別矢の思い
四崎臨海マリーナ。
太平洋に面した海岸を埋め立てて造られた人口の半島に最近整備された、レジャー用の小型船専用の係留施設である。
ヨットやクルーザーが何十隻も櫛状の波止場に横づけされ、ボートを所有する富裕層が利用している。一般ユーザーに代わり整備や管理をしてくれていて、ユーザーは手軽にマリンレジャーを楽しむことができるようになっていた。
別矢芽衣咲はそこへ来ていた。遠かった。電車を乗り継ぎ、路線バスに乗ってようやくたどり着いた。
(ここには、あるだろうか……)
近隣のマリーナを一ヵ所ずつ訪ねていた。幕石閃輝のクルーザーがどこかにあるはずだった。どのマリーナに預けているかまではわからなかったので順に調べていくしかなかった。
運転免許を持っていない別矢はクルマもないから手軽に運転していくつものマリーナを回っていくことができない。マリーナは海辺に位置しているから、駅前のような便利な場所にはない。一日にいくつも訪ねていくことができず効率が悪かったが、そこまでしても幕石の消息を明らかにしたかった。
幕石の買ったクルーザーをつきとめればなにかわかるのではないかと思ったのである。クルーザーで海に出るというメッセージを最後に幕石からはなんの連絡もない。帰港したあとになにがあったのかがわかればあるいは――という思いであった。
四崎臨海マリーナの駐車場入口から見渡すと、そびえ立つように林立するヨットマストがそこからでも確認できた。こんなものを維持するのにどれだけのカネがいるのかと思うと、中古とはいえよくこんなものを買ったな、と幕石の気持ちに首を傾げる。
確かに収入は劇的に増えた。驚くほどの勢いで人気が出て、カラオケや音楽系ゲームにも採用された。これらの業界は旬の流行を追いかけないと儲けそこなうとあって、少しでも流行る兆しがあれば積極的に取り上げてくれる傾向があるようだった。そういうこともあって、いっぺんにカネが入ってきた。
幕石は、著作権料をしっかり分割したので、チームである別矢や帆村にも、多くの収入に預かれた。
だから別矢も、幕石がどれだけのカネを手にしているかは承知していた。クルーザーを買えるのも理解できた。しかしこの業界は水物で、いつブームが途切れてしまうかわからない。そんな不安があって、別矢は幕石の音信不通を危機的に感じていた。だから大きな買い物をするのも躊躇われた。
平日ということもあり、がら空きの駐車場を横切ると、アウトレットモールに建っているような、白い洋風の大きなセンターハウスへと向かう。プレジャーボートに関する受付以外にもショップやカフェなども入っていて、会員でなくても利用できる施設が充実していた。
天井が高く壁一面の大きな窓から日差しの入る、夏を思わせるような内装のセンターハウスに入ると、きょろきょろと見回して目に入った受付に向かった。
受付にはスラリとした若い男性店員がカウンターの向こう側に立っていた。ひとめでスタッフだとわかるように、四崎臨海マリーナのロゴの入った薄い緑色のポロシャツを着ている。
「あの、すみません……ちょっとお尋ねしたいんですが……」
別矢はちらりとスマホで幕石のメッセージを確認し、
「玲瓏1のユーザーの幕石の知り合いなんですけど」
玲瓏1は幕石のクルーザーの船名だ。プレジャーボートには横文字の船名を付けるオーナーが多いなか、あえて漢字名をつけていた。玲瓏とは「玉のように美しく輝く」という意味らしい。作詞した曲にも難しげな言葉を使う幕石らしい船名だと思った。
「ああ、そうですかぁ。いつもお世話になっております」
男性店員は笑顔で挨拶する。
(やった!)
別矢は飛び上がりそうになるのを抑えた。
やっと見つかった。これまであちこちのマリーナを訪ね歩き、空振りに終わっていた。係の人に、「そんな船はうちでは預かっていませんね……」と言われるたびに、がっかりと肩を落として帰っていくのを繰り返してきた。
「あの、最後に利用した一ヶ月半ほど前ですけど……ちゃんとここへ帰港しましたでしょうか」
「はい、私が受付をしましたので憶えていますよ。当マリーナは二十四時間ご利用できますが、深夜のご利用は少ないですので記憶に残っています」
「そうですか……」
少なくとも、ボートが沈没してしまったわけではないようだ。ニュースにもなっていないし、その可能性は少ないとは思っていたが。
「そのとき、幕石はなにか言っていませんでした?」
妙な質問をして変な女に見られていてもかまわなかった。とにかくここまで来たのだから、どんな些細な情報でも持ち帰りたかった。
「出港の届け出は幕石様にしていただきましたのですが、特になにかはおっしゃられてはいませんでしたよ。ただ……帰港が予定よりずいぶん早くて、しかも帰港の受け付けは同行の男性様よりされました。幕石様はボートに忘れ物があるということなので代わりに、と」
(比森さんだ……)
ピンときた。
「あの……帰港が予定より早かったというのは……?」
「理由はなにも聞いておりません。尋ねてもなにも答えていただけなかったので、それ以上は……」
「そうですか……」
(あの夜、なにがあったというのだろう……?)
