エピローグ
「こちらが報告書になります……」
興信所「新・土井エージェント」の面談コーナーで、三条は、テーブルを挟んで向かい合う依頼者にA4の綴じたプリントアウトを差し出した。
「途中経過は電話でお話しましたので、特に目新しい記述はありません」
だからわざわざ報告書を取りに興信所まで来る必要はない――はずなのだが、公安調査庁・名波綾羽はやって来た。だがそれは、今回の案件については国家機密が関わっていることからくれぐれも情報の扱いに注意しろと釘を刺しに来たという意味もありそうだった。
どうもありがとうございました、と名波は礼を言って報告書を受け取った。スーツのようなきっちりした服装ではなくカジュアルなコートにセーターというのも、身分がわかりにくくするためのカムフラージュかもしれなかった。
今回の調査は、自称UMAハンターの虫州武史の行動とその結果を報告するものであり、それ以上のものは求められていない。三条はそれに従って報告書を書き上げた。したがって、そこに三条が巻き込まれた、ケイゴのカーチェイスは含まれていない。しかし接触してきたケイゴの素性や目的、UMAが人間の姿に変貌したことなどは包み隠すことなく見たまま聞いたままを記述していた。そこに三条自身の考察はない。この報告書を信じるか否かは依頼者次第なのである。
三条にしてみれば、いまだ信じられない数日間の出来事であり、公式な文書にそんな現実離れした文章をしたためることに抵抗があったというのが正直な感想である。だからというわけでもないが、名波のどこかしら仕事に対する投げやりな姿勢がわからないでもない。こんなバカげたことに付き合わされているのがどうにも受け入れがたいのだ。
岩礁から救出された三条は、そのあと民宿に戻り、引き続き虫州武史についていって調査を続けようとしたのだが、あっさりと「今日で人魚の調査は終了だ」と告げられてしまった。それを名波に電話すると、「今回の依頼は終了です」と言われた。だから三条も助手として働くのを辞したが、虫州武史はとくになにも言わずその後どこへともなく去っていった。公安調査庁からなにか言われたのかもしれない。
「興信所の信頼問題にもなりますので、顧客とその調査情報については口外しないと思いますが、今回のことは一切の他言は無用と心得てください」
名波はちらちらと報告書をめくり、目を上げると三条を射るように見た。
「はい、それはもちろん、信じてくださって結構です。興信所としても商売ですから、信用問題には敏感です。個人的にSNSに流したりするのも禁止されています」
「それを聞いて安心しました。しかし……」
と、名波はひとつ息をついた。
「どう思いますか?」
「どう……とおっしゃいますと?」
三条は意図を図りかねた。
「人魚が実在した、ということですよ」
「ああ……そういうことですか」
あのあと花浜は海に戻らなかった。そのことは報告書には記していない。幕石閃輝といっしょに暮らす、というのは調査対象とは違う。それに、それこそ野暮というものではないか。花浜が地上にい続けることをケイゴが危惧するかもしれないが、それはもう三条にはどうにもならないことだ。公安調査庁に告げて、焚きつけるような真似をせずともよいだろう。
「わたしは正直なところ、現場に立ち会っていませんので、余計信じがたいんですよ。そもそも公安調査庁の上部がなにを考えているのか……」
名波の台詞は愚痴というより、自身のおかれた状況を俯瞰した偽らざる本心なのだと思えた。常識的な反応である。国家がそんな超自然的な事象に真面目に取り組んでいようなどとは、陰謀論を信じるにも似て子供じみているように感じられてならない……と、普通の大人ならそういう印象を持つ。
だが、目の色を変えて花浜を追いかけ、あまつさえ河童を味方につけているのを目撃してしまうと、担がれているというレベルの話ではなかった。それらがすべて国家機密扱い……となると、職員でも知らないことが多いかもしれない。果たして名波はどこまでのことを知らされているのか――が、三条は、余計なことは口にすべきではない、と気を引き締めた。まさかとは思うが、下手をすると暗殺されかねない。すべては語らずとも名波を興信所まで寄越したというそのことには、そんな意味もあるのではないか。三条は居住まいを正した。浜花の依頼を担当した原田やサポートの先野にも、なにも言うつもりはなかった。
「人魚もそうですが、気になるのは、わたしに接触してきた、ケイゴという青年です。彼の言うことが本当なのかどうか……」
ケイゴの言っていたことを正確に理解できているかといえば、三条は自信がない。宇宙はかくも不安定で、ちょっとしたことで壊れてしまう……しかしそれを人為的にどうにかしようなどとは、あまりに途方もなさすぎて。
