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戻った記憶

 比森の運転する軽自動車は海沿いを走っていた。なにかに取り憑かれたかのようなまっすぐな運転だった。前を走るクルマとの車間距離もつめるほど先を急いでいた。赤信号で停められるたびに苛々とハンドルに置く手がじっとしていない。

 向かう先は、海岸に面する港――四崎臨海マリーナである。ひと月半ほど前、比森が幕石閃輝と来た場所だ。二人でクルーザーに乗って出港し、そこでなにがあったのかを知るのは比森ひとりのはずだった。それを確認しなければならなかった。でなければ、

(おれは身の破滅だ……)

 その焦りが、彼を動かしていた。

 記憶喪失だとあの探偵は言っていた。それは本当なのだろうか。

 あり得ると思った。もし記憶があればすでに連絡が入っているだろうし、社会保険庁の職員だと偽って、幕石の行方を尋ねに二人組が訪ねて来ることなどあるはずがない。だから記憶を失くしたせいで行方不明だったというのは辻褄が合う。

 だが先野という探偵が嘘を言っているかもしれない。幕石閃輝を名乗る別人が現れたという可能性もある。いずれにせよ状況を確かめないといけない……安心をするために。そのうえでどうするか決める……。

 しかし……と比森は訝しむ。万に一つも救かるはずはないのに……。

 夜の冬の海――海水温はかなり低く、数分で体温が下がって命に関わる。しかもライフジャケットを着用していなかった。かなりの沖合であったし、あの状況で生きていられるわけがない。

(どうやっても、救かるはずはない)

 比森はだから余計に事実の確認に迫られている。もし幕石閃輝が生きていて、なおかつ記憶を失くしていなかった、あるいはいまは取り戻していたら……。

 事態は最悪である。殺人未遂で起訴される場合も考えられた。それだけは絶対に避けねばならない。

 都会から近い、昔からあるヨットハーバーである、四崎臨海マリーナの白いセンターハウスが道路の先に見えてきた。比森にとってあまり縁のない場所であった。

 プレジャーボートなど大金持ちの道楽である――事業家として会社を切り盛りする立場であるとはいえ、比森は資産家などではなかったから、そんなものにかまけている余裕はなかった。起業家というのはそんな簡単な生き方ではなかったと、いまでは身に沁みて感じられていた。金融機関から借りた事業資金を売上から返済していくという、まさに自転車操業であった。

 だから元社員の幕石がクルーザーを所有できるほどの資産を築き上げていることが驚きであり、また妬ましくもあった。自分も頑張らないと――そう思って船舶免許まで取得して幕石に追いつこうとして奮起したまではよかったが、事業の拡大に失敗してしまった。

 幕石から一千万円を借りて屈辱的な気持ちがなくもなかったが、もはやそうもいっていられなかった。なんとしても業績を回復させようと懸命に働いた。しかし風向きはよくならなかった。

 あの女――右岡奈音に入れ込んでしまったのも、身動きできない切羽詰まった精神状態だったからかもしれなかった。ともかく借金を返すどころかさらに借金を重ねなければならなくなっていて、比森は追い詰められていた。

 幕石自慢のプレジャーボートに一度乗せてくれと申し出て、快くうなずいてもらえたとき、もう後戻りできないところにいた。

 駐車場にクルマを入れると、足をからませながらセンターハウスに向かった。平日午前中のセンターハウスはひっそりとしていた。もっと季節が進んで暖かくなってくれば賑わってくるだろうが。ただ、センターハウスのなかは南国のように温かい。まっすぐ受付に向かった。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの向こうに立っている若い男性スタッフが笑顔で迎える。

「あの、ちょっと聞きたいのだが――」

 比森は尋ねた。喉がからからに渇いていた。

「幕石閃輝さんは今日こちらに来ていますか?」

「はい、幕石様は玲瓏れいろう1で出港されています。帰港予定は午後になっております」

「なんだと?」

 比森は声を荒らげた。

「あの……どうかされましたか?」

 少しばかり不審な表情の男性スタッフ。

「いや……なんでもない……」

 気まずくなって比森はつぶやく。

(出港しただと……? ということは幕石は間違いなく生存しているのだ! なんとしてでも、あれを〝事故〟ということにしないといけない……。しかしどうすれば……)

