右岡奈音
右岡奈音の元同僚で、親交のあった安町葵からの電話は思ったよりも早かった。
本人に尋ねてみましたが、おさがしの人はわたしではなく別人ではないか、と言っていました――と、予想通りの回答に、
「そうですか……。もしかしたら、右岡さんといっしょに働いていた誰かかもしれないし、そのへんの話も聞きたいので、直接、会って話をさせてもらえませんか」
なるべく強引にならないよう、自然な流れで呼び出すよう誘導すると、日時を指定されたうえで会ってくれる約束をとりつけられた。
あとひと息だぞ――と、先野光介は手応えに満足していた。
ファミレスで待ち合わせた。ただし来るのは右岡奈音本人ではなく、電話をかけてきた安町葵だ。そこは警戒してのことだろう。誰かにお金なんか貸していない、なにかの勘違いではないかと、先野の真意を確かめようというつもりなのだ。なにか裏があって犯罪に巻き込まれやしないかと不安を覚える心理は理解できた。
それでも無視されなかっただけでも大成功だといえた。
時端市の、たぶん安町の職場に近いだろうファミレスの駐車場に社用車を入れた。クルマを降りる前に、柔和な印象を与えられるような丸眼鏡をかけた。インチキな占い師のようだったが、先野はバックミラーで顔を確かめると、ひとつうなずきクルマを降りる。
二階の店内に入ると電話をかけた。
コール一回で相手が出た。店内のどこかから聞こえていた呼び出し音も途切れる。
『はい……』
初めて電話したときと同じように、緊張した硬い声がした。
「ファミレスに着きました。どちらの席においでですか?」
店員が近寄ってきたのを手で制し、先野は訊いた。
『窓際の端っこの席です』
時刻は夜の六時。平日とはいえ、そこそこの客が入っている。
「わかりました」
通話しながらそちらに歩いていくと、四人がけのテーブルの長いシートに、ひとりで座る若い女性がいた。スマホを片手にしている先野を見ると、立ち上がった。スーツを着ている。仕事帰りなのだ。
「どうも、先野です」
丁寧に礼をして、
「こちら、よろしいですか?」
「どうぞ」
「安町さんですね」
「はい……」
表情が硬い。得体の知れない見知らぬ男と会うとなれば緊張するのが当たり前だ。しかもでっち上げの借金の話には心当たりがあるはずもなく、不審がるのも道理である。しかもその男――先野の顔つきが、どことなく胡散臭いとなれば。
「お会いできてよかったです」
先野は安心させるよう笑顔を見せた。気持ち悪い笑顔だとよく言われるので逆効果だったかもしれないが。
「わざわざ足を運んでくださり、すみません」
安町は頭を下げた。そこは普通の応対をした。
「いえいえ、どうしても会って話したかったですし」
先野は安町の向かい側の席に腰を下ろした。
テーブルにはハーブティーが置かれていた。
「お待たせしてしまったようですね」
「いえ、わたしが早めに来ただけです。あの、せっかくおいでいただいたのですが――」
と、安町はさっそく話を始める。
「奈音からお金を借りていたということだそうですが、本人に確認しましたが、そんな覚えはないと言っています。どなたかと勘違いをしていらっしゃるのではないですか?」
「右岡さんと、いま電話で話せますか?」
「ああ……それは……」
「右岡さんにどうしても確認したいことがあるんです。比森さんという人について」
「どういうことですか……?」
話が見えず、安町葵は眉をひそめた。
「わたくしは実は興信所の探偵でして……比森さんという男性が、右岡さんの消息を知りたいと依頼をしてきたのですが、会わせてよいものかどうか、本人の意志を確認しなければならないのですよ。本人の同意を得ずにして、依頼主だからといって右岡さんの住所を教えるわけにはいかないのです」
がた、と近くのテーブルで椅子が鳴った。
振り向くと、見覚えのある顔がそこにあった。立ち上がってこちらを見ているのは、何度もスマホで写真を見ている、右岡奈音その人だった。
だがその顔は蒼白になっていた。
「奈音!」
安町が声をあげた。その目は、事前の打ち合わせと違う、と言っていた。本人がここにいると知られるのを避けるために、わざわざ隣のテーブルについていたのに――。
なかなか用心深いではないか、と先野は二人の絆に感心する。ここでどんな話が交わされるのか、しっかり聞いていようというつもりでいたのだ。
「あの人が……追いかけてきた……」
右岡の声が震えていた。
「まぁ、落ち着いてください。ここにはいませんよ。来ることもありません──」
先野は静かに言った。右岡の動揺は傍目にも激しく、急に取り乱してしまいそうにも感じられた。
「――こちらでいっしょに話を聞いてはどうですか?」
すると、安町が席をずらした。あいたソファのスペースに、右岡奈音は腰を落ち着けた。
「初めから話をしましょう」
先野は、比森が興信所に来たところから話し始めた。途中の聞き込みの段階は省略したが、おおよその経緯は説明した。
「比森さんの話を聞いて……ひっかかるところがあったんですよね……。右岡さんはなぜ突然いなくなってしまったのか……。六百万円にも膨れ上がった借金を代わりに返済してくれた……それについて右岡さんの気持ちを聞かせてくれませんか」
すぐには答えてくれなかった。
しばしの沈黙の後、右岡はうつむきながら口を開いた。
「比森はスナック『アンナ』の常連で、いつもわたしに言い寄ってきました。ママは若い女の子は人気があるから、どうしてもそんなことはあるわよ、と言ってましたけど、あのおじさんは品がなくて、どうしても受け付けなかった……」
ああ、だろうな……。先野は比森の顔を思い浮かべた。先野も人のことは言えなかったが、それでも外見はともかく、中身はスマートに生きたいと思うかどうかは大きいだろう。比森にはそんなダンディズムはない。
