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記憶は戻るか

 夜遅くに電話が入った。メッセージではなく、電話である。

 相手は帆村央晴ほむらおうせいだった。

「こんな夜中に、どうしたっていうんです?」

 別矢芽依咲べつやめいさはベッドに横になりながら、スマホの通話ボタンをタップした。メッセージではなく電話ということは、緊急性があり、かつ確実に連絡が取りたい、ということだ。

『幕石さんが見つかった』

 第一声がそれだった。

「ホントに!」

 別矢は飛び上がった。

 行方不明からおよそひと月半。個人的にもあちこち当たってみたが、まったく消息がつかめなかった。

「どこで見つかったんですか? これまでどうしてたんですか? 無事なんですか? 会いに行けますか?」

『ちょっと待って。いっぺんに訊かれても』

「あ、ごめんなさい」

 つい興奮してしまった。

『明日の朝、いっしょに会いに行ってくれるかな?』

「もちろん!」

『でも、ちょっと困ったことになってるんだ……』

 電話の向こうの帆村の声は弾んではいなかった。かといって落ち着いているというのでもなかった。

「困ったこと……?」

 別矢は眉をひそめた。

『幕石さんは記憶を失くしているそうなんだ。自分が誰かもわからないらしい……』

「えっ……?」

 絶句した。

 記憶喪失……そんなことが実際にあるというのが驚きだった。記憶喪失なんていうものは物語のなかにしか出てこないものであり、リアルに存在するとは別矢には信じがたい。フィクションのなかにはわりと頻繁に登場するが、実際にそんな症状の人など身近に見たことも聞いたこともなかった。

「でも……だったら、その人が幕石さんかどうかなんて……」

 別矢はその点を指摘した。別矢も帆村も、幕石に直接会ったことはなかった。画面のなかで顔は知っているが、記憶を失くしているのなら顔つきだって変わっているかもしれない。本人だという証明書をもっていたなら話は早いが、そうでなければ幕石かどうかわからないではないか。

「どうやって見つけたんですか?」

「いや、実は、見つけたのはおれではなくて、探偵なんだ……」

「探偵?」

 初耳だった。

「ちょっと、……探偵なんかを雇ってたんですか?」

「いや、おれじゃない。別の人なんだ」

「別の? 誰?」

「それは教えてくれなかった。守秘義務というやつなんだそうだ」

 だがそれはありそうだった。大きな利益を生むクリエイターに群がる人間は大勢いそうだった。そのなかの誰かが探偵に捜索を依頼したというのはじゅうぶん考えられた。警察は実質頼りにならない。

「その探偵から連絡があって、おれたちに幕石さんかどうか確認してほしいってことなんだよ」

「え、でも……」

 別矢は言い淀んだ。胸を叩いて「任せろ!」と請け合えるかといえば自信はなかった。直接会ったことがないうえに、記憶がないなら話をしても通じないし、当然別矢や帆村のこともわからないだろう。そんな状況で……。

「懸念はわかるよ。でも行かないってことにはならないだろ。どうであれ会いに行こう」

「それは……わかりました……」

 もしかしたら話をしているうちに記憶が蘇ってくるかもしれない。

「じゃあ、明日の朝集合しよう。場所はどこがいいかな」

「直接そこへ行かないんですか?」

「探偵さんがクルマに乗せてくれるんだ。クルマでしか行けない場所らしい」

「あ……そうなんだ」

 記憶喪失も稀有であったが探偵というのも現実にはなかなか会えるものではない。別矢はいきなり架空の世界へ迷い込んだような気持ちになる。

「――わかりました。じゃあ、その探偵さんの事務所に集まればいいじゃないですか」

「それもそうか」

「なんていう探偵事務所です? っていうか、ネットで検索して出てくるのかな?」

「興信所らしいから、たぶんわかると思う。新・土井エージェントっていうんだ」

「新・土井エージェントですね。で、何時にいけばいいですか?」

『朝八時半』

「早いですね! なんでそんなに早い時間に?」

『だからこんな時間だけど電話したんだよ。行けるかどうか返事を聞きたかったから。それに遠い所だし、老人ホームだからそんな早い時間でも問題ない』

「老人ホーム?」

 メガヒットを飛ばす人気音楽クリエイターと老人ホームがつながらない。

『じゃあ、興信所の場所は確認しておいて。明日は遅れずに来てくれ』

 通話が切れる。

 スマホの表示が戻った。時刻は十一時をすぎていた。

(明日の八時半……?)

 勤めているわけではないから時間に自由がきくとはいえ……こんな朝早くとは……。

 別矢はしかし、今日まで不安定な気持ちであったから、一歩前進したことにほっと胸をなでおろすのだった。



 新・土井エージェントの事務所が入るビルまでやって来た。平日のラッシュアワーの電車に乗るのも久しぶりで、別矢芽依咲は学生時代を思い出す。大学在学中にネットでの活動で目が出たことで就職はしなかったから、またこんなすし詰め電車に乗ることになるとは思ってもみなかった。

 げっそりとした気分で、スマホの地図を頼りに最寄り駅から歩くこと数分……。出勤してくるビジネスパーソンの流れに乗るようにしてたどり着いたのは、似たような外見のビルが並ぶ一角だった。

 ビルの玄関前に帆村央晴がいた。黒のコートは周囲を行き交う人に溶け込むかのようだった。

 そしてそのかたわらにもう一人、茶色い髪の耳ピアスを開けている、若い男……。

(まさか、このロックバンドのメンバーみたいなのが探偵……?)

