海がいざなう
おれんじ園の名前は、創業者である施設長が娘と相談して決めたという。太平洋に面する穏やかな土地で太陽を連想させるその名前が、とくにいまのこの季節には温かさを感じさせた。
老人ホームの朝は早く、しかし梅の花が咲くこの頃は、ようやっと日の出が早くなってきて、明るくなってから朝食の準備を始められるようになってきていた。
太郎、という名前で呼ばれるその青年もその準備に追われていた。資格がないから調理などの業務には関われないが、その他のことなら戦力になった。
老人ホームにはさまざまな入居者がいるため、それぞれに合った対応をしなければならない。食べることは楽しみでも嚙む力が衰えてきてうまく飲み込めなかったりするのでそれ用のメニューが用意されていたり、認知症の進み具合によっては一人で食べることができなかったりもするのでその場合は介助が必要になった。できあがった朝食を運ぶだけでもひと仕事であった。
働きだしてまだ一ヶ月半ほどなのだが、おれんじ園の職員は青年を頼りにするようになっていた。そこで働く職員だけでなく、入居している高齢者にしても、人当たりのよい青年に好意をもって接していた。
食堂の配膳を進めている間に、足腰の立つ入居者は介助者に付き添われながら歩いて、そうでない入居者──ベッドから起きられないような入居者はいないので──は車椅子を押してもらって集まってきた。
食堂のテーブルについた順から食事を始めてもらう。賑やかな朝食。食堂には音楽も流されて、和やかな雰囲気の朝食である。
食事の終わった入居者からそれぞれの部屋へ引き上げていく。常備薬を服用する入居者もいるので、そこは忘れないように気をつけなければならない。
食事の片づけが終わるとリクリエーションの時間だ。参加は自由で強制ではない。リハビリが必要な入居者はそれにとりかかる。
昼食までの間に入浴時間が設けられていた。高齢者の入浴には人手と時間がかかるので、全員が毎日の入浴はできない。入居者ごとに曜日が決められていた。
職員は、それぞれ分担して高齢者の面倒をみる。生活全般の世話だけにとどまらず、集団生活の上で発生する入居者同士のトラブルにも対応しなければならない。やるべき仕事は多かった。
「信吉さん、なにを聴いているんですか?」
いつもはリクリエーションに参加している入居者の男性が、今日は部屋に一人でいた。太郎は様子を見に来た。
個室は十帖ほどで、多少の荷物も置くことができる広さがあった。ベッドとテレビ、小さな冷蔵庫や衣装ケースなど、おれんじ園が用意したものの他、私物が持ち込まれていた。
八十歳の信吉は耳につけていたイヤホンを外し、
「これは昨日、孫が来たときにもらったんだ……」
嬉しそうに見せたのは音楽プレーヤーだった。扱いやすい単機能の機械だ。
一昨年、長年連れ添った妻を亡くした後、子や孫に面倒をかけたくないとおれんじ園に入居してきた。家族がときどき訪問した際、こういった差し入れをもらったりもする。
「この曲、最近、流行ってるんだって言ってね」
小学生の孫が薦めるのを素直に聞くのもまたうれしいのだろう。
「へぇ……、どんな音楽なんですか?」
「聴いてみるかい?」
信吉は、イヤホンを差し出す。
「――いま、ネットで大人気らしいんだ」
太郎はそれを片方だけ耳につけた。小さなイヤホンなのに、音が広がって聴こえてくる。そして流れてくる歌は……。
(これは……!)
