プロローグ
海岸から五キロほど沖だが風はなかった。それでも身を切るように寒いのは、真冬の満月が放つ青白い光のせいのようにも感じられた。穏やかに動く波間に反射する月光が、暗い海面に眩しくさえあった。
それほど揺れも激しくない波の上に、白い小型クルーザーがエンジンを止めていた。防寒用のダウンジャケットを着こみぶ厚い手袋をはめた二人の男が、デッキの手すりにつかまりながら遠く水面を見つめている。絶えずゆらめく波間を見ていると気持ちが悪くなってしまいそうなのに視線を外すことなく。
「いい夜ですよ」
気の良さそうな若い男が口を開いた。このクルーザーの持ち主で、ここまで運転してきたのは、ある目的があってのことだった。
「本当に聴こえてくるんですか?」
神経質そうな年配の男が疑い深げに問うた。年齢差は二十ほどもありそうなのに、その言葉遣いにはどこか遠慮があった。
「それはわかりません。確実な根拠なんてないです」
「そんな頼りない」
「経験豊富な漁師だって、いつもいつも大漁ってわけじゃないですし」
「まぁな……」
「でも、あてずっぽうってわけでもないんです。こういう風の静かな満月の夜は、よく聴こえてきます」
「そんなもんかね……」
ここまでいっしょに乗船してきたわりには、さほど興味のなさそうな口調がつい出てしまった。実際のところ、かたわらの青年の言うことは、ただの気のせいだと思っている。
それでもわざわざいっしょに来たのには目的があったからだった。青年のとは違う目的が。しかしそれは内に秘めて口には出さない。ただ、青年の趣味に付き合っているふうを装って。
「でも比森さんは、それを承知でついてきたんでしょ?」
青年は年配の男の表情を見ようと一瞥する。月明りに浮かぶ、比森と呼ばれた年配の男の顔は口をへの字にしてさほど楽しそうではなかった。
「それはそうだが……」
青年は歌を聴きにきていた。誰もいない海原に歌が流れるはずもないのだが、彼はそう言うのだった。それが彼の作曲の元になっているのだと聞くと本当だろうかと興味もわくが、現実は月光輝く静かな海に出ることによって精神集中が高まってインスピレーションが得られるのだと解釈するのが自然であった。
それでも、そのインスピレーションによって作り出された楽曲がネット上でヒットして多額の利益を生み出しているし、それで青年の生活環境は劇的に変わった。このクルーザーもそのカネで手に入れられた。そして比森もその恩恵に預かれた……。
青年は遠くの水面を無言で見つめている。その様子をうかがう比森。やがて青年は目を閉じる。なにかを感じているのかもしれないが、それよりも比森は機会を待っていた。
緊張感が頂点に達した。
やおら青年の足元に近寄ると、太ももをがっしりとつかみ、渾身の力を込めて持ち上げた。
あっ、と思ったその次の瞬間、大きな水しぶきをあげて青年の体は海の中に落ちていた。
「なにをするんですか、比森さん!」
真夜中の海面で必死に手足を動かす青年は目を見開いて船上に顔を向けた。救命胴衣をつけていないうえ、こんな冬の海では体温が瞬く間に奪われる。いくら泳ぎが得意だとしても体力がすぐに尽きてしまうだろう。
「悪く思うなよ」
比森は言い捨てると操舵卓に飛びついた。エンジンをかける。
ゴゴゴ、とディーゼルエンジンがうなり、クルーザーに泳ぎ着こうとした青年を置いて船体は動き出す。
「比森さん!」
大声で呼びかける青年の声を振り切って、比森は無心でクルーザーを操縦する。
一度でも振り返ったら、そこに青年の幻覚でも見そうな気がして、たったいま行った非道な仕打ちを頭から追い払うかのように、ただ夜の明かりが見える陸――ヨットハーバーを目指した。
その顔が異様に白かったのは、月の光に照らされているせいばかりではなかっただろう。
凍るように冷たい海水が衣服に染み込み、容赦なく体温を奪っていく。
手足をバタつかせて、なんとか頭を海面から出そうとするが、それもすぐにできなくなり、青年は沈んでいった。
肺に海水が入り込む。苦しさでもがくも、それは無駄な足掻きであった。せめて救命胴衣でも身につけていれば、溺れてしまうこともなかったろうが、それでもこの冷たさにどれだけ耐えられるか──。
(比森さん……なんで、こんなことを……)
冷静にそんなことを考える余裕もなく、青年の意識は失われていった。
誰もいない夜の海で、青年の命の火が消えようとしていた。
だが――。
海の底へと沈んでいく青年の体に急速に近づいてくる影があった。それは獲物に食いつこうとするサメでも、好奇心に突き動かされたイルカでも、通りすがりのウミガメでもなかった。
暗い海のなかで、青年の体は優しく受け止められた。温もりのあるなにかが、失われかけた命をつなぎとめた。
けれども青年は、それを感じることはできなかった……。
☆
「一ヶ月も音信不通なんですよ、どう考えてもおかしいでしょ!」
スマホの通話相手に向かって、別矢芽衣咲は声を張り上げずにはいられない。
『いや、そうは言うけど、創作が煮詰まってて、外からの声をシャットアウトしたいときだってあるだろう?』