「……比森さんは決して金持ちなんかじゃないんですよ。事業家として小さな会社を経営してましたけど、それがうまくいかなくなって資金繰りに困っていた。でも、比森さんの昔の部下で、いまは作曲家として売れている男性がいたんですよ。そこでその人から一千万円を借りたんです。それで当面の売掛金をなんとかできるはずだったんですけど、せっかく借りたお金なのに、わたしの借金の返済に流用してしまったんです。普通、そんなことしますか? 余計に気持ち悪くなって。恩を売って距離を縮めようとしてきたらと思うと……。それに、そんなことしたら、当然会社の経営には足りなくなりますよね」
右岡の言ったことは先野も予想していた。好きな異性をものにするためならどんなことでもしてしまう。それが倫理にもおとるとわかっていながらもやってしまう。だから浮気や不倫がなくならないともいえるのだが。それは性別に関係ない。
金銭がからむことは本当に多い。それが余計に関係をこじらせてしまう。それが人間の性なのだろう。実らない恋に突き進んだ末に相手からしつこいと嫌がられる。本人にとっては悲劇だが、傍観者には喜劇に映ってしまうのがまた哀しかった。
「そうなると借金は返せない。だからたぶん、比森はその作曲家を殺した……」
「なんでそう思うんですか?」
比森が事業をたたむ決意をした、というのは原田翔太から聞いていた。原田は、マコトという源氏名でホストクラブで働いていた帆村という青年から、比森の自宅兼事務所に行ってきたことまで聞いていた。運営資金がなければ会社経営は続けられない。だがそうなると借金も返せなくなる。
右岡は、比森の廃業までは知らないようだったが、おおよその見立ては当たっている。
「わたし、『潮騒がざわめく』というユニットの歌のファンなんですけど、比森さんから、借金を肩代わりしてあげたぞって聞いたその直後からSNSの更新が止まってるんです。これまでこんなことはなかった……。実際、ここ二ヶ月以上、新曲の発表がないし。ネットではへんな噂も流れてる……根も葉もない憶測ばかりだけれど……」
幕石が行方不明になる直前、クルーザーに比森が乗っていたのは確かだった。海で溺れたらしい幕石を救助したという花浜の証言から、借金を返せなくなった比森が幕石をクルーザーから突き落としたのではないかというストーリーは整合性があった。物的証拠はないから決めつけられはしないが、その可能性はあるかもしれない。
しかしそうなると、なぜ救助された幕石はいまだ行方不明なのだろう。帆村がさがしているのに見つからないのはどういうことなのだろうか。幕石が連絡をとらない理由があるとしたらそれはなんなのか。
「わたし、人殺しをするような人とは会いたくありません。どうか、わたしのことは知らせないでください」
比森を最初っから殺人者と決めてかかるのはどうかとも先野は思ったが、嫌悪感が危機感へと強められていったのだとすれば得心がいく。
「わたしがホストに入れ込んで借金なんかこさえなければ、こんなことにはならなかった……」
うつむいた右岡のつぶやきには後悔がにじみ出ていた。地方から出てきた寂しさ、そんな心につけこまれてしまうと人間は弱い。
「探偵さん――」
ここまで黙って話を聞いていた安町が先野を真っ直ぐに見つめた。
「――その比森って男が人殺しをしたって証拠をつかんで警察に突き出してくださいよ。探偵ならできるでしょ? そして奈音を安心させてやって! 他にも探偵を雇って、奈音をさがさせるかもしれないし。先野さんは奈音の味方になってくれるかもしれないけれど、他の探偵はどうかわからない」
「それはそうだな……」
(おやおや、なかなかに聡明な友人だ……)
右岡奈音をさがす依頼を持ってきた比森の様子を思い返すに、相当な執着心があるようだった。なにかしでかすような気もする先野である。だが証拠を見つけて警察に逮捕させろ、とはまた難しいことを言ってくれる。
興信所は営利組織であり労働集約型の業務である。正義のためといってカネにもならないことなどやっていられない。気持ちはわかるが要望には応えられない。そんなことをするのはそれこそフィクションの世界だ。
「しかし、たとえそうだとしても、右岡さんの借金を返済してもらった、という恩はあるでしょう?」
「それは、比森さんではなく、『潮騒がざわめく』の人に返すつもりです。ちゃんとおカネを貯めて、それから……」
いまの生活だって、おそらくぎりぎりだろう。右岡が六百万円も返済するには、そうとうな年月がかかるに違いない。が、それでもそういう気持ちがあるというのを聞けたのはよかった。
先野はスーツの内ポケットからUSB端子を備えたスティック型のボイスレコーダーを取り出した。
「いまの会話は録音させてもらいました。これが右岡さんの本音であるという証拠を依頼者である比森さんに聞かせます。そのうえで右岡さんのことをあきらめてもらうよう説得します。この案件について、わたくしのできることはここまでです。警察が動くかどうかはなんとも言いようがない」
「そんな……!」
ミステリー小説に登場する名探偵のように華麗に事件を解決してくれるだろうと望んで頼んだ安町は裏切られたと感じてか言葉をつまらせる。
「今日はどうもありがとうございました。これは協力費です。お二人で食事代にでも使ってください――」
先野は財布から一万円札を出して、二人の前に置いた。
「――もういい時間ですし」
七時をすぎていた。客も多くなってきているし、ここで長時間食事もせずにいつづけるのも店に悪い。
先野は席を立つ。
「できる範囲で最善はつくしましょう。期待に沿えるかどうかは保証できませんが」
そう言い残した。
比森がこれであきらめてくれたら、他の探偵を雇ってまで右岡奈音さがしたりはしないだろう。――あきらめてくれたら、であるが。