 別矢は数メートル手前で思わず足を止めてしまう。見た目が衝撃的であった。現実の探偵はこんななのかと、認識を新たにした。

「あ、おはよー」

 別矢に気づいた帆村はちょいと右手をあげた。

「おはようございます」

 会釈する別矢。

 すると、茶髪の男の子が挨拶してきた。

「どうも、おはようございます。今日は朝早くからご足労いただき、ありがとうございます。新・土井エージェントの探偵で原田といいます」

 名刺を出してきた。探偵・原田翔太とあった。

(ホントに探偵なんだ……)

 受け取った名刺と探偵の顔を穴があくほど見比べていると、

「では行きましょうか。このクルマの後ろに乗ってください」

 原田はそばに路上駐車しているミニバンを指した。ホンダのオデッセイだ。

「いいクルマですねー」

(探偵って儲かる商売なのだろうか?)

「会社のクルマですけどね」

 原田は肩をすくめて運転席に回り込む。

「そうなんですか……」

 後部席ドアの取っ手に手をかけて、別矢はこんな社用車が必要になるシーンを想像しようとし、ミステリー小説の主役として登場する探偵は現実のそれとはかなり違うのだろうなと漠然と思う。ともあれ、幕石閃輝の消息をつかめたのだから、その手腕を認める。

「おじゃまします」

 オデッセイの後部座席に帆村とともに落ち着くとシートベルトをかけた。それを見届けて、

「じゃあ、出発します」

 探偵原田は前を向いてクルマを出す。

「老人ホームって、どこなんですか?」

 走り出すと、別矢は訊いた。

「浦亀市です。五〇キロほど離れています。一時間ほどかかりますね」

 原田は言ったが、クルマを運転しない別矢には距離感がピンとこない。それでも一時間もかかるというのは相当遠い。どうしてそんな遠い場所にいたのか――その経緯を知りたかった。

「実は、いま向かっている老人ホームに昨夜ゆうべ行ってきたんですが、そこで会った幕石閃輝さんと思われる人物は記憶を失くしていまして……、で、その確認をお願いするわけなんですが、お二人とも仕事関係の知り合い……ということなんですよね?」

 どことなく緊張している空気が伝わってくる。

「はい……そうです……」

「実は僕、潮騒のざわめきのファンなんです。こういう状況ですけど、お会いできるなんてすごくうれしいです」

「あ、ああ……そうなんですね……」

 別矢は隣に座る帆村に強い視線を向ける。

「ちょっと、どういうことなんですか、わたしたちの活動は秘密のはずでしょ?」

 小さな声音で、だがするどく指摘した。ネットだけで活動して、テレビには出ず素顔もさらさない。そういう約束だった。ネット世界の恐ろしさはよく理解しているからこそそんな活動方針にしているのだと、別矢もそれに賛同したのだ。

「いや、それはそうなんだけどね……」

 帆村は気まずそうにうなずき、

「もともと原田さんと知り合ったのは、別の人さがしの件だったんだよ。比森さんの事務所に行ったときに話したろ、右岡さんって女性ひとをさがしてるって。そのときの探偵さんが原田さんなんだ。言ってみれば、幕石さんのことは偶然だったんだよ」

 順を追って説明するよ、と言った。そして、これまでの原田とのやりとりを語った。

「でもそれで、よく幕石さんが見つかりましたね……」

 別矢は感心した。

 すると原田は言った。

「これは推測ですが、ひと月半前、クルーザーででかけたとき、幕石さんは海上で比森さんに突き落とされた。なんとか助かったものの、そのときのショックで記憶を失くしてしまった……。海岸でさまよっているところを、おれんじ園の職員に偶然保護された……というところでしょうか……」

「それですよ! 間違いないです、きっと。だって比森さんは幕石さんに事業資金を借りてたもの……。それを右岡さんだっけ……の借金の返済にあてちゃったんだから、当然会社は立ち行かないからたたまなくなってしまったわけで借金は返せない。だから……」

「幕石さんは、早く借金を返せ、なんて迫る人じゃないと思うけどなぁ……」

 帆村は反論する。

「たとえそうであったとしても、借金をしたほうからすれば、そんな悠長にかまえていられなかったんだと思います。このままじゃヤバいと思ったんじゃないかしら……それで……」

「僕は探偵なので、たとえそうだったとしてもなにもできませんが。あくまで推測ですし。それより、見つかったのが間違いなく幕石閃輝さんだとの確証が得たいんです。それでやっと依頼者に報告できるわけですから」

 そう言われても、本当にこれから会うのが幕石さんかどうか判断できるかと言えば自信はない。なにしろ一度も会ったことがない。いつも画面越しで話をするだけだ。そんなので確信できるかというと、正直不安だ。

