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依頼完了

『なんだとぉ!』

 通話相手の声が大きく響いた。

『――それはどういうことだよ!』

 荒げる声の主は比森である。

 そして電話をかけたのは先野光介だった。

 右岡奈音とファミレスで会った翌日、先野は新・土井エージェントの事務所で報告書を作成した。今回の依頼案件である「右岡奈音の捜索」に関する報告書だ。

 数日かけてあちこち聞き周り、その結果をまとめ、そのうえで右岡の意思を細かく記した。

 それを提示する前にさっさと電話で伝えた。比森の反応は予想どおりだった。大枚をはたいて探偵を雇ってまでして消息をつかんだというのに、会うどころか電話さえできない完全拒絶では納得できないのも当然だろう。

 だがカネさえかければなんでも望みどおりになるわけではないのが現実だ。なのに、それがわからない人間は多い。

「残念ですが、それが右岡さんの――」

『本当に見つけたんだろうな! さがし出せなくて、いい加減なことを言ってるんじゃないだろうな!』

 証拠を見せろ、と比森はすごんだ。

 先野はしかし冷静だ。

「では事務所までいらしてください。詳しくお伝えします」

『………!』

 電話の向こう側で怒髪天を衝くような気配。

『すぐに行くから待っていろ!』

 通話が切られた。

 先野はコードレスの子機を充電器に戻す。やれやれ、と肩をすくめた。

「たいへんねぇ……」

 そう言ったのは、通りかかった硯山マネージャだった。今日の髪の色は、目の覚めるようなオレンジだった。

「――相手の声がここまで聞こえてきましたよ」

 先野はデスクの椅子の背もたれに背中を預け、まぁな、と返す。

 調査結果に不満を持つ依頼者は少なくない。自分の予想している結論が先にあり、それと異なる報告が上がってくると認めたがらないのだ。ストーカー被害に遭っていると思い込んで調査してもそれが妄想にすぎなかったり、怪しいと思って身辺調査を依頼したのに埃一つ出てこなかったり……。そうなると、いや、そんなはずはない、とゆずらないのである。むろんしっかり現実を受け止める依頼者も多いが、とかく人間というのは疑い深く疑い出すときりがないものなのだ。

「だが動かぬ証拠を突き付けてやれば、たいていは渋々引き下がる。といっても、それでも往生際悪くあきらめきれない顧客もいるがな……」

 比森はどうだろうか……。六百万円もの借金を女のために肩代わりするなど普通ではない。そこまで入れ込んでいる女なのに逃げられるというのはわけがわからないのだろう。だがその行為自体が避けられる元だとは思わないところがまたイタかった。

(それに──)

 証拠はないが、借金を返せなくなって幕石閃輝を殺害した、と思われていることも大きい。カネのために人殺しをするような、そんな危険な男から逃れようと思うのは自然だろう。

「ということで、すぐにでも踏み込んできそうなので、おれは着替えてくる」

「おや、着替えるって……どういうことなの?」

 白い上下のスーツ。事務所内ではその格好で貫き通す先野である。着替えるのは外出――調査のために出ていくときだけだった。だからその意味を計りかねる硯山達護郎だった。すでに報告書まであげて、あとは依頼者への説明だけでこの案件については終了だ。そして先野には他になにもメイン案件が入っていない。総勢三十人いる社員探偵のスケジュールがすべて頭に入っているマネージャとしてはそれではまずいと思うわけで、なるべくなら探偵には均等に仕事を配分できたらと願うもどうしても偏りができてしまう。なんとかしたいものだと思いつつ、更衣室へと移動する先野の背中を見送る。

 事務所の更衣室には興信所ならではのさまざまな衣服やユニホームが整えられていて、TPOによって使い分けられるようになっている。眼鏡やカツラなどの変装用の小道具まで用意されていた。たとえばターゲットを尾行するときなどが長時間にわたる場合、同じ人間だと思われないために外見を変えるのに必要なのだ。そういうところがいかにも探偵事務所だといえるだろう。

(どこかへ行くのかしら……?)