最後のメッセージから後の足取りがつかめれば本人にたどり着けるだろうとの期待が膨らんできているだけに、別矢はここであきらめたくなかった。
「……夜間の出港って、よくあることなんですか?」
そんなことを質問した。
「はい、日の出を海上で見たいオーナー様や、あと、未明から釣りをされるオーナー様などが、多くはありませんがいらっしゃいますよ」
(だから幕石さんが夜中に出港するのも不自然ではないのか……)
幕石がときどき夜中に海に出るのはインスピレーションを得るためだというのを、別矢は本人から聞き及んでいた。普通ではない環境にひたることで集中力が高まり脳がとてつもなく回るというのはありそうだった。実際、海から帰ってきたあとに書かれた楽曲は別矢もひどく心に響いた。
「あの……玲瓏1はどこにあるんですか? 見せてもらえませんでしょうか」
クルーザーを見たところでなにかわかるとは思えなかったが、どんな小さなことでも知りたかった。
「はい、よろしいですよ。ご案内します」
「ありがとうございます」
男性スタッフはさほど意外そうな顔もせず、こちらへどうぞ、とセンターハウスの外へ出ていく。
海風が冷たい。
海に向けて櫛の歯状に設けられた桟橋に白いボートが行儀よく並んでいた。大小さまざまなヨットやクルーザーが、防波堤によって小さくなった波に揺られてゆらゆらと動いている。
「こちらです」
半袖の男性スタッフは吹きつける風にも表情一つ変えることなく岸壁を進む。ボートを陸に上げて整備するクレーンの横を通り、桟橋をわたっていく。
別矢は海風に乱れる髪を手で押さえながらついていった。
数十メートルはある桟橋は枝分かれしていて、その〝枝〟の部分にボートが〝葉〟のように係留されてあった。ヨットやクルーザーなど、金持ちの道楽以外のなにものでもないプレジャーボートの白亜の艇体が目に眩しい。
「こちらが幕石様の玲瓏1です」
男性スタッフが足を止めて手で指し示した先に全長六メートルほどの小型クルーザーが係留されていた。艇体の側面前方に「玲瓏1」と漢字で書かれている。
「五人乗りで、クルーザーとしては一番小さい部類になります。幕石様の立ち会いがありましたら乗ってお見せできるのですが……」
船になにか残されていないかと思っていた別矢は牽制されてしまった。が、それはそうだろうな、と納得する。いくら知り合いだとは言っても本人ではないのだし、責任を持って預かっている側からすれば、外側から見せるだけでも親切なほうだといえるだろう。
(これで幕石さんは……)
しばしば海に出ていたのだ。
別矢はボートの先端から船尾まで、桟橋から舐めるように見ていく。
船上の中央には運転席がスポーティさを演出する青色の屋根に覆われている。五人乗りといってもシートは運転席に二人分しかなく、他の人は後方デッキに乗るしかないようで、始めから一人で使うつもりで幕石は購入したのだと思われた。
「これ……いつまで預かってもらえるんですか?」
「管理費はすでにお支払いいただいていますので、今年の六月まではお預かりして整備もしっかりさせていただきます」
「じゃあ、それ以降は……?」
「継続契約していただければ問題ないですが、もしそうでなければ督促し、ボートを維持できない、とおっしゃられたら当方で処分――中古ボートとして売却させていただくことになります」
「じゃあ、それまでの間に、絶対こちらに連絡がつくんですよね?」
「はい、通常でしたら――」
と、男性スタッフは少し苦笑いする。
「ですが、こういう費用のかかる趣味は、正直かなりの富裕層でないと続けられません。さまざまな理由で船を手放されるかたはいらっしゃいますよ」
「というと連絡もなしにそのまま……ってオーナーも……?」
「過去にはいらっしゃいましたね。売却を申し出てくだされば、こちらとしても対応させてもらえるんですが、音信不通というのは困りますね……」
「そうですか……」
別矢は、きれいに磨かれて主を待つ玲瓏1を見やり、この船上でどんな瞑想をしていたのだろうかと、一度でもいっしょに海に出てみてもよかったな、となんとなく寂しく感じるのだった。
「あの……もし幕石から連絡がありましたら、わたしにも知らせてほしいのですが、そんなこと頼んでもいいですか?」
ともあれ、契約の件で幕石がこのマリーナに連絡してくれたら希望は持てる。
「はい……」
男性スタッフは一瞬、眉を上げたが、
「よろしいですよ」
と、引き受けてくれた。別矢と幕石がどんな関係なのかと、想像を巡らせているような目で。
これ以上ここでボートを眺めていてもわかることはなさそうだった。
「あの……ほかになにか気づいたことはありませんか……」
「いえ、とくに……」
男性スタッフは思い出すように視線を空に向けた。
「ああ、そうですね、代理の人の手が震えて字がなかなか書けなかったですね。寒さのためかもしれませんが、センターハウス内は暖房をきかせていたんですが、よほど寒かったんですかね」
絶対になにか知っているのではないか――。
比森はなにも知らないと言い張ったが、知っていても言えない事情があるに違いないという気がしてならなかった。
(急いで帰ったというのなら、その理由を幕石さんが言わないわけはないだろう。その後にどこへ行ったのかがわかればいいのだけれど……)
比森に確認したかったが、再び訪問したとしても、もう家の中には入れてくれないだろう。インターホンごしの会話も怪しい。事業を廃業してそれどころではないというのはわかるが……。
元上司というわりには幕石を心配するでもない態度がどこかしら不審に感じた。そこまで冷たくなれるものなのか、それとも独立して大成功を収めた元部下に対してやっかんでいるのか。それに較べて自分は事業に失敗してしまったと……。
(事業が苦しくて余裕のないそんなときに、比森さんはなんで幕石さんのクルーザーに乗ったのだろう……? 気分転換? にしても……)
「…………」
いくら考えたところで答えが出るわけではなく、別矢はいったん思考を打ち切る。
四崎臨海マリーナから帰る途中、電車の吊り革につかまる別矢は、マリーナを見つけられた安堵感と、それでもまだ確実なことはなにもわかっていないのだということに疲れを感じていた。
(早々にマリーナから連絡が入ればいいんだけど……)
それがいつになるのか見通せないのが歯痒かった。