 きびすを返すと、おぼつかない足取りでセンターハウスを出た。

 櫛の歯のような桟橋を渡って玲瓏1の繋留場所にまで行ってみた。クルーザーはなかった。

 ふと外洋へ続く海へと視線を向けたときだった――一艘の小型クルーザーがやって来るのが見えた。

(あれは……!)

 比森は目を細めた。玲瓏1……。

 見覚えのある青い屋根の白い船体が、いままさに外洋から入港しようとしていた。



   ☆



 クルーザー玲瓏1に二人を収容した。

 同じ服を着た二人の女性。一人はクルーザーまで泳いできた花浜、そしてもう一人は岩礁にいた三条愛美である。

「三条さん! なんでこんなところに?」

 クルーザーに乗り合わせていた原田翔太は瞠目した。まったくの予想外で混乱した。さっきまで船酔いでへたばっていたが、いっぺんに治ってしまった。

「まぁ、いろいろあったのよ。後で説明するわ。そういう原田くんこそ、どうしてクルーザーなんかに乗っているわけ?」

「こっちも、まさかクルーザーに乗ることになるとは思ってませんでしたよ。それよりも――」

 原田は、見つめ合っている幕石閃輝と花浜を見やった。

 ついに再会を果たした二人の男女の図……。しかしそこに恋人同士の抱擁はなかった。

 記憶を失くした幕石にその場の誰もが注目した。二人は初対面のようなもの……なのだろう。

「きみが……あの声の主なんだね……」

 幕石が話しかけた。

「海に落ちたおれを救けてくれたのも……」

 溺れて意識がなくなりかけていたときのことが、浮き上がってくるかのように幕石の脳裏に像を結んだ。体が誰かに抱きとめられる感覚が急に蘇ってきたのだった。

 はい、とうなずく花浜は、幕石をまっすぐに見つめる。

「わたしの歌を聴いてくれたのは幕石閃輝さんだけだった。でも、あんなことがあって、もう海には来てくれなくて、すごく不安だった。だから探偵さんにさがしてもらった」

 花浜は原田を振り返った。

 吸い込まれそうな美しい双眸に、原田は反射的に後頭部を手でかく。どんな形であれ捜索人が見つかって会わせることができてよかったと、初のメイン案件にホッとするところであった。連絡手段のない依頼人とこんなところで出会う偶然も、なにか〝持って〟いるんじゃないかという気がした。

「会いたかった。ずっと、会ってみたかった……」

 花浜は訴えかけるように幕石に言った。

「ぼくもだよ……。どんな女性ひとなのか……気になっていた……」

「わたしは、ずっと幕石閃輝あなたといっしょにいたい」

 それは……! と、三条が口を開きかけた。これまでの体験から、そんなことが叶うはずがないと断言できた。花浜は海に帰ってもう二度と人間に関わってはいけないのだ。

 しかし、

「ぼくにはきみが必要だ。きみの歌があったからこそ、ぼくは素晴らしい楽曲が創れたんだ。ぼくのほうからもお願いする。いっしょにいてほしい」

 ――ええーっ。

 その場の全員が驚くのも無理なかった。こんな展開、誰も予想していなかった。原田も三条も、そして、幕石の仕事仲間である、別矢と帆村も。

「ちょっと待ってください――」

 ついに三条が口を差し挟んだ。すさまじいほどの懸念がそうさせた。

「幕石さん、その人は……」

「わかってますよ、この人が普通の人間ではないってことは」

「じゃあ、なにもかも思い出したんですね!」

 そう勢い込んだのは帆村である。これでなにもかも元通りだ――そんな安堵感がこみ上げる。

 幕石は晴れ晴れとした表情でうなずいた。

「ああ、思い出したよ。ぼくがなにをやってきたのか、誰と関わっていたのか。なにをこれからすべきなのかも」

 それを聞いて思わず握り拳で小さくガッツポーズをする帆村。これですべては元通りだ。幕石閃輝の創る楽曲を、別矢の歌声と帆村の編集動画で世に送り出す――潮騒のざわめき、再スタートだ。