衝撃を受けた。サウンドが一体となって脳に飛び込んでくるようだった。流行っているといっても、記憶のない太郎には馴染みがない曲だ。しかしなぜかよく知っているかのように心地良い。聴き心地がいいから人気があるのかもしれなかったが、その曲は太郎の心にとって懐かしささえ感じさせた。
「太郎さん……、そんなに感動する歌でしたか……」
「えっ……」
そう言われて、涙が流れ出ていたのに気づいた。指で涙をぬぐい、
「どうもありがとうございました」
イヤホンを返す。
「いい歌だとは思うが、なるほど若い人に人気があるわけだ……」
信吉は、太郎の反応に驚いていた。
午前中の入浴時間の間に、昼食の準備が始まった。
朝食と同じように、給仕をする職員、配膳と片付けをする職員、個室で対応する職員が必要になって手が足りなくなるため、入居者がいっせいに昼食はとれない。仲の良い入居者同士でテーブルを囲みたいという希望もあるし、人間相手のきめ細かな仕事が求められる。
「どうかしました……?」
太郎はぼんやりしているところへ声をかけられた。振り向くと職員の斎藤である。昼食の準備のため厨房に入って食器類を用意していた。斎藤は調理担当であるが、自分の作業はもう終わっていて、その料理に合った什器を選んでいるところだった。
太郎は今朝のことを話す。
「あの音楽……なんか初めて聴くような気がしないんです」
「ああ、流行ってますものね。以前どこかで聴いたことがあってもおかしくないですよ」
『潮騒がざわめく』という、人なのかユニット名なのか、よくわからない名前のアーティスト。テレビにも出ないしコンサートもやらない。ネットだけで活動している謎の存在というのがすごくミステリアスだった。カラオケやゲームにも取り上げられ、最近では他の歌手にも楽曲提供をしているという。
「そうなのかな……?」
「なにか思い出せそうですか?」
「わからない……」
小さくかぶりを振る太郎は悲しげにつぶやいた。
「あの……太郎さん……休暇をとりましょうよ」
太郎は困惑した表情を斎藤に向けた。
「だって……海岸で見つけたわたしがここへ連れてきてから働きだして、まだ一日も休んでないじゃないですか。もうひと月半ですよ」
「でも……」
「施設長さんも心配しています。体を壊したら元も子もないです」
普通の会社――事業所と違って、老人ホームには定休日がない。職員は交代で休みをとっていた。自主的に休暇を申請するシステムなので、業務に支障がないよう配慮しつつ、いつ休むかは個々で決めていた。
「ずっと宿直室で寝泊まりしているし……。それではリフレッシュできませんよ」
住むところがない太郎は、おれんじ園に住み込みで働かざるを得ない。
「あのっ……わたし、明日、休みの予定なんです。よかったらクルマを出しますから、気分転換にどこかへ行きませんか? この辺りはクルマがないとどこへも行けませんし」
「急に休むなんて……。しかも斎藤さんのお休みなのに……」
「施設長さんにはわたしから言っておきますから、だいじょうぶですよ。任せてください」
斎藤は拳で胸を叩いた。
翌日。
入居者の朝食が終わる頃に、斎藤はおれんじ園に来た。
「おはようございます!」
私服で挨拶しながら館内を回っていく。
ほどなくして、エプロンをして車椅子を押している太郎を見つけた。朝食を終えた入居者を個室へと移動させているところだった。休暇を申請していたが、今朝もいつものように業務についていた。
「あー、いたいた……。太郎さん、行きますよ」
「おはようございます」
太郎は挨拶。
「真千子さん、おはようございます」
「あらあら、斎藤さん。今日はどうしたの?」
車椅子に乗った真千子が斎藤を見て目を丸くした。職員が着ている揃いのTシャツにエプロン姿しか見たことがなかった。
「今日はお休みなんです。太郎さんをお借りしますね」
「まぁ、デートなのね!」
ときどき認知症の症状が出るが、ここ数日は安定していた。
「そんなんじゃないですよ。歳が釣り合わない」
ずっと独身で、なんだかんだで婚期を逃し、気がついたら四十歳になっていた。恋愛に胸をときめかせるような歳ではないと自覚していた。
「そうお? 太郎さんはいい男よ」