「本人の記憶が戻れば一番いいのですが」

 と、帆村がぽつりと吐露した。どの程度の記憶喪失なのか、果たして思い出してくれるのか、という不安が重かった。



 おれんじ園は、陽の光が降り注ぐ、日当たりの良い場所に建っていた。

 ちょうど午前のリクリエーションの時間帯で、入居している高齢者たちは、各々、好きな時間をすごしている。

(こんなところに幕石さんが――)

 クルマを降りて、別矢は建物と、そして、職員につきそわれて庭に出ている高齢者を見る。さがしても見つからないはずである。こんなところに幕石閃輝がいるとは誰も思わない。

 三人は玄関を入ったところで、通りかかった職員の一人に声をかけた。

「あの、昨日来ました原田ですけど──」

 ああ、はいはい、昨日いらした探偵さんですね、とその若い女性の職員は覚えていた。

「さいとーさーん! たろーさーん!」

 奥に向かって声をあげた。大きな声だった。普段、耳の遠い高齢者を相手にしているせいかもしれなかった。

「探偵さんが、いらっしゃいましたよー!」

 奥から、二人の男女が出てきた。

 照明の下に浮かぶ男性の顔に、別矢と帆村はハッと息を呑む。

「幕石さん……!」

 別矢が思わず駆け寄っていた。エプロンをつけて、すっかり老人ホームの職員といった感じの青年の手をとっていた。

「やっと会えた……」

 毎日のように連絡のあった幕石と音信不通となってひと月半……。面と向かって会ったこともなく、住んでいる場所も知らなかったのに、もはやいなくてはならない大きな存在になっていた。それに気づかされ、自分なりにあちこちさがし回っていたことが思い出され、涙があふれた。

「よかった……ホントによかった……」

 が、当の青年は困惑していた。いきなり見知らぬ女性に手を握られて、どう応じていいのか。

「あの……応接室がありますので、そこで話をしましょう。施設長もいらっしゃいます」

 そう言ったのは、青年といっしょに出てきた「斎藤さん」と呼ばれていた中年の女性職員だった。

「こちらです」

 原田、別矢、帆村は、斎藤に案内されて、幕石(と思われる青年)とともに右側の廊下を進んで施設長室を兼ねる応接室に入った。

 初老の施設長を交え、六人でソファに落ち着き、そこで話をすることになった。

「初めまして。遠いところ、よくいらっしゃいました。私がおれんじ園の施設長です」

 挨拶もそこそこに、斎藤が改めてこれまでの経過を説明した。前日、原田に話した内容と同じ説明である。

 説明がすむと、それで──と、施設長はやって来た三人を順に見ていく。

「太郎さん──私どもは彼をそう呼んでいますが──が、幕石閃輝さんだということは確かなんでしょうか」

「はい、状況からその可能性が高いと思われます。それで今日は、幕石さんを直接知る人に来ていただきました」

「それで……どうですか?」

 施設長は別矢と帆村を見る。

「はい……こうして見る限り、幕石さんに間違いないと思えます」

 答えたのは帆村だった。

「でも、御存じの通り、太郎さんは記憶を失くしています……。どうですか、太郎さん、このお二人に見覚えはありますか?」

 太郎──幕石は、

「わかりません……」

 感情のこもらない口調でポツリとつぶやくように言った。当人としては、ここひと月半のおれんじ園での生活がすべてであり、それ以前のことは〝未知の人生〟だといえる。過去の人間関係を突然持ち出されても──。しかも、いまをときめくヒットメーカーの作者だという。

「僕は……本当に、幕石閃輝という人なんでしょうか。あの音楽を聴いたとき、確かにすごい衝撃が走りました。でもその気持ちがどこからきているのか……まだよくわからないんです」

 その音楽をともに作り出した二人とはいつも画面越しにしか会っていないためか、直接面会しただけでは記憶が呼び戻されるまでには至らないようだった。

「あのぉ……ひとついいでしょうか……?」

 おずおずと口を開いたのは斎藤だった。目の下にクマをつくっていて、昨夜は遅くまで眠れなかったのだが、もちろんそんなことは誰にも話してない。

「もし……仮にですよ、もし太郎さんの記憶が戻らなかったら、その……どうなるんでしょうか……?」

「記憶が戻らなかったとしても幕石さんだと確定されたなら、もともとの家もあることですし、リハビリのためにも帰ることになるんではないでしょうか」

 答えたのは帆村である。考えたくはなかったが記憶が戻らない可能性もある。そうなった場合これまでのような創作活動はできないだろう。

「そうですか……」

 消え入りそうな声で斎藤はつぶやいて口を閉じた。なにか他にも言いたいことがあるかのように。

「あの……」

 今度は別矢は口をはさんだ。

「──じゃあ、マリーナに行ってみませんか? 幕石さんの音楽は海からインスピレーションを得ていたんですよ。記憶がなくなる直前、幕石さんの所有するクルーザーで海へ出ていましたし。もしかしたらそれで記憶が戻るかも――」

 四崎臨海マリーナ。事件が起きたクルーザーを見ればなにか思い出せるかもしれないと、別矢は思った。


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