「よかった……、別矢さん?」

 喜ばしいことなのに、別矢芽衣咲の表情が冴えないことに、帆村は気づく。

「どうかしました?」

 別矢の顔をのぞき込むようにすると、初めて声をかけられたことに気づいた様子で、

「えっ、いや……うん、幕石さんの記憶が戻って、よかった……」

 もっと喜んでもいいはずなのに、どこか取ってつけたような口調だった。

 手を取り合う幕石と花浜を見つめる別矢はなんとなく浮かないように見えた。



   ☆



 停泊しているプレジャーボートが何艘も波止場につらなっている。

 比森はその陰に入った。

 玲瓏1が帰ってきた。おそらく操船しているのは幕石閃輝本人だ。

(ということは……)

 少なくとも殺害には失敗した。にもかかわらず、なぜこれまでひと月半もの間鳴りを潜めていたのか、比森は釈然としない。

 記憶喪失だったと探偵は言っていたが、それだとクルーザーを操船できるはずもない……。

(それとも操船技術だけ記憶が戻った? いや、そんな都合のいい現象など……ここは、記憶があろうとなかろうと幕石閃輝は生きている、とシンプルに考えたほうが正しい判断ができるだろう……)

 それがはっきりしただけでも来た甲斐があった。そうとなれば、あとはやることはひとつだった。

 一刻も早くどこかへ身を隠すのだ。最悪、殺人未遂で指名手配される可能性もあった。もたもたしてはいられない。〝事故〟を装うというのは難しい。

 そうと心が決まると、比森はその場から駐車場へ戻ろうと身を翻した。

「どうしました、比森さん」

 いきなり人影がぬっと前に現れて、比森は息が止まるかと思った。

 あの探偵だった。先野とかいった。なんでこんなところにいるのかわからず混乱した。

「そこをどいてくれないか」

「幕石さんのボートが帰ってきましたよ。迎えてあげないんですか? 元社員だったんでしょう?」

 飄々とした口調が苛立たしい。ここは強引に突破して脱するべきか、それともうまくごまかしてやりすごすか――比森の頭は高速で回転する。

(おれを尾行してきた?)

 一直線に興信所からマリーナ(ここ)へ来たのに探偵が来ているということはその可能性が高い。そのことに気づき背中に嫌な汗がつたう。なんのためかはわからないが、あまりよくない考えを持っていそうだ。やはりここはすみやかにこの場を離れたほうがいい。そう結論した。

「急用を思い出したんだ。すぐに戻らないと」

 早口で言い捨てると、比森は先野の脇をすり抜けようとした。

「急用って……幕石さんと会っていかないんですか? なにか言付けましょうか?」

 先野が引き留めようとするのを無視し大股で歩く比森。関わっていられなかった。ここで幕石閃輝と会うわけにはいかない。

 急いで波止場を後にして駐車場へ向かった。

 停めてある軽自動車のところへ行こうとして、その足が止まった。

 愛車の側に、二人の制服警官が待っていた。

(なにをやらかした?)

 来る途中で交通違反でもしてしまったのかと思ったが、いくら急いでいたとはいえそんなヘマはしていない。身に覚えがないのなら堂々とすればいいのだが、そうでないから警戒してしまう。

(おれになんの用なんだ……? なにかの誤認で容疑がかけられているのだろうか……)

 いつまでもクルマに近づかないわけにもいかず、比森は意を決して慎重に歩み寄っていった。

 そこへ、

「比森さん!」

 背後から声がかかった。振り向くまでもなかった。聞き覚えのあるその声は、まぎれもなく幕石閃輝のものだったからだ。


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