「別の次元の地球から来たっていうんですよね。上司には報告しますが、もう、頭が腹痛を起こしそう――」
そう嘆く名波はともかく、公安調査庁がケイゴのことを詳しく把握していたのかどうか。もっとも、そんなことは知らないほうがいいのかもしれなかった。
ともかく――と、名波は新・土井エージェントのロゴの入ったクリアファイルに、ざっと目を通した報告書をはさみ込む。
「調査、ご苦労さまでした。費用は請求書にある口座に期限までに必ず振り込みます」
「ありがとうごさいます。またのご利用をお待ちしております」
三条は通り一遍の挨拶を口にする。
「そうね……御縁がありましたら、またお願いするかもしれませんね」
名波の言葉に、三条は内心はっとする。
御縁があったら……あるのかもしれない。そんな予感が強くするのだった。
幕石閃輝と花浜との関係が続くのなら、ケイゴが再び現れる可能性はじゅうぶんにありえた。そのとき、またなにか自身にふりかかってきそうな気がした。
☆
四崎臨海マリーナからさほど離れていない郊外マンションの一室が、幕石閃輝の自宅兼仕事場だった。
あれから数日がすぎ、別矢芽衣咲と帆村央晴が呼ばれた。初めての訪問であった。
やって来た二人を、玄関先で幕石閃輝が迎える。
「わざわざ来てもらって、悪いね……」
と、幕石は笑顔で迎える。
「いえ、一度会って打ち合わせをしたかったですし──」
帆村は答え、これを……と、別矢が和菓子の入った紙袋を差し出した。
どうぞ入ってください、と二人を部屋に招き入れる幕石。
暖房の効いた十六帖ほどの広いリビングルームに通された。窓からは春の日差しが入っていたが、マンションといっても二階からの眺めはそれほどよくはない。
四人掛けのテーブルに、花浜がお茶を用意してくれていた。化粧っけのない顔ははっとするほど整っており、初めて見たとき同様どこか作り物めいた印象を感じさせた。清楚な白いワンピースは、まるでこれ以上飾る必要はないと主張しているかのようだった。
「どうぞこちらに」
花浜に促されて、別矢と帆村は並んで席につく。湯気の立つティーセットからはハーブの上品な香りが立ち昇っていた。
「外はまだ寒かったでしょう? お茶で温まってください」
花浜は、向かいの椅子に座った。幕石と並んでいると、まるで新婚夫婦のようだった。
「はい、いただきます」
「いいお部屋ですね」
別矢が室内を見渡した。引っ越してきたばかりのように飾り気がない。テレビすらなかった。かなりのお金を稼いでいるのに、成金趣味の下品な調度品などは一切置かれていなかった。
対面キッチンに置かれた写真立てに入っている幕石閃輝のモノクロの絵が目を引くぐらいだ。花浜が描いたというそれがなければ二人は再会には至っていなかっただろう。見たままを描写できるその技能もどこか人間離れしていた。
「ネットで仕事をしているので、住むところはどこでもよかったんです──」
そう言ったのは幕石だ。和菓子を開けて、お茶といっしょに話が始まる。
「──でも、ネットだけで直接会わずに仕事をし続ける危険性を、今回のことで痛切に感じましたよ。だから一度、二人にここへ来てもらったんです」
今日の訪問目的はそれだった。これまでネットだけで仕事は完結していた。クオリティに関しても満足のいく仕上がりであったし、それぞれ一人で作業に没入する性質の仕事であるから、そのやり方でなんの問題もなかった。これまでは──。
だが、それではいけない、と思った。匿名性は大事であるが過剰に意識することもいけない。お互いに必要な存在ならば多少なりとも知っておかないといけないことはあるのだ。
「そして、ぼくがどうやって楽曲制作をやるに至ったのかを聞いてもらおうと思って──」
幕石は過去を完全に取り戻していた。これまで通りの楽曲制作に復帰していた。
「ぼくがどう曲のインスピレーションを得ていたかを……」
別矢も帆村も無関心ではいられなかった。人の心に響く楽曲を如何にして生み出していったのか、天から与えられた才能なのだといえばそれまでだが、それだけではなかった……。
すべては花浜の歌が元になっているんだ……と幕石は告白した。
偶然海で聴こえてきた歌声が発想の原点だった。声に引かれて何度も海へと訪れ、誰のものともしれない歌からインスピレーションを受けて作った曲を世に出したいと思い、ネットで協力者をさがした。歌い手と動画作成者――である。そうして見つけた別矢と帆村の力を借りることで幕石の楽曲は人気を集めることとなった。そのうち、クルーザーを買ってまでして歌声を聴きに行くようになっていった。
わたしも幕石さんに歌を聴いてくれるのがうれしかった――と、花浜も言った。だから来てくれるたびにもっと歌うようになった。
お互いが意識しつつも会うことはなく、歌い、聴く、という関係だけが続いた。
──この歌声の主は誰なのだろう?
