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再会

 四崎臨海マリーナに到着した。広い駐車場にはそれほどクルマはない。春とはいえまだ風は冷たい。クルージングに出るにはもう少し時期を待ったほうがいい季節だ。

 社用車から降りたのは、運転していた、興信所・新土井エージェントの探偵、原田翔太はらだしょうたと、匿名人気アーティスト「潮騒のざわめき」の三人――帆村央晴ほむらおうせい別矢芽依咲べつやめいさ、そして、いまは老人ホーム・おれんじ園の職員として働いている太郎こと――幕石閃輝まくいしせんきである。

 一時間半もかかってようやく着いて、原田にしてみれば、会社から老人ホームまで帆村と別矢を乗せ、さらにここまでハンドルを握ってきて、午前中は運転しっぱなしだった。

「ここは……」

 記憶を失くしている幕石が、マリーナの全景を見てつぶやいた。

「なにか思い出しました?」

 別矢が訊いた。ゆかりのある場所へ行けばきっとなにかを思い出す――そう思って提案したが、そのすがるような思いがかなったかもしれないと期待した。

「来たことがある……」

 ぽつりと言った。幕石の脳のどこかにしまわれた記憶の断片が目の前の光景と重なる。自然とセンターハウスへと足が向かった。

「幕石さん、どこへ……?」

 カーナビの指示に従って運転してきたはいいが、初めて来る場所で勝手のわからない原田は、戸惑いながらも幕石の後を追おうとした。

「幕石さんは、きっとどこへ行ったらいいか習慣的にわかるんですよ」

 帆村が原田に耳打ちするように言った。インスピレーションを得るためにクルーザーを所有したと聞いてはいたが、基本的には海が好きで、プレジャーボートのオーナーになるのは昔からの夢だったのに違いなく、それだからこそ行動に迷いもなくなる……。マリーナに行こうという別矢の提案は適切だったと帆村は評価する。

 白い外壁の、海に面した南側が上から下までガラス張りというリゾート感抜群の建物への歩みはまっすぐであった。

 どんどん歩いていく幕石に別矢が追いつく。何日か前に別矢はここへ来て、幕石が行方不明になる直前のことをスタッフから聞いていたから、原田や帆村と違って要領は得ていた。

「センターハウスがわかるんですか?」

 だから訊いた。幕石は、そこがどんな場所なのか、はっきりとではなくともなんとなくわかるのかもしれない。

 四人そろってセンターハウスに入った。ガラスのドアを抜けると暖房が効いて暖かかった。その暖かさと、大きな窓からの日差しが、まるで南国にでも来たかのように感じさせる。壁も外壁同様白く天井も高いことから開放感たっぷりである。

 利用客はいなかった。ショッピングコーナーには誰もおらず商品は暇そうに並んでいた。

 幕石はきょろきょろすることなく一直線に受付カウンターに向かった。

「これは幕石様、いらっしゃいませ」

 カウンターの内側にいたスタッフユニホームを来た若い男性がにこやかな笑顔で先に声をかけてきた。

「ご出港でございますか」

 そして、背後に作りつけられたボックスからクルーザーのキーを取り出した。

 はい、とうなずき、キーを受け取る幕石だが、目的海域と帰港時間を記入する用紙を前に、手に取ったペンが止まる。が、なにか思い浮かんだのかさらさらと書き込んだ。

「行ってらっしゃいませ」

 用紙を受け取るスタッフは丁寧におじぎした。いつものやりとり、といった感じでなんの違和感もない。

「記憶が戻ったんですか?」

 幕石の様子をすぐそばで見ていて、受付を離れて歩き出してからそう訊いたのは原田である。本人が幕石閃輝である、というのがはっきりしたのなら花浜からの依頼はほぼ完了となる。初めてメインで受けた案件を完遂できたというのは駆け出しの探偵にとって大きな自信になる。うれしさが込み上げてくるのは、もちろん自分の成果になるというのもあるが、なにより依頼者の力になれそうだ、ということが大きかった。

