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幕石閃輝

 幕石閃輝まくいしせんきが見つかった──かもしれない。

 その連絡が原田翔太のもとに入ったのは、三条愛美からだった。新・土井エージェントの探偵全員に送って協力をあおいでいたが、気休めであり、ほとんど期待などしていなかったから、その知らせはまさに僥倖だった。

 三条はたまたまシーフードレストランで見つけた、と言った。そこは浦亀市の海岸に位置し、海で溺れた幕石を救けた、という花浜の話とも符合する。

 原田ははやる気持ちを落ち着かせ、ともかく、青年が身を寄せているという老人ホーム、おれんじ園に向かった。

 ただ、浮かれてばかりもいられなかった。三条は、「見つかったかもしれない」と言ったのである。声をかけた青年が幕石閃輝であるという確証は得られなかった。

 その青年には一ヶ月半以前の記憶がなかった。自分の名前もわからなくなっていたというのである。顔が似ているだけの別人である可能性があるのだ。いくら写実的リアルに描かれているとはいっても似顔絵なのだから、そこに描いた人間のバイアスがかかっているだろうし、ともかく行ってみて話を聞いてみようと思った。

 それでも、記憶を失くしたのが一ヶ月半前というのは、幕石が行方不明になったとき、そして花浜が幕石を救けたときと時期も一致する。まず間違いなかろうと、原田の期待は高まっていた。

 社用車を運転して、目的地に向かってひた走る。

 カーナビを頼りに到着した頃にはもう夕方だった。海岸道路から坂を上がった先にあったその建物は、草色の屋根の平屋建てで、一見診療所のようだった。平屋なのは、入居しているのが高齢者だからなのだろう。手前には手入れをされた広い庭が心を和ませる――散歩をしている入居者らしき人の姿もあった。

 建物横の来客用の駐車場に社用車を入れた。

 クルマから降り、玄関に向かった。

 両開きの玄関ドアの横には、ゴシック体の「おれんじ園」の縦書き看板。三条から聞いた番号で電話して訪問を伝えてあったから、誰か対応してくれるだろうとドアを開けた。

 暖かい空気が迎えてくれた。この季節まだ暖房が必要だ。いくらここが太平洋に面した温暖な地であっても、とくに高齢者を預かる老人ホームでは居心地の良さは大事だ。

 玄関を入ったすぐにロビーがあった。訪問者のためのものだろう。黒いソファセットがいくつか。

 左右には幅の広い廊下が伸びていて、南側に面した窓から入る日の光が明るい。

 この時間、入居者は夕食前の自由時間だ。それでも職員は、入居者に寄り添い放置するわけではないのは、原田の視界に入る光景だけでもじゅうぶんわかった。車椅子を押している職員、歩行を介助してあげている職員……。

「あの、ちょっとすみません」

 緑色のエプロンをつけた、職員だろうと思われる、小太りの中年女性に声をかけた。

「ぼく――わたくしは、興信所からやって来た者なんですが……こちらで働いている男性ひとを訪ねてきました……」

 はっとする女性職員。その顔に動揺が走っているのがわかった。

「聞いております……。こちらへどうぞ」

 どこか緊張している空気が伝わってきた。声がやや震えているような。

 その反応を不審に思いながらも来客用スリッパに履き替え、原田はその職員――斎藤というネームバッヂが見えた――に案内されて、正面奥へと通される。

 広い部屋に入った。食堂のようである。いくつかの広いテーブルに夕食の用意をしている職員が何人かいた。

「太郎さぁん……」

 斎藤が呼びかけると、作業中の一人の青年が振り返った。

 幕石閃輝!

 間違いない、と原田は思った。髪の毛が若干伸びていたが、あの似顔絵そのものの顔がそこにあったのである。

 青年はエプロンをつけていて、確かにこのホームの職員として働いていた。しかし帆村によると、幕石閃輝は、今や押しも押されもしないヒットメーカーとして、その楽曲が多くの人から支持されていた。原田も聴いたことがあった。それが老人ホームで働いている、というのが不釣り合いだった。

 だからどんなに似顔絵と同じであっても、この青年が幕石閃輝であるという確信がゆらぐ。見つけた三条もそうだった。

「では……ロビーでお話しましょうか」

 斎藤は言って、三人で玄関ロビーに移動した。

 原田、幕石閃輝と思しき青年、それに付き添いの職員斎藤の三人でソファに座った。

 原田がここへ来た目的を改めて告げると、斎藤が、青年がこのホームで働いている経緯を説明した。

 ひと月半ほど前の深夜、徘徊していた入居者をさがしに出たところで、海岸道路でずぶ濡れで歩く青年を保護したことから始まって、青年には記憶がなく、自分が何者なのか、なぜこんなところでさまよっているのかもわからないということ等など……。

 警察にも相談したが、外傷もなく事件性は低いとして、それ以上は関与することはなかった。一応、捜索願が出されていたら確認する、とは言われたが、どこまで取り組んでもらえるのかは甚だ怪しかった。行方不明者数が一年間に何万人ともいわれているし、警察にいちいち関わっている余裕はないだろう。

 所持品もなく、発見した老人ホームとしても、福祉を生業としているのに青年を放り出すのは社会的にも倫理的にも反するだろうという施設長の判断で、一時的な身元引受という体でホームで働いてもらうことにしたのだった。太郎という名前は、とりあえず名前がないということで施設長がつけた。

