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人魚

 虫州武史むしゅうたけしは、まるで遊園地へ行く朝の子供のように、早朝からそわそわしていた。

 人魚を捕えるための罠を仕掛けた翌日である。その結果が早く知りたくてたまらないのだろう。昨夜はあまり眠れていないようだった。

 だから民宿の部屋で朝食を食べているとき、

「食べたら、檻を見に行ってみよう」

 と言いだしたのも意外には思わなかった。

 三条愛美さんじょうまなみは、はいわかりました、とうなずくも、

「しかし昨日の今日で、もう人魚がかかっているものなんでしょうか……」

 懸念しつつ質問した。生玉子としらす干しを茶碗のご飯に乗せ、醤油をちょっと垂らす。漬物と味噌汁と一夜干しという、この代わり映えのしない朝食メニューももう何日目だろうか。

「いや、昨夜のうちにかかっている可能性があると、わしは考えている。あちこちから集めまくった古文書によると、人魚は夜中にこそ活発に活動するとの記述があるのだ」

 虫州は少年のように目を輝かすのだった。

 三条は内心訝しんでいる。そんな簡単に捕まるものなのかと、カメラに映っていたあれが人魚であるはずがないと疑ってかかっていた。

 そんなことよりも昨日出会った青年が気になっていた。

 幕石閃輝まくいしせんき──かもしれない青年。

 たまたま入った海沿いのシーフードレストランで見かけたときは正直驚いた。似顔絵がスマホに送られてきたのが数日前だった。だからそんな偶然があるはずがないと思うのも無理はない。

 本人かどうか確かめようとしたが、彼は記憶喪失にかかっていたと知って二重に仰天した。

 担当の原田翔太に電話すると、すぐに行くとの返事だったが、記憶を失くしていると伝えたらしばし絶句していた。しかしこれで行方不明になっている理由も得心がいく。記憶がないなら失踪もうなずけた。

 問題は、彼が本当にさがしている「幕石閃輝」なのかどうかだ。他人の空似というのもありうるし、写実的に描かれているといっても、手がかりは写真ではなく絵なのである。どこかしら書き手のフィルターがかかっているものなのだ。

 自分の名前さえわからなくなっているとなると本人だと証明することは難しいのではないか──。

 まだまだ新人で、他の探偵のサブを主に担っている原田にとっては、この案件ヤマは困難ではないかという気がする。

 もちろん会社としても原田だけに任せっきりではないだろう。他の探偵が力になってくれるに違いない。昨日のうちにおれんじ園を訪れているはずの原田からはなんの連絡もないことを気にしながらも、手伝ってあげたいという気持ちを抑えた。

 三条には三条の仕事があった。いまは他の案件にかかわってはいられない。いくら自分の担当案件がバカバカしいと思っていても。

 今日も天気がよかった。冬場の太平洋岸は天気の安定した日が続く。もう間もなく春になると雨がちになるが、まだそんな季節ではない。もっとも、雨が降っていたとしても、海が荒れていない限り虫州は海に出るのをやめようとはしないだろう。

 モーターボートはいつもより心なしかスピードが出ているような気がした。虫州には、もしこの捕獲が成功したなら自分のUMAハンターとしての人生の大転換となるに違いないという意識があるに違いないのだ。世間からこれまでさんざんバカにされてきてもなお信念を曲げなかったことがついに報われる……のではなかろうか。

 昨日罠を仕掛けた地点に到着した。

 モーターボートの船外機エンジンを止める。すでにウェットスーツを身につけた虫州はいつもよりも準備万端といった感じで気合が入っていた。水中眼鏡をつけ、

「では行ってくる。檻を持ってあがったらボートに引っ張りあげてくれ」

 冷静を装いつつも声が弾んでいた。

「わかりました。お気をつけて」

 どぼん、と水しぶきをあげて虫州は海へと飛び込んでいった。足びれも力強く海中へと沈んでいくとすぐに見えなくなった。

 三条はいつものようにボートの上で待つ。

 虫州が読み漁っている大昔の文献がどんなものかは知らない。なまずが暴れて地震が起きているという文献があったからといってそれを信じる人が現代にいないように、人魚の記述もどこまで正しいか怪しいものである。

 ただ、気になるのは公安調査庁である。三条とのコネクションを担っている名波綾羽ななみあやはの個人的な感情はともかく、組織としてどうこの件に関与してくるのかが一向に見えてこない。国は本気で関わるつもりなのかどうか。

 そして、ケイゴという若者の存在……。彼がどうして公安調査庁のことを知っているのか──。一度しか姿を見せていない謎の人物であり、もしかしたら他国のスパイかもしれない。米国や中国、ロシアまでが介入してくると、そんなことを言ったということなら、それ以外の国から派遣されてきた工作員という可能性もあった。日本は平和ボケしていて他国からの情報戦に疎いとも聞いたことがあった。安全保障にまつわるありとあらゆる情報が筒抜けだとなれば、ケイゴのような人間がいてもおかしくないだろう。

 虫州が戻ってくるのが遅い。檻の罠になにもかかっていないから再調整しているのかもしれない。別の生き物がかかっていたりすると、それを追い出し、また仕掛けなおししなければならないから、それで時間がかかっているのか……。

