新・土井エージェントの探偵、先野
「うそ……信じていたのに……」
助手席の女はつぶやき、絶句する。涙が滔々と流れ、チークの薄い頬をつたう。
見つめる視線の先には一軒の戸建て住宅があった。軽自動車とワンボックスが収まる駐車スペースを有する、二階建ての新築住宅。庭先には、補助輪のついた子供用の自転車が無造作に置かれていた。
典型的な「勝ち組」夫婦の家であった。絵に描いたような幸せに満ちた家庭がそこにはあり、笑い声さえ聞こえてきそうだった。
「どうしますか?」
運転席の中年男は問う。エンジンを止めたクルマのなかは徐々に気温が下がり、たまらずコートを羽織っていた。かれこれ一時間もここにいて、煙草でも吸いたいところであったが、隣に依頼人を乗せているということもあり我慢している。というか、そもそも社用車の車内は禁煙だった。
先野光介は興信所「新・土井エージェント」に所属する、社畜の私立探偵である。
会社から指定された案件を淡々とこなす三十八歳は、私情は差し挟まない。
「ここの判断は、おまかせしますよ」
いなくなった恋人をさがしてほしいという依頼を受け、さがしあてたのが目の前の家だった。その近くで張り込むこと一時間、男はその家に帰ってきた……。
妊娠の発覚後に女は捨てられた。
家庭を持っている男なら、そうするのも想像できる。せっかく築き上げた幸福を壊されるのを恐れたのだ。それならば不倫などしなければいいのだが、キャバクラなどの女遊びでは満足できなかったらしい。
これだけ立派な邸宅を持てるぐらいの収入がなまじっかあると歯止めが効かないのだろうかと、先野はこれまで関わってきた浮気調査を顧みて思ったりした。
「玄関に飛び込んでいって、相手とその家族にあらいざらいぶちまけてきますか?」
その結果修羅場になるのは目に見えていた。最悪ひとつの家族を破壊することになるかもしれない。しかしそれは男の自業自得であり、その罰は免れ得ない。
その判断を隣に座る若い女に負わせるのも酷な気もしたが、他人の人生に過度に踏み込むのは探偵としての領分を超えると先野は考えている。
「行きます」
ぐっと奥歯を嚙みしめる依頼者。
「探偵さんは、もう帰っていいです」
「そうですか……」
依頼者はドアを開け、車外に出る。夜の冷えた空気が入れ替わるように一気に入ってきた。
「では、健闘を祈りますよ」
悲壮な足取りでその家に向かう後ろ姿をフロントウィンドーごしに見送る。細い体は壊れてしまうのではないかと思えるほど頼りなかった。
ネットの普及で、昔に比べて簡単に男女が出会えるようになったため浮気や不倫は多くなった。
興信所に持ち込まれる案件も多くなっている……はずなのであるが、先野はあれから三日間、仕事がなかった。
それはおれが優秀で仕事を早く片付けてしまうからだ、と先野は疑わなかったが、実のところ忙しくすると仕事が雑になるからだとマネージャの硯山達護郎は分析していた。部長から降りてくる案件が、絶妙に先野に回ってこないのはそのためだろう、と。
雑居ビルの三階ワンフロアの全部を借りている広い事務所で、先野は熱く語っていた。
「やりこめられるんじゃないかって思ったんだけどな。芯の強い女ってのは外見からではわからんもんだぜ」
不倫相手の家族の元に踏み込み、落とし前をつけさせてきたのだという。
依頼者を降ろして帰ってもよかったが、そのまま近くで待っていた先野は、送りがてら彼女から直接そう聞いた。
「養育費を約束させたとはいえ、一人で産んで育てようってのは、よほどの覚悟がないとできない。いい女ってのは、ああいう女のことをいうんだぜ」
後輩の新人探偵相手にそんな話をしているところに、マネージャがやってきて言った。
「先野さん、緊急の仕事が入ったけれど受けてくれるかしら?」
事務所はがらんとしており、ほとんどが調査に出ていた。残っている探偵も資料の整理や報告書の作成に勤しんでいる。
「おお、ちょうど仕事が終わったところだったから、いつでもいいぜ」
三日前を「ちょうど」と言い切る先野は、ある意味剛気かもしれなかった。