「んむ……」

 が、幕石の表情には当惑が見られる。

「なんだか不思議な感じです……。体が勝手に動いたようで……」

「そうとなればクルーザーに乗ってみましょうよ」

 別矢がそう持ちかける。最初からそのつもりでいた。とにかく記憶を呼び戻す要素があるのなら、なんでも見せていこうという思惑で。

「いや、でもどの船なんだい?」

 帆村が繋留所に目を向ける。白いプレジャーボートが何十搜も波止場につながれ、どれが幕石が所有するクルーザーなのか見当もつかない。

「わかりますか?」

 別矢は幕石に問いかける。以前一度来てスタッフに案内されていたから「玲瓏れいろう1」の繋留場所はわかっていた。幕石がさがせないようなら引っ張っていくこともできた。

「こっちですね……」

 幕石は波止場を見回し、枝分かれする桟橋をためらうことなく進んでいく。ついていく三人。

 やがて一艘の小型クルーザーの前で立ち止まった。しげしげと艇体を見る幕石。

「これが、幕石さんの船なんですか?」

 帆村が訊く。幕石は返事をしなかったが、思い出を手繰り寄せているかのような沈黙でじゅうぶんだった。

 四トントラックに載るほどの大きさ。船室キャビンはない。青い屋根のついた運転席にだけシートがあるが、デッキにも人が乗れそうだった。小型とはいえ、購入や維持にどれだけの費用がかかっているのか、関係者でなければ想像もつかない。艇体の前方に「玲瓏1」の文字。

「あれ、なんて読むんですか?」

 原田が船名を指差した。

「れいろうワンです……」

 幕石は答えた。

「れいろう……」

 口に出したもののどういう意味かわからず、原田は内心首を傾げる。

「だんだん思い出してきたよ……。でもまだ完全じゃない……。なんか、まだらな感じで……」

「じゃあ、クルーザーを運転しましょうよ――」

 別矢がうながした。

「出港届けは書いたんですし……。運転できそうだから、書いたんですよね……?」

「うむ……。やってみます」

 少し考えてうなずいてからクルーザーを繋留しているロープをほどくと、幕石はぽんとデッキに飛び乗った。

「だいじょうぶですか?」

 帆村はやや不安な表情を浮かべる。運転技術もしっかり思い出しているのなら問題ないが、そうでなければ事故につながりかねない。

「わたしは乗るわ」

 別矢はクルーザーのデッキに這い上がるようにして乗った。マリーナは停泊エリアが波消しフェンスで囲まれているとはいってもまったく揺れないわけではないから、姿勢を低くして転げ落ちないように注意した。

 波止場に残された原田と帆村の男二人は顔を見合わせた。

「では、僕たちも行きましょう――」

 言ったのは原田だ。

「――幕石さんの具合を見ていないといけない。それに、クルーザーに乗れる機会なんてそうそうないですし」

 スーツの上下でも気にしない。まるで観光船にでも乗り込んでいるようで。

「そうですね……」

 記憶のない状態でクルーザーを運転してなにかトラブルでも発生したら対処できるのだろうかという不安があったが、岸に残るという選択もなかった。真実を知るためには乗る必要があると心を決めて、帆村はデッキに上がった。別矢が平然としているというのも背中を押した。

 もやい綱を片付けた幕石は運転席につくと、収納ボックスからなにかを取り出した。

「初めて乗るわけですから、これを着用してください」

 手には、遠くからでも視認できるよう、目の覚めるような黄色のライフジャケットがあった。そういう記憶もしっかり取り戻していた。というより、老人ホームで働いていたときには関係のない知識だったから思い出せずにいたのかもしれなかった。過去に触れたものに接することで記憶を呼び覚ますことができるなら、あるいは……という期待が持てた。

 別矢と原田と帆村はそれぞれ受け取り、幕石が着用するのを見て、手を通してベルトを締める。

 幕石は一応、三人の着用状態を確認した。そういうこともしっかりできていた。それから運転席に戻り、コンソールにキーを差し込んだ。回すとエンジンがかかった。マリーナのスタッフによるメンテナンスは完璧だ。ディーゼルエンジンの音が高い。ハンドルを回し、スロットルを徐々に開けていくと、クルーザーはゆっくりと波止場を離れた。