 介護職はまったくの初心者ではあっても、ある程度ならできる。資格のいらない仕事はいくらでもあった。そして青年もよく働いてくれた。入居者からも評判がよかった。

 そうですか……と、原田は思わず腕組みをする。青年が幕石閃輝であるという決め手は斎藤の話のなかにはなく、行き詰まってしまった。

「幕石、という名前にもピンと来ませんか……?」

「はい……」

 青年は力なくうなずいた。

 記憶がないから、これまで帆村にも連絡ができなかったのだと考えれば辻褄は合う。だが記憶がない状態で、依頼者の花浜に「見つかりました!」と報告するわけにもいかない……。なにより、いまの段階では本人かどうかわからないのだから。状況証拠だけではなく、なにかしらの決定的な物的証拠がほしい。

「あの……」

 斎藤がおずおずと言う。

「――もし太郎さんが、おさがしの人だと確かめられたら、連れていってしまわれるんでしょうか……」

 どこの事業所も人手不足であり、とくに若い男性となれば手放したくないというわけだろう、と原田は理解した。

「いいえ。我々は興信所の人間ですから、そんな警察みたいなことはしませんよ」

「でも原田さんの話だと、海で溺れて行方不明になって、それがだいたいひと月半ほど前ってことで……」

「そうですね……。ほぼ間違いない、ともわたくしも思うんですけど……記憶がないのでは……」

 想定外であった。まさか記憶喪失とは……。

 依頼者の花浜に確認してもらうしかないのだろうか。といっても、次に事務所にやって来るタイミングに合わせて会ってもらおうにも、それは三日後だ。花浜はスマホを持っていないから連絡もできない。それまで結論は保留せざるを得ない……。

「となると、帆村さんに来てもらうしかないな……。仕事仲間に詳しく話をしてもらえれば、なにか思い出すかもしれない」

 原田一人ではどうにもならなかった。本人を直接知っている帆村なら、なんとかなるかもしれない。

 いったん帰ることにした。ともかく居場所が特定できたのは大収穫だといえた。ひとつひとつ積み重ねていって目的に到達する。それが仕事というものだ――先野光介がそんなことを言っていたのを原田翔太は思い出した。



   ☆



 目まぐるしい一日だった。

 今日は休暇をとって気分転換に出よう、と太郎を誘ったまではよかったが、よもやこのようなことになるとは……。

 休むはずが、逆に疲れてしまった……。

 シーフードレストランで出会った女性探偵から、太郎が、さがしている人かもしれないと似顔絵を見せられたときには驚いた。

 根掘り葉掘り質問されるも、太郎は記憶がないのだから答えようがなかった。では確認のために担当の探偵に知らせますと電話すると、すっ飛んでくるというのだから、なんだか休暇を楽しむ気分に水をさされ、結局その後おれんじ園に戻ってきたのだ。

 思い悩んでもしょうがない、と言って太郎はまた仕事に戻った。が、斎藤は身が入らない。

 確認のために来たチャラい感じの若い男性探偵が帰ったあと、バタバタと今日の仕事が終わって就寝時間になっていた。

 結局さがしていた人かどうかの証拠がなくて、後日別の人に来てもらうということになったため、すぐに太郎の身に変化が起きるわけではなかったが、それもそう遠くないだろう……まず間違いないだろうから。

 幕石閃輝……。『潮騒のざわめき』の作詞作曲を手がける人物……。

 信じられなかった。夢ではないか、というぐらいに住む世界が違いすぎる。

 お疲れさまでした、と職員たちが退所していく。が、斎藤は玄関ロビーのソファに腰を下ろして帰宅する気になれなかった。

 太郎がどこかへ行ってしまう……。

 記憶が戻るまでの暫定的な措置として働いてもらっていた。だから身元が判明すれば当然のことながら元の生活へと復帰する。それは最初からわかっていたことだった。

 太郎を保護してからひと月半しかたっていない。けれどもホームの職員や入居している高齢者ともすっかり馴染んで、いつかは離れることになるだろうが、それはずっと先のことのように思えていたのだ。せっかく仕事に慣れてきたのに。

 それは残念という気持ち以上だった。

 太郎にとっては本来の暮らしに戻るのが正解なのだから、理性では、それは喜ばしいことだとはわかっている。おめでとう、よかったね、と言ってあげたい。

 でも――。

 斎藤はわかっていた。わからないような年齢ではなかった。だがまさかこんな歳になって……。

 そんな気持ちになれる自分に戸惑いつつも、女であることを嫌でも意識してしまう。見苦しい、と思った。

「あれ、斉藤さん……まだ帰ってなかったんですか?」

 太郎が声をかけてきた。住み込みであるから夜もこの園にいる。

「今日はすみません、せっかくのお休みだったのに、ぼくのせいで……」

「謝らなくていいですよ、こんなことになるなんて、わたしも思わなかったし……」

「ぼくも正直動揺していますよ。あの曲を聴いたときの衝撃は、いま思えば、それが自分の作ったものだったからなんですね……」

 他人事のように言う。

「やっぱりまだ記憶が……?」

 顔を上げ、太郎を見ると、もうたまらなかった。手で目を覆った。

「はい、思い出せそうにも感じるんですけど……どうかしました?」

 驚いた様子で太郎は斎藤の横に腰を下ろした。

 みっともない、とわかっていても止まらなかった。斎藤は太郎の胸に顔を押し付け声を殺して泣き出した。感情がぐしゃぐしゃになって押し寄せてきて、肩を震わせて太郎にしがみついた。

 いけない……と思いつつも、どうにもならなかった。


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