予想以上の剣幕に、通話相手の男はややたじろいでしまっている。
『――きみだってクリエイターの端くれなんだから、そういう気持ち、わからんでもないでしょうに』
「それにしたって、メッセージに既読はつかないし、通話にも出ないって、ちょっと異常じゃないですか?」
クルーザーで海に出てくる、というメッセージが届いたのが一ヶ月前。インスピレーションを得るためにと、幕石閃輝が海に行くことはときどきあったから、さほど気にもとめていなかった。そして海に行った後は決まって楽曲制作に没頭する。その間音沙汰がないこともあったし、別矢もいつものことだと思っていた。しかし一ヶ月も連絡がないとなるとどうなっているのかと気がかりになる。創作に夢中になっているのだとしたら邪魔をするのも悪いような気がしていたのだが、そうも言っていられない。
「いまから曲が上がっても、動画公開にこぎつけるまでにもう一ヶ月ぐらいかかっちゃう。いつまでも待ってはいられない」
『まぁ、それはわかるけど……』
幕石が作詞作曲編曲した楽曲に、別矢がレコーディングスタジオでボーカルを入れ、いま電話の向こうにいる彼――帆村央晴がアバターのダンスや背景を付けて動画ができあがる。その担当でこれまでやってきた。おおもとである楽曲ができあがらなければ、その先の工程には進めなかった。
これまでアップしてきた動画は人気を集め、新曲を公開するごとに評判は上がっていった。再生回数はタイトル一本当たりで数千万を超え、産み出した利益は億に届こうかというほど。無名のインディーズがわずか一年半でこれだけの人気を集めるのは異例であった。それだけその楽曲が人の心を惹きつけるものを持っていたということだ。
「ネットの世界では二ヶ月なんて長期ブランクもいいところですよ。死亡説まで出てきちゃう」
『焦りすぎだよ』
スマホの向こうののんびりとした帆村の声が、別矢には腹立たしい。
『──それに、おれたちにどうしようもないだろ? 幕石さんのところへ直接訪ねていくわけにもいかないし……』
「だから余計に焦ってるんじゃないですか」
お互いネットで知り合った仲間であった。どこに住んでいるのかも知らなかった。
直接顔を合わせたことは一度もない。会う必要はなかった。インターネットを介したやりとりだけですべて完結しえた。個人情報は公開しない徹底ぶりは自己を護るためでもあって、その方針に三人とも納得していたし、それでこれまで問題はなかった。
もしなんらかの問題が発生したならそのときに直接会えばよい、という認識でいたのだが、結果的に盲点をつかれたような事態に陥った。まさか、と思った。
『とにかく、いまは待つしかないよ』
帆村の言うとおりであった。なにもできることはない。
だがそれが別矢には歯がゆくてしかたがない。
「なにかあったのかもしれない……」
『なにかって……』
「急病で倒れてしまってるとか」
『おれたちはまだ二十代なんだぜ、そんな年寄りみたいな……』
「事故に遭ったのかもしれない……」
『事故って……』
なにをばかな、とため息をつかれた。
「もしかして誰かに殺されていたり――」
『いいかげんにしなよ』
苛立ちが通話を通して伝わってくる。
『幕石さんにだってなにか都合があるんだよ、きっと。おれたちが知らないだけで連絡をよこせない理由が。おれたちをこのまま放置するわけないよ。大人なんだから』
もう少し待ってあげよう、と言って通話は切れた。
別矢はスマホを机に置き、指で目頭を押さえる。ここのところしっかり眠れていない。
椅子から立ち上がり、室内を見回した。
降って湧いたようなきっかけで驚くほどの収入を短期間で得ていたが、生活そのものは以前と変わらない2LDKのマンションであった。
あわただしくすぎていく時間に追われて、気がつくと、ひどく危なっかしい場所に立っているのだと実感した。いつ壊れてしまうかもしれない成功だとなんとなく恐れていたが、それは現実のものになりそうだった。
(早く戻ってきて――)
誰にも頼れず、願うしかできないのがもどかしかった。
ネットでもリアルでも知り合いは多かったが、他人に相談することはできなかった。どこでどんな妬みややっかみで傷つけられるかわかったものではない。だから三人のことを知る者は他にほとんどいない。仕事上の知り合いである一握りの音楽関係者ぐらいだ。その人たちに話をしても解決しないだろうとも思うし、むしろ知らせないほうがいい。
別矢芽衣咲は椅子の上でひとり膝を抱える。
日が暮れようとしていた。今日もなにひとつ進展がないまま一日が終わってしまう……。
明日には幕石からメッセージが届くんじゃないか、電話がかかってくるのではないか――。そんな気持ちで待っていたが、もうこれ以上は孤独に心が蝕まれてしまいそうだった。友人はいても別矢はひとりきりだった。
――さがそう。
顔を上げ、ぽつり、とそうつぶやいていた。もうじっとしてはいられない。動き出した途端に、ひょっこりメールが入ってくるかもしれないが、それでも行動しないことには自分がつぶれてしまう。
とはいえ、幕石に対する個人情報をまるっきり知らない。決意したところで途方に暮れるしかなかった。