実年齢はわからなかったが、見た目は二十代半ばの若者だ。
「からかわないでくださいよ」
笑顔でかわしながら、車椅子を個室に移動させた。
「じゃあ、楽しんでらっしゃい」
そう言う真千子に見送られて、斎藤は太郎をつれて部屋を出た。
エプロンとTシャツから普段着――といっても、ここに来る前、海岸をさまよっていたときに着ていた服――に着替えてもらって館外に出る。
駐車場に停めたクルマは日産サクラ――その名のとおり桜色のボディカラー。近くのガソリンスタンドが廃業したのを機にEV車に乗り換えた。
「海の方へ行ってみましょう」
ドアを開けて、太った体を運転席に押し込める斎藤。
「おじゃまします」
太郎は助手席に入った。高い天井は圧迫感がない。暖房がきいていて暖かかった。
ウインカーを出し、出発。EV車らしいスムーズな走り出し。
晴天。春を感じさせる陽気である。すぐに海岸道路に出た。太陽が太平洋の上にあった。
この周囲は人の住める平野が少なく、海からすぐに山になっていた。昔から農業よりも漁業が盛んな地域だった。おれんじ園のある浦亀市や、海に面する東西両隣の種浜市と子能市には漁港があり、かつては活気があったものの、いまでは高齢化によって担い手が少なくなり廃れていく一方だった。それとともに地域人口も減ってきていた。ガソリンスタンドが廃業したのもそのせいかもしれなかった。
「ちょうどこの辺りで太郎さんを見つけたんですよね……」
「よく憶えてないです……」
「真夜中だったから、昼間とはちょっと感じが違いますものね……」
深夜にずぶ濡れで歩いていたのを保護した……。一ヶ月半ほど前の話だ。
斎藤は慣れた手つきでカーオーディオを操作する。リンクされているスマホが音楽を再生し、車載スピーカーから車内に流れ出した。『潮騒のざわめき』の曲だった。海岸道路を走りながら、記憶を呼び起こすきっかけになるのではないかと思ってセレクトした。
太陽の光を反射する海原を窓ガラス越しにぼんやりと見つめる太郎との会話がしばらく中断した。
前方に海浜公園の看板が見えてきた。
「ちょっとそこに入りましょう」
斎藤はステアリングを回し、海浜公園の駐車場へと入っていった。朝もまだ早く、平日ということもあってか、五十台は入れる無料駐車場に他にクルマはなかった。
車外に出ると、日は差すものの、海風は冷たさを含んでいた。
夏は海水浴客で賑わう海浜公園も、それ以外の時期は閑散としている。休日にはサーファーがやってきたりするが混雑するほどではない。海釣りができる突堤が海岸から五十メートルほど伸びていた。売店はまだ営業時間前だ。あと一時間ほど待たないといけない。
二人は海へと歩き出す。
高さ二メートルほどの堤防を超えていくと、整備された広場と砂浜の向こうに広がる圧倒的な大海。はるか沖合に船がゆっくりと航行していた。
普段の勤務時にははかないロングスカートが風ではためく。
太郎はずっと惹かれるように海を見ていた。その横顔をうかがうと、
「太郎さん、なにか思い出すことはありますか?」
「…………」
海の景色からなにかの記憶が蘇ってくるのではないかと期待したが、すぐに過去を思い出すには至りそうになかった。
「太郎さんは、いままでどこでなにをしてきたんでしょうね……」
記憶が人の人生を形作っているというのなら、それを取り戻せないこの状態にどんな喪失感をいだくのだろうと、斎藤は思い出のない人生というものが想像できない。
「本当はなんて名前で、どんな仕事をしていて、どこに住んでいて、どんな友人がいたのか……」
どこかに太郎の身を心配してさがしている人がいるだろう。ここで生きているのに、会えない苦しみを思うと、自然に涙が出てきてしまう……。
「あの、さっきの音楽、聴かせてもらえませんか?」
不意に太郎が振り向いた。
「あ、はい……」
斎藤はスマホを出した。
「あの、クルマのなかのほうが暖かくていいですよ」
「いえ、この曲は、海を見ながら聴きたいんです。どうしてかわからないですけど、ぼくはそうしたくてたまらない……」
潮騒のざわめき、というその名前からか、海を連想させる歌詞が多い。きっとこの曲の作者は海に特別な思い入れがあるのだろう。それを太郎も感じ取れて……あるいは、過去にこの曲を浜辺でよく聴いていたのかもしれない……。
