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ケイゴ

 体の冷たさを感じた。

 不快なほどの冷たさは、衣服が濡れていたからだと気づいた。全身ぬれねずみであった。

 それとともに、三条愛美は自身のおかれた状況に気づいた。

 目を開けて上体を起こし、周囲を見回した。

 三百六十度、海である。

 思い出した。

 ケイゴの運転するクルマが空中に飛び上がり、海の上空へと飛行したのだ。下手をすれば逮捕されるところを逃れたまではよかったが海上に落下した。記憶は、窓ガラスの向こうに見える海中の暗さが最後だった。

(助かった……!)

 青い空と陽の光を見てそう思った。と同時にいまの状況を理解した。

 小さな岩礁の上にいた。岩礁は海水に濡れていて、大きな波が押し寄せたら海面に隠れてしまいそうなほどちっぽけな陸地だった。

 そしてすぐそばに、ケイゴと花浜がいた。

 花浜は海の彼方を見つめており、ケイゴはなにやら小さな機器スマホではないを操作していた。

 三条に気づいたケイゴがこちらを向く。

「気がつきましたか。海に落ちましたが岩礁がすぐ近くにあったので助かりました」

 おそらくクルマは水没し、花浜とケイゴとで、一時的に意識を失った三条をこの岩礁まで運び上げたのだろう。

「そうだったんですね。ありがとうございました……」

 三条はとりあえず礼を述べるも、楽観できる状況ではないことを悟った。

 寒さに凍えてしまいそうだった。全身海水に濡れて歯がガチガチと鳴った。岩礁に風を遮るものはなく、陽は出ているものの、このままでは低体温症になってしまう。

 周囲は大海で、誰かの救けなど期待できそうにない。

 三条は上着のポケットから落ちずにいたスマホを取り出してみたが、海水に浸かったためか反応しない。もっとも、こんな沖合ではスマホの電波も届かないだろう。

 だがケイゴの表情にはそんな絶望的な陰りはなかった。

「もう少し待ってください。その濡れた体をなんとかしましょう」

 そう言って、手のひらに収まるほどの機器を空中に掲げた。すると、なにもない空間から突然鞄が出現した。中サイズのリュックサックのような防水加工された鞄である。

 三条はまるで手品を見ているようで目をパチクリさせる。

 ケイゴがそれを手に取ると、中をあけてスポーツタオルを取り出した。

「とにかく、それで体を拭いてください」

 と、三条に手渡す。

 受け取った三条は、ダウンジャケットを脱ぎ、濡れた衣服の上から体とそれから頭髪を拭いた。なんの繊維でできているのかわからないが、あっという間に水分を吸い取っていく。それでいてタオルは水を含んだ様子はない。海水のべとべとした感じは残るが、これで寒さはかなり軽減されそうだった。

 ケイゴも同様に体を拭くが、花浜には声をかけない。花浜は人魚だ。濡れてもどうということはないのだろう。

「あの……ケイゴさん……」

 三条は不思議な青年に、いわく言いたげな視線を向けた。

「ケイゴさんはいったい何者ですか?」

 直球の質問であった。けれども訊かずにはおれない。三条の知らないところでなにか大きなものが動いている。それは実感できた。だがそれはなんなのか――。ぼんやりとした輪郭すらわからずもどかしい。

「そうですね――」

 と、ケイゴは天を見上げた。観念したように。ことここに至って、もうなにも告げないというわけにもいかないとの状況である。偶然か不可抗力か、ともかく三条はすでに巻き込まれてしまっている。

「ぼくは、他の上位次元の地球から来ました。といっても、よくわからないかと思いますが……突拍子もない話なので、呆れ果てるかもしれません」

「ここまで実際に目にしてきて、いまさら荒唐無稽だと一蹴する気はないですよ」

 三条は肩をすくめた。衣服はまだ冷たかったが、ずい分と乾いてきていた。風邪をひかずにすめばいいが。

 三条の言葉に安心したのか、ケイゴは語り始めた。



 宇宙は一つではない。いくつもの宇宙が存在していた。しかしそれらは互いに干渉することなく存在し、見ることすらかなわない。

 それらの宇宙は完全無欠ではない。それぞれの宇宙にある物理法則は異なっており、釣り合いがどこかでとれなくなってくると綻びが生じ消滅する。それは自然の摂理であり、どうすることもできない一面でもあった。