 波に揺れるボートにも毎日のことで慣れた。海の上を海鳥が高く舞っていた。水平線近くにゆっくりと動く船はどれぐらいの大きさなのか判然としない。

 突然、水面からぬっと出てきたのは檻だった。

 水中の虫州に持ち上げられた犬用のケージのような大きさの檻から大量の水が流れ出る。

 アルミ製の檻のなかに、なにかが入っていた。それは――。

 檻をボートに引き上げた三条は、虫州の手を引くのも忘れてまじまじとなにがかかったのか見てしまう。

 虫州は自力でボートに這い上がった。

「どうだ、わしの見立てどおりだろ」

 三条は、得意げなその声も耳に入らない。ごくりと唾を飲み込んだ。

 一昨日、海中に仕掛けたカメラに捕らえられた映像は、何度スロー再生してもその姿は不鮮明で細部が判然としなかった。だがいま檻に閉じ込められているこの生き物は……。

「これが人魚なんですかっ?」

 振り返って尋ねた。

「さぁ、岸へ戻るぞ。このままだと弱ってしまうからな」

 虫州はタオルで顔をぬぐい、ニヤリと口角を上げた。見ればわかるだろと言いたげであった。

 船外機のエンジンをかける。舵レバーを握り、意気揚々と海岸へ向かった。



 民宿のすぐ眼の前が海だった。岸に横付けされたボートを降りると階段を上がって堤防を乗り越え、そこから十五メートルほどで民宿の庭に着いた。

 クルマが三台ほど入る広さの庭にはすでにプールが準備されていた。ビニール製の簡易的なプールで、子供が二、三人で水遊びをするのがせいぜいの、泳ぐなんてとてもできないサイズのものに海水が入れられ日の光を反射していた。

 虫州と三条は、二人がかりでそこに檻を運び静かに水のなかへ下ろした。いっぱいに水を張っても深さはせいぜい五十センチといったところに檻が沈む。

「異常が起きないか注意して視ていてくれ」

 アクアラングを下ろした虫州は、ウェットスーツのまま裏口から民宿へ入っていった。着替えてから脱いだウェットスーツを干しに戻ってくる間に、三条はスマホで電話をかける。依頼主である、公安調査庁の名波綾羽である。

 コール四回でつながった。

「あの……っ」

『どうしました?』

 声が尋ねる。三条は息を吸い込み、

「人魚が捕まりました」

 真面目にこんなことを言う日が来ようとは思わなかった。その事実に半ば呆れ、また困惑していた。

『本当ですか……?』

「いえ、その……これが人魚だとしての話なんですが……少なくとも、虫州さんはそう思っているようです」

『普通の魚ではないのですよね?」

「はぁ……たぶん……」

 何事も核心をついて話す三条だったが、このときばかりはそうはいかなかった。はっきり言えないのがもどかしい。

「写真を送りましょうか?」

『いいえ、撮影はしないでください。……わかりました。ではすぐにこちらも対応に向かいます』

「いつぐらいになりそうですか……?」

『おそらくすぐにそちらへ到着できるでしょう。何時ぐらいかは言えませんが。とにかく、注意深く見ていてください』

 通話はそれで切れた。

 三条は素早くスマホをしまう。それから檻の中の〝人魚〟を見た。

 体長は六十センチほど。錦鯉ぐらいの大きさだった。下半身は魚だが、尾ヒレの向きは魚とは違っていて上下に動く。そして上半身は、人間というか、別の生き物のようだった。二本の腕らしきものがあるが、ヒレがそのように変化したかのようで人間の腕のようではない。頭部は魚とは明らかに違って首があり、頭の向きが動いた。そしてその顔は……裂けたような口、尖った鼻、魚のように外側を向いた目。

 不気味だった。妖怪といわれればうなずける容姿であった。ディズニーアニメに登場するような人魚とは似ても似つかないグロテスクさだった。海洋生物は人間とは相容れない形状をしていることが多いが、それにしてもこれは……と見るほどに声を失う。

「どうだ?」

 虫州が裏庭に戻ってきた。羽織っている茶色い撥水性のジャンバーは袖口が擦り切れていて相当長く着ているようである。古くなってもまったく気にしていないところが虫州らしかった。

「なにも変化はありません」

 三条は答えた。スマホで通話していたところを見られないよう注意していたが、それでも緊張してしまう。

 檻の中で〝人魚〟はおとなしくしていた。暴れることもなく、自分の身になにがおきているのか理解できているのかどうか……。どれほどの知能があるのか知れないが、生物学的に考えて高い知能を有しているようには見えない。

 虫州は手にしていたウェットスーツを物干し竿にかけた。

「いいか、これをどう公表するかは大事だ。迂闊なことはできん。じゅうぶんに検討しないといけないだろう」

 一人きりで研究を続けているときとはわけが違う。それは三条も理解できた。不用意に公表すれば社会的にどんな災厄に見舞われるのかわかったものではない。ネットで瞬時に世界中に知れ渡ってしまう現代ではとりわけ慎重になるべきだろう。

 そもそも人魚だと信じてもらえるか?

「こいつに名前をつけよう」

 それでも長年の苦労が報われたと、得も言われぬといった表情で、プールに沈む檻の中を凝視みつめて虫州は唐突にそんなことを言った。

「名前……ですか?」

 三条は意外に思う。名前は愛情の象徴だ。あくまで研究対象としか見ていない虫州が〝人魚〟に名前を付けるというのはちぐはぐな感じがした。が、UMAに並々ならぬ情熱を傾け続けてきてようやっと巡り合えた成果に心が躍り愛情に近い感情をいだくのはありそうだと思った。

「そうだ。花浜はなはまと呼ぼう。四百年前の文献にその名前が出てくるのだ」

「花浜……ですか……」

「良い名だろう? 誰がつけたかはわからんが……人魚をそう呼んでいるのだ……」

 虫州は満足そうに破顔し、

「さて、これから忙しくなるぞ……。わしは今後のことを考えねばならんから部屋に入っている。ここは頼んだぞ。明日までには結論を出さなければな」

 と言って、これまで見せたことのないうかれた表情で背を向けると、民宿のなかへと入っていった。


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