──わたしの歌を聴いてくれる人は誰なのだろう?
そんなことを気にしつつも、二人の距離がそれ以上に接近することはなかった。
それは誰も知らない二人だけの静かな関係であった。夜の穏やかな海にクルーザーで通い、波に揺られながら歌声に耳を傾ける幕石と、海中から顔を出して歌い続ける花浜……。
会ってみたい、との思いをお互いに抱きつつも、それは実現しなかった。
そんなとき、例の事件が起きたのだ。その後の顛末は承知の通りである。
記憶を取り戻した幕石が花浜を連れて帰港したとき、どういうわけか四崎臨海マリーナに来ていた比森がいた。そしてなぜかそこにいた警察官に聴取を受けた。その結果、比森はしばらく監視下に置かれることとなった。今後どうなるかは幕石の言動ひとつにかかっていた。正直、一千万円もの貸付についてはそれほどこだわっていない。しかしこのままというわけにもいかない。先野という探偵から比森の事情を聞かされたが、呆れるばかりの醜態だった。情状酌量の余地はない。心から反省してほしいと幕石は願っている。ひとつ間違っていれば死んでいたのだから。
話を聞き終えた別矢と帆村は、しばし黙り込んだ。
不思議なシチュエーションだった。そんな花浜の歌が発想の元だったとは仰天の真実だった。他者から着想を得たとしても、それを元にちゃんとした楽曲を創る幕石の才能があっての成功だ。それにしてもそんな秘密があったとは思いもよらぬことだった。
花浜が何者であるかというのは詮索しなかったし、花浜自身語らなかった。そこにそれほどの意味はないかのように。
「新曲の打ち合わせを花浜さんを交えてここでやっていこうと思うし、なにか制作途中の段階で意見がある場合も会ってすり合わせをしていきたいと思う。クオリティをこれまで以上にあげられるかどうかはやってみないとわからない。いまの段階ではそんな余地があるようには思わないかもしれないけど、実際に会ってみることで今以上の成果を上げられるんじゃないかと思うんですよ」
幕石は熱っぽく述べた。
クリエイターとしてのまっすぐな主張に、別矢と帆村はうなずいた……。
「今日は、あまりしゃべらなかったな」
帰り際、マンションを出たところで、帆村はそう言った。もっと言うことがあったろうと思って。
すると、
「花浜さんって、すごい美人でしたよね……」
別矢はポツリと言った。
「ああ……、まぁ、そうだな……」
誰もが振り返るほどの美形だった。神が創った奇跡の造形……とでもいうべきほど。これまでどこでなにをやって来たのか知らないが、あれほどの美貌なら多くの男が言い寄ってきたに違いない。もっとも帆村は、あまりの美しさに緊張し、自分にはとても届かない存在だと思ったのだった。ミステリアスな雰囲気もあって素敵な女性ではあるだろうとは感じつつも身近な存在とはならない。
「わたしにはとてもかなわないな……」
小さく言ったその言葉に、帆村は察した。
(そういうことか……)
そんな気持ちがあるだろうな……との予想はしていなかったが、しかし意外だとは思わない。類稀なる才能と社会的成功……女性ならそんな幕石閃輝に惹かれてもおかしくない。
「帰りにどこかで気晴らしでもするかい?」
別矢は驚いた顔で立ち止まり、帆村の顔を見る。
「そういえば、帆村さんは元ホストでしたね。――なんか、いかがわしい」
急に眼つきが冷えていた。
「いかがわしいって、それはないだろ」
「女の子の心を手玉にとるなんてお手の物、なーんて思ってるんでしょ」
「いまのはそんな誘いじゃないよ。純粋に仕事仲間として――」
「帰りましょう。新しい楽曲をもらったんだし、どう歌うか検討しなくちゃ。花浜に負けないように」
別矢は気を取り直したように言うと、ずんずんと歩き出す。
帆村は小さく肩をすくめ、別矢の後を追った。
☆
先野光介は、ここ数日どこかぼんやりしている原田翔太に気づいていた。
