するさまざまな書類や参考書籍が保管されていた。
「太郎さんという名前も我々が勝手につけたものだから、せめて本名だけでもわかればいいんですが……」
青年がこのホームで働き始めてひと月半ほどになる。
一ヶ月半ほど前のある寒い夜のことだった。おれんじ園から出ていった入居者がいた。認知症の症状が出て夜中に徘徊したのである。
普段はそんなことが起きないよう、玄関の他、出入り口には施錠する決まりになっていたが、その夜はたまたま鍵をかけ忘れていて、そんなときに限って、いつもはなにも起きないのにそういう事件が起きてしまう。
夜勤の職員が夜中の見回りで、その七十九歳の女性入居者がいなくなっているのに気づき、当直の職員で近くをさがし回ったが見つからず、海辺のほうまで捜索してやっと見つけ出した。
発見されたときいっしょにいたのがその青年だった。最初職員は、夜中に一人で歩いている彼女を保護してくれようとしているのかと思ったのだが、青年は全身びしょ濡れで、言葉を交わしてもどこか要領を得ない。
職員に連れられて急遽検査入院をしたが、青年は自分がどうしてそこにいたのか、なぜ濡れねずみでいたのかわからず、さらにどこの誰なのか名前さえわからなかった。すっぽりと記憶が失われていた。
低酸素症による記憶障害ではないかと医師は言った。海で溺れたが運良く浜に打ち上げられて命だけはとりとめたのかもしれない。冬の海で溺れて助かっても低体温症になっていないのが不思議であったが、医師はそこは不審がらなかった。その理由を分析するのは己の仕事ではないと割り切っていた。
連絡を受けた警察も一応取り調べはしてくれたが、事件性が皆無とはいいきれないでも、本人は生きているわけだし人為的な外傷もないとなれば、そそくさと引き上げていった。警察は忙しいのである。だが退院しても、どこへも行くあてもなく、しかたなくホームで引き取ることになった。
おれんじ園には認知症で保護された老人も入居していた。認知症をわずらうと、同居する家族に気づかれないまま遠くまで歩いて行ってしまって帰れなくなる人もいた。たいがいは身元がわかって家族の元に戻ることができるのだが、一人暮らしであったりすると誰もさがしに来ないし、保護した警察にしても放り出してしまうわけにもいかないから、やむなく老人ホームで面倒をみてもらわざるをえなくなるのである。
青年は幸いどこも怪我はなく、体だけは普通に動いたから、仕事をしてもらおうということになったのだ。
介護業界は万年人手不足だ。労働環境は決していいとはいえないのに、その割には給与は多くない。資格の必要な業務もある。介護学校を卒業した若者が希望をもって就職してくれても現実を知って辞めていく者は後を絶たない。職を求めて採用面接に来てくれる人もいるが、入居者と問題を起こして去っていったりする。
人を相手にする仕事だ。マニュアルどおりにはいかない。しかも命を預かっている責任が大きいにもかかわらず、その責任に見合った報酬だとは言い難い。
定着率が悪く、一人でも多く働き手がほしい業界である。高齢化が今後も進み、ますます必要とされるのに。
おれんじ園も例外ではなかった。それで青年に住み込みで働いてもらっていた。名前がわからないので、とりあえず「太郎さん」と呼ぶことにして。
青年は気質が穏やかで仕事の覚えも早く、入居者とはいまのところトラブルもない。資格がないためなんでもやってもらうことはできなかったが、貴重な戦力として現場の職員からも期待されるようになってきていた。
「また折を見て警察に行って聞いてきますが、そのときには捜索願とかが出されているかもしれませんし……」
そんな気休めぐらいしか言うことがない。
捜索願が出されていても、警察は積極的に人をさがし回ったりはしない。なんらかの事件が発生しないと動いてくれないのである。
同様に、これこれこういう人を預かっています、という情報を出しても、他県の警察まで連携されることはないし、問い合わせが来ない以上はどうしようもなかった。
「お気遣い、ありがとうございます」
「太郎さん……」
施設長は真剣な顔つきで言った。
「もし、太郎さんさえよければ、ずっとおれんじ園で働いてくれないでしょうか……いまは試用期間中なので、正規の給与はお支払いできないですが、もしこのまま勤めてもらえるなら……」
その言葉の裏には、ずっと身元など判明しないほうがいい、という気持ちがないではなかった。それは図々しく浅ましい考えであるのはじゅうぶん承知しているだけに、施設長としては悩ましいところであった。
「そうですねぇ……」
あの日の夜、青年は波打ち際で横たわっていた。
立ち上がり、濡れた衣服が不快だったが、ここにいてもしょうがないと歩きだした。堤防を越える階段を登り海岸の道路に出たが、月は山の向こうに沈んでいてあたりは暗く照明もほとんどなかったということもあって、ここがどこかを判断する目印が見えなかった。
頭がぼんやりとして思考が集中できない。なにかを考えようとしても考えられなかった。
(ここはいったいどこで、自分はなんでこんなところにいるのだろう……?)