 しかしその宇宙で生きているものにとっては死活問題だった。宇宙がなくなってしまっては困る。少なくとも、地球とその周辺だけでもバランスを維持したい。

 そう考えた人々がいた。もちろんそれはこの地球ではない、別の地球の人間だ。高度に進んだ文明は、次元の異なる宇宙に存在する別の地球へのアクセスが可能であった。

 その組織からケイゴは派遣されたのだった。目的は、別の次元に存在する地球同士の干渉をできる限り抑えることだった。

 地球上で起きる超常現象のなかで、他の次元の地球からの干渉によって生じるものに接触し、影響を最小限に留めるのがその任務なのだ。

 今回は「人魚を人間の手の及ばないようにすること」であった。人魚それ自身、異次元からの干渉によって現出した存在で、それを人間の国家間に持ち出されることにより、多大なエネルギー出力の影響を危惧していた。人魚の存在そのものだけなら危険はないといえたが、そこに人間の欲望が加わると非常に深刻な事態を招きかねないのである。

 人間の欲望には際限がない。どこまでもエスカレートしてエネルギーのエントロピーを下げていく。だからそれを事前に食い止める……というのが彼らの行為の根本だった。ケイゴはその方針によって派遣されてきた、いわば工作員なのである。

 ただし、とケイゴは言った。無制限に物質の派遣はできない。強大な軍隊を送り込むというやり方は質量のバランスを壊してしまう。ケイゴが一人で行動するのはそのためだった。

 できるなら虫州武志には人魚を見つけてほしくはないと注視していたのだが……。

 そこまで黙って話を聞いていた三条だったが、だんだん理解するのを放棄したくなってきていた。あまりに浮世離れが甚だしく、そんな話を素直に信じるのは脳が拒否した。けれども三条がこれまで見てきたものは、その説明を肯定するに足る。自ら体験したすべてを幻覚だ、幻聴だと決めつけるほど頑迷ではなかった。頭から鵜呑みにするにはまだ懐疑的であったが、ある程度は受け入れざるを得ないだろうと思うと、三条は頭が混乱してきた。

「本部は、ぼくが一人で行動する代わりにいろいろとサポートはしてくれます。必要なものは送ってもらえます」

「じゃあ、このタオルも……?」

 なにもない空中から取り出したように見えたが、要はそういうことだった。

「これからどうするんですか?」

 ケイゴが語り終えたところを見計らって三条は問うた。別次元の地球という話はさておき、目下このまま岩礁から動けないでは困る。ボートもなしに脱出するには救助を待つより他ない状況である。もう一度空を飛んで、今度は陸地まで移動できればいいが、花浜にはその魔法は使えないようだった。魔力が尽きてしまったか。あるいは公安調査庁の動きを警戒しているのか。

 その花浜は立ってじっと海を見つめている。なにを考えているのか、CGのようなその美しい横顔からはなにも伝わってこない。

「残念ながら、時間切れなんです」

 すると、ケイゴはとんでもないことを言い出した。

「ぼくは元の地球へ帰還しなければならない。ぼく自身の存在も、小さいとはいえこの地球に影響します。だから活動時間に制限があるんです。そして、その活動時間のリミットがもうすぐやってきます。問題がなければまた帰ってきますが、いったん退場します」

 三条は目を見を丸くした。ケイゴの言った意味に狼狽してしまう。

「ちょっと待って、それってどういう――」

「このままここへ残していくのは忍びないですが、ぼくにはどうにもできないんです。すみません」

 そう言い終わるやいなや、ケイゴの体は空気に溶けるようにして音もなく消えていった。

(えっ、えっ……?)