太郎は熱心に次々と流れる曲に耳を傾けていた。聴き続けていれば未来が開けるかのように。
斎藤はそれに無言でつきあった。
いつの間にかかなり時間がすぎていた。
お昼ごはんを食べに行きませんか、と斎藤は言った。
「シーフードレストランを知ってるんですよ。といっても、入ったことはないんですけどね」
「でも……」
「お金は心配しないで。太郎さんはまだ先月分のお給金をもらってないですから、今日は、ぜんぶわたしが出します。一度わたしが入ってみたかったレストランですから奢らせてください」
半ばしぶる太郎を強引に説得して、クルマに戻った。
運転すること三十分ほどで着いたのは、水色の屋根に真っ白な壁の、アメリカ東海岸のリゾート地にありそうなイメージの外観をした建物だった。
いつか食べに行ってみたいと去年オープンしたときから思っていたが、一人では入りにくい雰囲気を醸し出していて、店の前をクルマで通り過ぎていくばかりだった。休日にいっしょに行ける人がいればよかったが、休みが不規則であるという以上に、そもそも食事につきあってくれる人がいなかった。そういう人がいればいいな……と、まるで乙女のように考えてしまっている自分に気づくも、現実はそんなことさえ夢であった。そこへ現れたのが太郎なのだった。
木製のドアを開けて店内に入ると、白い壁と南国風の装飾が二人を出迎えた。壁に飾られた色とりどりのサーフボードや大きな葉を広げた観葉植物、天井でゆっくりと回っているシーリングファン。暖房がきいていて、まるで別世界のようだった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
男性店員の声さえさわやかである。
せっかくなので海の見えるテーブルについた。時間帯がまだ早いせいか他に客は少なかった。平日というのもあるだろう。
お冷とおしぼり、それにラミネートのメニューを持ってきてくれた。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
メニューに書かれた料理はどれも馴染みがなかったが、事前にネットでどんなものがいいか調べていた。
「これにしませんか?」
斎藤はスマホの写真を見せる。
「なんとなく、おいしそうでしょう?」
「うん……。よくわからないので、任せます」
斎藤はうなずいて微笑むと店員を呼んでオーダーを告げる。
「どんな味か楽しみですよね」
料理が来るまで窓からの景色が楽しめた。上から下まで開口部の大きな窓からは思う存分海が見えた。海浜公園からさんざん見ていたが、ここからでも飽きることなく眺めていられた。太陽は高く昇り、雲間から照らされる陽光はまるで夏を思わせた。
デートなんかじゃないと否定はしたが、実のところそういう気持ちがないではなかった。昨日大胆にも誘ってしまったのは、少しはそんな心があったからだ。
「お待たせしました」
料理が来た。ロブスターのカリフォルニア風グラタン、あさりとサーモンのレモンパスタ。想像していたよりもボリュームがあった。
いただきます。
「あっ、これ、美味しい……」
シーフードの歯ごたえと、それとマッチするクリームソース……食べたことがない味だったが美味しかった。
太郎にとっては、普段はホームでのまかない食ばかりだったから余計に新鮮だったろう。来てよかったと思う。また来たくなった。
でも――。
太郎がホームで働いてくれて職員はみんな助かっていた。だがいつまでもというわけにもいかないだろう。記憶が戻ったら元の生活へと去っていってしまう。
斎藤の胸には、本当は記憶を思い出してもらいたくないという気持ちが正直なところあった。しかしそれは口にできない。
だからそこには触れない会話が進んだ。
そこへ――。
「あの……すみません……」
食事が終わり、満腹で胃を休めていると、突然声がかかった。
振り向くと、二十代後半と思しき女性が立っていた。ここの店員ではなく、客だ。スラリとした体型にカジュアルなセーター。
そして彼女は、衝撃的なことを言った。
「あなたは、幕石閃輝さんでは、ないですか?」
斎藤の目が大きく見開かれた。