思い出そうとするが、なにも思い浮かんではこなかった。
衣服のポケットを探ってもなにも入っていなかった。時計も財布もスマホもなく、情報を得る手段がなかった。
あてもなく夜の海岸道路を歩く。ヘッドライトをいからせたクルマがときどき猛スピードで通り過ぎていったが、通行人に出会うことはなかった。
が、しばらく歩いていると、前から誰かが歩いて近づいてくるのが目に入った。
一人だった。背は低く、高齢の女性のように見えた。
『あの、ちょっとすみません――』
青年は声をかけた。
『ここはどこですか?』
しかし老婆は青年の顔を見上げ、焦点の合わない目が泳いでいた。
『家に帰りたいの』
「いや、そうでなくて、ここは、場所はどこですか?」
会話が嚙み合わない。重ねて尋ねた。
『おにいさん、だぁれ?』
そう訊かれ、
『ぼくは――』
そう答えようとして、始めて名前が出てこないことに気づいた。そのときは、ここがどこなのか、ということだけがわかればいいと思っていたから、まさか自分が何者かまで忘れてしまっているとは思ってもみなかった。
名前だけではない、過去なにをしてきたか、どこに住んでいたかとか、そういった個人的なことの一切合切を忘れてしまっていたのだ。そのときの絶望感といったらなかった。
だからおれんじ園に世話になっているのは本当に感謝していた。
「もしかしたら、そうなるかもしれません……」
身元がわからないままで働かせて寝泊まりまでさせてくれる職場など、そうそうないだろうという気がする。記憶が戻る保証はない。もしかしたら自分がこんな状態であるのは、もっと劣悪な環境下にいたせいかもしれなかったし。
「じゃあ、ぼくは戻りますね」
そう言って、青年――太郎は立ち上がる。
「真千子さんを任せているので」
施設長室を出た。
車椅子の老婆が真千子――あの夜に出会った入居者だった。遠くまで徘徊していたため足に炎症を起こしていて、あれ以来車椅子だ。リハビリはしているが、高齢であるため回復は難しかった。
庭に出ると、目でさがしつつ歩く。
「あっ、斎藤さん。すみませーん」
交代してくれた女性職員を見つけた。
斎藤は、車椅子のハンドルを握ったまま振り返る。戻ってきた青年に、
「どうでした?」
なんの用で施設長に呼ばれたかは聞き及んでいた。
「いいえ……」
青年はかぶりを振る。けれども口元に笑みを浮かべ、さも些事であるように振る舞う。
「そうでしたか……」
気の毒そうにまつ毛を伏せる斎藤に、
「そんな簡単にわかるとは思っていませんよ」
と、明るく言った。それから車椅子の女性に向かって、
「真千子さん、屋内に戻りましょうか。そろそろ大好きな時代劇の再放送が始まりますよ」