浮気調査の案件が入っていて、サブとして原田がついていた。何度かターゲットを尾行しているがまだ尻尾はつかめていない。根気よく続けていくのが探偵の仕事である。
「今日もまっすぐ帰宅したか──」
職場を出たターゲットがどこへも立ち寄らず自宅へ入っていくのを見届けて、先野はいっしょに尾行をしていた原田に、帰るぞハラショー、と言って振り返る。
パートナーである依頼者が「怪しい……」と気づくぐらいだから浮気は間違いなくしている。いくら巧妙に隠し通していても隠しきれないものなのだ。なにかの拍子で浮気の匂いを感じさせてしまう。そしてそれはだいたい外れていない。何日か尾行していけばいつか必ず証拠をつかめる。
原田は、はい、と返事をし、きびすを返して歩き出す先野についていく。
「どうした、ハラショー。集中力が途切れているぞ」
ペアでターゲットを尾行する場合、バレないように連携するのが大事だ。しかしここのところその連携に齟齬が見られた。幸い、ターゲットは自宅に帰っていたからよかったものの、下手をすると尾行中に見失ってしまうこともあり得た。
「はぁ……すみません……」
おざなりに謝った。
「あの依頼者のことが忘れられないんだろ」
先野は指摘した。花浜というとんでもない美女に、原田がなにも意識していないわけがなかった。
「いいえ、そんなことは……!」
「隠さなくていい」
先野は歩きながら上着のポケットからマルボロを取り出し一本をくわえると使い捨てライターで火をつけた。夜の街角にポツンと光が灯る。
「確かに美人だったよなぁ……。長く生きてきたが、あんな美人を見たことはなかったよ。まさしく浮世離れした美しさだった。あんないい女がこの世にいるんだなぁ……」
クルーザーに乗っていた幕石と、花浜は無事に再会できた。どういう経緯で海上で再会できたのかは、先野は原田からの話しか聞いていないから詳細は知らないが、さがし人が見つかったのだから万事解決で、それはそれでよかったと、クルーザーから降り立った二人を見てそう思ったのだった。
ついでにマリーナに呼んでいた警察によって、比森に科があるのかどうかもはっきりするだろう。顧客である比森に対してそんなことをするのは余計なのかもしれないが、うやむやにしたくなかった。
探偵業をしていると、ときどき犯罪まがいの人間とも出会う。浮気相手が結婚詐欺師だったり身辺調査をしていてストーカーを発見したり。社会正義無くして探偵は存在意味がないのだ。
「あんな美人なら、おまえが我を失ってしまうのも無理ないさ」
吐き出した紫煙が風に吹かれて拡散する。
「探偵を長くやっていると、いろんな人間に出会う。困っている美人の客から依頼を聞いたら心が動いてしまうこともある。おまえはまだまだ若いからな。男は失恋を重ねていけばいくほど強くなっていくものさ。精進しろよ」
「はい……」
先輩風を吹かせる先野の言葉を二十三歳の原田は素直に聞いていた。いかつい顔の三十八歳独身男がどれぐらい恋愛遍歴を積んできたのかは想像もつかないが。
「すぐに切り替えられないかもしれんが、なぁに、もうすぐ春になるし、おまえにも春が来るかもな」
その外見が醸し出す雰囲気ではとてもではないが春が来そうにもなさそうな先野は、くわえ煙草でふっと小さく笑った。ちょっと気持ち悪い笑顔だった。
☆
おれんじ園の庭にソメイヨシノが咲き始めていた。このときを待っていたかのように入居者たちは各々庭に出て眺めている。
「さぁ、真千子さん。気温が上がってきましたから、桜、見に行きましょう」
昼食がすんで、職員の斎藤は、車椅子のハンドルをとって声をかける。
日に日に蕾がほころび、その変化が楽しく飽きなかった。
「うん、お願いね……」
車椅子から首を少し曲げて返事をする真千子。二人は食堂兼レクリエーションルームから連れだって出て行った。