 運転席シートの幕石の隣に別矢がつき、男二人はデッキの左右に分かれてハンドレールバーにつかまった。

 停泊中の何艘ものプレジャーボートの列を横目に、外海への水路を低速で通っていった。

 波消しフェンスの間を抜けて外洋に出ると、途端に船が揺れだした。

「どこへ向かってるんですか?」

 運転席の幕石に、別矢が尋ねる。

 操船に困ることなくハンドルを握る幕石は須臾の間をおいてから口を開いた。

「うまく説明できないんですが……なんとなく、この方向ではないかと……」

「きっとそれも記憶が戻りつつある前兆ですよ」

 別矢は前向きに解釈した。

 クルーザー同様、幕石自身がリアルに接した物を体は憶えていたというのはあるだろう。リモートによる会話だけでリアルに会っていない別矢と帆村では、会話してもなにかを呼び覚ますには至らなかったというのは、ネットの弊害のひとつだといえるかもしれなかった。逆に言えば、過去に直接顔を合わせていれば、別矢や帆村と再会したときになにか思い出せたかもしれないということで、別矢はそこになにかしら思うところがないではなかった。

 空は快晴だが風はやや強く波が白く尖っている。玲瓏1はその波を切り裂いて進んでいく。吹きさらしの船上は風が冷たい。

 急にやってくる高波に警戒して、デッキのガイドレールバーを手が白くなるまで強く握りしめる帆村と原田。ときどき跳ね上がった海水の飛沫が飛んできた。

 どこへ向かっているのか、ハンドルを握る幕石の操船は、揺るぎない意志さえかもしだしていた。その行き先に、幕石の記憶を呼び覚ますなにかがあるのだろう。

 エンジン音が調子いい。

「聴こえる……」

 不意に幕石がつぶやいた。

「え? なんですか?」

 すぐ右側にいた別矢はその声に反応する。

「彼女の声です」

「彼女……?」

 別矢は眉を寄せる。想定していなかった単語ワードが飛び出して、なんの話をしているのか困惑してしまう。戻りつつある記憶と関係あるのだろうと思えるが、唐突すぎた。

 出港してから十分ほどたっていた。海岸は後方にまだ見えているが、もうかなり遠い。周囲に船はない。〝彼女〟というのが誰を指しているのか、そもそも〝彼女〟の声など聴こえない。耳に入るのは耳朶を打つ風とディーゼルエンジンの音だけだ。ただ、その〝彼女〟が、幕石の記憶を戻す鍵になるのは間違いないだろうとは思えた。

 しかしなぜ幕石だけにしか聴こえないのか――。これも記憶喪失の影響なのか判断できない。が、否定はせず、ここは幕石の操船を見守る。

 ハンドルを大きく回した。沖へと向かっていた玲瓏1は針路を変更する。遠くの海岸を右に見て西へ向かっていく。

 さらに数分。

 絶えず揺れる船上で、原田は気持ちが悪くなってきた。こんな小型の船に乗って沖合に出るという経験が一度もなかった。想定外の揺れが胃を襲う。乗ったのは失敗だったかもしれないと思ったが、もう引き返すことはできない。険しい顔つきで、気軽にクルーザーに乗ってしまったことを悔いたが、辛抱するしかなかった。

 幕石がエンジンのパワーを落とした。スピードが徐々に落ちていく。

 遠くに見える海岸には建物が少なくなっていて山が迫っていた。かなりの距離を移動していた。

「あれだ!」

 前方を指差す幕石。

 別矢と帆村と、船酔いで顔色の悪い原田は、そこへ目を向けた。

 百メートルほど先に、小さな岩礁が海面から顔を出していた。まさかと目を見張った――そこに人影を認めたのである。

 遠目ではあったが、ほんの二十メートルぐらいの大きさの、満潮になってしまったら水没してしまいそうな岩礁に二人もいた。

 クルーザーの上から驚いて見ていると、そのうちの一人が海に飛び込んだ。

 そして、クルーザーに向かって泳ぎだしたのである。


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