 硯山マネージャは小首を傾げた。



 一時間半後、「新・土井エージェント」の事務所に比森はやって来た。

 貧乏ゆすりをしながらパーテションで区切られた面談ブースで待っていた比森は、数日前に会ったときより目つきが悪くなっているような気がした。

「どうも御足労願いましてすみません」

 そう言って対応に現れた先野は、事務所にいつもいるような目立つ白い上下ではなく地味な黒いビジネススーツだった。

「どういうことなのかきちんと説明しろ。電話番号ぐらいわかったんだろう? とっとと教えろ、こっちは興信所おまえんところに大金を払っているんだからな!」

 比森は立ち上がって怒鳴りつけた。

「まぁ、落ち着いてください。お茶でもどうぞ」

 先野は手に持っていた湯気の立つ紙コップをテーブルに置いた。面談室には来客用にとサーバーが設置されていた。

 比森は興奮に落ち着かない様子だったが、それでも腰をおろした。紙コップのお茶に遠慮なく手をつける。

 脇に挟んでいた報告書を比森に向けてテーブルに置いた。

「報告書です。ここにも詳しくは記されていますが、電話でも申し上げましたとおり、右岡奈音さんは、比森様にはお会いしたくない、とのことでした」

彼女あいつはどこに住んでいるんだ? この近くなのか?」

「それも申し上げられません」

 先野はスーツの内ポケットからスマホを取り出した。動画を再生する。ファミリーレストランで別れた後、正式に意思を示してもらったものであった。顔を出した右岡奈音本人が、比森との接触を拒絶していた理由も語っていた。

 再生の終了した声を聞き終わり、比森は信じられない気持ちで体を震わせていた。

「なぜなんだ、くそぉ……それなら六百万円返しやがれ!」

 そう怒鳴るのも無理ないだろう。だが女に貢いだ末に捨てられる男など昔からどこにでもいた。そしてその理由がわかる男が少ない。カネで心は買えない。

「六百万円が返ってくればいいんですか……?」

 先野は訊いた。

「そのカネがあれば、会社をたたまずに、事業を継続できますか……?」

「いや……」

 気まずそうに比森は否定した。もはやそのモチベーションはしぼんでしまっているようだった。会社を清算したのち別に事業を興して経営していくなどということができる人間は、よほどバイタリティのある者ぐらいだろう。ことほど左様に会社経営を続けるのは難しいのである。だから先野も、独立心はあるもののいまだ果たせていない。

「でも事業が継続できなければ一千万円もの借金、幕石さんには返せないですよね……?」

「なんでそのことを……!」

 先野に指摘されるとは思っておらず、比森は目を泳がせた。明らかな動揺は、先野がどこまで知っているのかと警戒しているようだった。

「おれの借金なんか、今回の依頼に関係ないだろ」

「そもそもなぜ右岡さんが失踪しなければならなかったのか。その理由から知らないと、なかなか消息をつきとめられませんからね。あちこちで聞き込みをしましたよ。その過程でいろいろとわかりました。──そうそう、幕石さんが見つかったそうですよ。比森さんの元部下だった人でしょう? 行方不明だったんですけど居場所がわかりました。元気そうだと聞きました」

 瞬時にして比森の表情がこわばった。必死で心を隠そうとしているが隠しきれていなかった。

「実は、幕石さんをさがしてほしいという別件の依頼が入ってましてね……。こちらも見つかってよかったですよ」

「誰が依頼したんだ?」

「それは申し上げられません。守秘義務というのがありますから。ただ、幕石さんは記憶を失くしていましてね……。なんとかそれを取り戻そうと、いまうちの探偵と四崎臨海マリーナに向かっているところなんですよ。幕石さんが行方不明になる直前、比森さんとクルーザーに乗っていたんですってね……さぞやご心配だったんじゃないんですか?」

 ガタ、と椅子を鳴らして腰を上げる比森。

「どうなさいました?」

「急用ができた……」

「そうですか」

「これで失礼する」

「では、これをお持ち帰りください」

 先野はテーブルの報告書を取り上げる。

 比森は面倒そうにひったくると、大股で面談ブースを出ていった。

「またお困りの際は、ぜひご利用ください」

 先野は去っていくその背中に声をかけて見送る。

 が、比森が出て行ったドアを見つめていた先野は、おもむろに腰を上げた。

「さて……」

 と、つぶやいた。



 ビルの外に出ると、歩道の五十メートルほど先に遠ざかる比森の揺れる背中が見えた。向かっているのは駅方向ではなく近くのパーキングだ。おそらくそこにクルマを停めているのだろう。新・土井エージェントが社用車と来客用に借りている場所である。

 先野は追跡する。社用車のキーも持ち出していた。

 予想どおり、つけて行くと、比森が駐車場の古い軽自動車に乗り込むところだった。先野は比森に気取られないよう、端のほうに停めてある社用車の陰に入りそっと乗り込んだ。

 比森は周囲に注意が向かないようだった。それどころではない様子で、先野に気づかないままクルマを発進させた。

「どこへ行くかな……」

 小さくつぶやくと、軽自動車の行き先を注視しつつ先野も静かに社用車を発進させた。ハイブリッド車は音もなく駐車場を出た。


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