 三条は呆然とする。

 岩礁に、花浜とともに取り残されてしまった。もともと海洋で生きていた花浜はなんの不都合もないだろうが、頼みの綱のケイゴがいなくなっては三条は詰んでしまう。花浜になんとかしてもらう? 公安調査庁の包囲網を突破できたのだからなにかまだやれるかもしれないが手……。

 三条が花浜に話しかけようとすると、海を見つめながら突然歌い出した。人間なら、さしずめ心が沈まないように歌で気を紛らわすというところだろうが、花浜はそういう意味で歌い出したのではなさそうだった。

 呆気に取られるも、耳に飛び込んできたその歌声はたとえようもないほど美しかった。それこそ人間とは思えないような――花浜は人間でないから当たり前なのだが、ちょうど鳥のさえずりのようなものかもしれなかった。明確な歌詞はなくメロディだけなのもそんな印象に近い。そしてその旋律は、はっきりとはわからないがどこかで聴いたような気もした。

「花浜さん……その歌は……?」

 三条が尋ねようとすると、

「幕石閃輝さんがいる……」

 花浜は唐突に言った。

 花浜という名前の人が幕石捜索を興信所に依頼したことを思い出したとき、公安調査庁がやってきて、それ以上、それについては深く考えることも確かめることもできなかった。それどころではなかった。

 冷静に考えて、もともと海のUMAである人魚の花浜がどうやって新・土井エージェントの事務所までやってきて幕石閃輝の捜索を依頼できたのかが疑問だった。そもそも花浜と幕石閃輝との関係はどんなものだったのかということも聞いていなかった。担当外の案件であるから積極的に関わろうとは思わなかったし、あとは原田翔太が仕事をしてくれるはずだから──。

 そのためか、一連の背景が三条のなかでつながらない。

「幕石さんがいるって……?」

 周囲を見回すも海原が広がっているだけで陸地は遥か遠い。船も見えない。――もっとも、タカのように視力がいいわけでもないから、たとえ海上になにかがあっても見つけられないだろうが。

 花浜はまた歌い出した。

 会話が続かない。日本語が通じるという点だけでも奇跡的なのに、そのうえさらに理論的な会話が成立するのを望むほうが無茶かもしれなかった。

 岩礁からの脱出を花浜に託そうというプランは実現しそうにないと、いったん諦めるしかない。しかしそうはいっても他に手段があるわけでなく、ケイゴが戻ってくるのを待つしかないのだろうかと思うが、ただそれも心もとない。ケイゴの任務はあくまで「地球の状態を維持する」ということらしいので、それに較べれば三条の命など取るに足らないだろうから、わざわざ救けに来るというのはない気がした。人道的な問題を持ち出したところで、技術的にできないものはできないと突っぱねられてはどうしようもない。ケイゴが消えてしまったのは、つまりはそういうことなのだ。

 三条の思いなど知りようもなく歌う花浜の歌声が耳に心地良い。岩礁に打ち寄せる波の音のリズムと合わさって、一度聴いたら胸に残るようなメロディ……。

(これは……?)

 三条は、おや?――と気づいた。潮騒のざわめき……にどこか似ている響きを感じた。

 その楽曲がメディアで注目されているのを三条も知っていた。ライブコンサートもしない、顔出しもしない、ネットだけで活動しているのだが、その独特のフレーズが次第に世間に知れ渡るようになってきていた。

 花浜の歌と、潮騒のざわめきのナンバーが、たまたま同じように聴こえているだけではないか……と思うが、それにしては……と三条は目を細める。

「幕石閃輝さん!」

 不意に花浜が叫んだ。

「どうしたの?」

 反射的に訊く三条。そして、花浜の指差す方向に目を向ける。

 一艘のクルーザータイプのプレジャーボートが近づいてくるのが見えた。もうかなり接近してきているのに、だだっ広い視界のなかで気づかなかった。

 クルーザーはまっすぐ岩礁に向かってきている。偶然通りかかって……というのではなく、明らかに進行方向がこちらなのだ。

(救かる……!)

 三条は飛び上がらんばかりである。

「幕石閃輝さん!」

 花浜は、逸る気持ちを押さえられないかのように叫び、なんと、海に飛び込んだ。

 海面から顔を出し、クルーザーに向かって泳いでいく。まだ距離はあるが、そんなことはおかまいなしだ――人魚なのだから。

(あの船に幕石さんが……?)

 黄色いライフジャケットを着て乗船している何人かの顔ははっきりとは見えない。けれども、そのなかにいるのは間違いないだろうと思えた。

 そして、

(救かった……)

 一気に体の力が抜けていくようだった。


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