午後は自由時間だ。入居者はそれぞれ好きに過ごしている。職員といっしょに庭へと出る入居者もいたし、足腰がしっかりして一人で屋外へと歩いていく高齢者もいた。誰もが咲き始めた桜を眺めて楽しんでいた。
午後の日差しは眩しいくらいだった。ここのところ気温が一気に上がってきたせいで、各地で開花情報が発せられていた。
「今年も無事に桜を見れたわねぇ……」
真千子は車椅子から五分咲きの桜を見上げる。何本も植えられているソメイヨシノはどれも大きく成長していて、見事な枝ぶりだった。スマホで撮影している人もちらほらといた。
「この歳になるとね、いつまで生きるかわからないからねぇ……」
「そんな、真千子さんはまだまだ元気ですよ」
斎藤は車椅子をゆっくりと押しながら答える。
「いいのいいの、人間いつかあの世に行ってしまうんだから。だからそれまで存分に楽しもうって思うの」
そこへ、近づいてくる人影があった。
「母さん」
呼びかける声に振り向くと、スーツを着た一人の男性であった。日差しが暖かいためか、コートも着ていない。
「どうも母がお世話になっております」
斎藤に挨拶してきた。真千子の息子だった。ときどき訪問してきてくれるので顔なじみだった。独身で働いているため認知症のある母親の介護がじゅうぶんにできないと、おれんじ園を頼ってきたのだった。
「これを持ってきたよ」
差し出したのはなにか小さな機械だった。老人ホームに年寄りを放り込んだらそれっきりという家族も少なくないなか、真千子の息子は休日には必ず顔を見せに来ていた。
「ああ、ありがとね」
「なんですか、それ」
斎藤が訊くと、
「音楽携帯プレーヤーですよ」
スマホは使いにくいと言って持っていない母のために、買ってきたのだと言った。
「ああ、それ、信吉さんも持っていたものですね」
「そうなの。わたしも欲しくなってね。頼んでいたの。──ねぇ、曲は入っているの?」
「うん、いっぱい入れておいたよ」
息子は、あらかじめ真千子の好きな曲を選んでプレーヤー本体に入れておいたようである。
操作方法を説明して、一曲再生してみた。スピーカーから流れる音楽。
「あら、これは……」
斎藤は知っていた。潮騒のざわめきの新曲だった。信吉も聴いていた。若い人だけではなく高齢者にも受けがいいのが、彼らの曲のすごさだった。
斎藤は、ついひと月ほど前までおれんじ園で働いていた太郎──幕石閃輝のことが鮮明に思い出された。あんなことがあったとは、まるで夢だったような気さえする。あの騒動の後に復帰して、さっそく制作された楽曲である。記憶喪失はすっかり治ったようだ。太郎の本名や職業については他の職員や入居者には黙っていたし、それは明かせない。大事な思い出のように心にしまっておくつもりだった。
「僕もよく聴いていますが、母はこういう新しい曲も好きなんですよ」
「うれしいわ……」
満足そうに微笑む真千子。
「いい息子さんですね」
「そうなの。これでお嫁さんさえいてくれたら言うことないんだけど。安心してあの世に行けないわ……。そうだ、斎藤さん、独身だったわね」
「母さん……!」
息子は呆れて制する。
「すみません、桜がきれいなので母は調子に乗っちゃって」
「いいんですよ」
そういう話──息子や孫を紹介しようというのはこれまでも入居者から何度か聞かされた。だが、だいたいが顔も見せに訪ねてこないような息子や孫のことで、だから話だけで終わってしまう。こんなふうに本人を目の前にすることはなかった……。
「──桜に合う、いい曲ですね」
なんとなくその話題を続けたくなくて、斎藤は曲に耳を傾ける。以前の曲もよかったが、より一層よくなっているような気がする。そのことが余計にうれしかった。きっとここでの経験が幕石の人生をより広げたのだと思いたかった。
三人はそこで曲が終わるまで静かに聴いていた。ゆっくりと時間が流れていくかのようだった。
【完】