「今日もアイシャドーが決まってるねぇ」
目立つのは紫のアイシャドーだけではなく、緑色の口紅と赤く染めた短い髪も自己主張が強かった。それらが濃い髭剃り跡と相まって、硯山はなんともいえないオーラを放っていた。
「先野さんこそ、そのスーツ、いつもかっこいいんじゃないの」
一方の先野といえば、上下純白のスーツを紫のシャツの上に羽織り赤いネクタイを締めていた。事務所内ではいつもこの格好で通していた。その理由は誰にも語ったことがなかったが、あえて聞こうという物好きもいなかった。
この個性的なファッションの二人がそろうと、事務所内でコントでも始まったかのような雰囲気になる。
「本来ならべつの探偵さんに任せる予定だったんだけど、ちょっと調査が長引いていてね」
長身から事務椅子に座る先野を見下ろすマネージャは、やや申し訳なさそうな表情で、困っているところを助けてくれ、のアピール。
「そのためにこのおれがいるんじゃないか。困ったときの代打ってやつよ」
機嫌よく乗ってくれた。
「原田くんもいっしょにこの案件に当たってくれる?」
「あ、はい……」
先野の話相手につきあわされていた原田翔太は、思わぬ仕事の話に反射的にうなずく。入社してまだ浅く、他の探偵のサブとして業務を学んでいる最中の二十三歳の青年であった。
「じゃあ、十四時に面談ブースに」
マネージャ硯山達護郎は案件内容を軽く説明して、じゃあ頼んだわよ、と言って手と腰を振りながら去っていった。
比森、とその男は名乗った。四十代の脂ぎった顔にぎらついた双眸。ひとことでいえば人相がよくない。
もっとも、先野光介も他人のことはいえず、調査や尾行中に警察官から職務質問されることは数知れず、その回数は興信所の最高記録を更新中だとか。誰が見ても怪しそうな顔つきは本人も自覚していたが、曰く、「男は顔じゃない」であった。
事務所のすぐ外に設けられた、パーテションで区切られた六つのブースのひとつに、先野は原田とともに四人がけのテーブルについて、依頼者に対していた。
「さがしてほしいのは、右岡奈音という女だ」
と、比森は言った。暖房がきいているにもかかわらず、黒のコートを脱ごうともしない。
「年齢はたぶん二十六歳」
スマホで撮った写真を提示した。目鼻立ちが整った美人である。
「おれは彼女の借金を肩代わりした。なのに行方をくらましたんだ。なんとかさがしだしてほしい」
「借金を……代わりに返してあげたんですか?」
分厚いシステム手帳を広げた先野はボールペンを走らせる。
「ああ、六百万円ほどな」
「六百万……」
そんな大金の借金を肩代わりするなどというのは普通の関係ではない。努めて平静を装ったが、内心瞠目ものである。
「それはひどいですね……。しかし、なにかあったんでしょうか? 失踪に心当たりはありませんか?」
「それはこっちが知りたい」
先野はうんうん、とうなずく。
「警察は頼りにならないからな。ぜひ見つけだしてくれ。謝礼ははずむ」
「いえいえ、当社は規定代金のみで依頼をお受けしておりますので」
「心づくしってやつだよ。とにかく見つけてくれさえすれば」
なんと景気のいい。だが六百万円もの借金を肩代わりできたということは、相当な金持ちなのだろう……と思えるのに、眼の前の男の風貌からはカネの匂いがしなかった。どちらかというと、逃げていくカネを追いかけ回しているような気配を先野は感じるのだった。もちろんそんなことは口にせず、代わりに質問してみた。
「ちなみにさがしだせたとして、彼女になにをお望みなんですか? 肩代わりしたおカネの返却ですか」
「カネはいいんだ。とにかくおれのもとへ帰ってきてくれさえすれば」
「わかりました。では、その彼女に関する個人情報をできるだけ提出願います」
「おう、持ってきてるぜ」
ニヤリ、と比森は口角を上げ、コートのポケットをごそごそとさぐり始めた。出てきたのは、角の折れたスナックの名刺だった。
ああ、そういう関係か──と先野は二人の間柄を察した。これはハッピーエンドにはならなそうだ……。