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アル中と女

作者: 泣音吐花

三月九日




 男はその日も酒を呑んでいた。

 

「だあら大丈夫だって、まじらぁい丈夫」


「もう呂律も回ってないじゃない」


「そんなことねえし。それより志乃はどうしてる?最近見ないんだが」


「何言ってんの九々瀬くん。志乃は目の前にいますよ~」


「え、あぁホントだ。ははは、やっぱ酔ってるかもだわ」


「どうみてもベロベロだよ」


「ふはははははっ。確かに、ちょっと酔ってる」


「ちょっとどころじゃないよ」


 安焼酎一瓶にストロング缶四缶。朝から晩まで、男は酒に溺れていた。


「……やっぱり描けないの?」


「その話はやめろって言ってるだろ」


「でも描こうとしたから…」


「うるせえよ」


 男の狭い部屋はいつものように酷く散らかっていた。

 だが今日は、イーゼルに固定されたキャンバスがグチャグチャに塗りつぶされていた。


「ごめんね。もう聞かないから」


「……なんか飯頼むか」


「さっき食べたじゃん」


「そうだったっけ」


「お水持ってくるね」


 男は後ろめたさと手持無沙汰を拗らせながら煙草に火を点ける。 

 何気なく机に置かれた灰皿に目をやると、あれだけ押し付けた煙草の吸殻がなくなっていた。女が捨てて置いてくれたのだ。

 机には灰皿の他に、女が拵えた色とりどりの手料理があった。




三月十日




「おかしいと思わないか?」


「何が?」


「確かに俺は落ちぶれた。だがあの絵が売れなかったってのはどうしたって納得出来ない」


 男は煙草の煙で黄ばんだ壁に掛けられている絵に目をやりながら言う。


「私は好きだよ」


「売れなきゃゴミだ」


 男は今日も酒を呑んでいた。


「私にとっては宝物なんだから、そんなこと言わないで」


「事実を言っただけだ」


「………美味しい?」


 女は今日も男の世話をしに来ていた。心配もあったが、それ以上に、放っておいたら死んでしまうんじゃないかという恐怖が大きかった。


「……うまいよ」


「ほんと?よかった。また味薄いって言われるかと思ったよ」


「味は…薄いな」


「たまには心に留めてくれてもいいのに」


「正直な方がいいだろ」


「もっと別の方に活かしてよ」


「どうでもいいよ」


「終電近いから、そろそろ帰るね」


「泊まっていかないのか」


「明日から出張でね、次は四日後になると思う」


「そうか」


「ごめんね。その分今日出来るだけ全部やって置いたから、お腹空いたら冷蔵庫に入ってるやつ食べて。沢山作って置いたから」


「あぁ」




三月十二日




 男は昼の一時に目覚めると、芋虫のように体を這わせて机に置いた煙草を取りにいった。

 生活水準に見合わない、太陽の匂いがする清潔な布団の上で寝そべりながら寝起きの一本を吹かす。

 ただぼうっと天井を見上げながら、二日酔いで痛む頭に現実感を乞う。


 暫くして男は立ち上がると、流し台に頭を突っ込んで髪を洗い始めた。

 鬱とアルコール中毒で男の衛生観念は木端微塵に崩壊していたのだ。酷い時には歯磨きも女にやってもらっていた。


濡れた髪をタオルで雑に拭き、男はソファーに腰かける。

 描かなきゃ。描かなきゃ。なんか描かなきゃなんねえのに、俺は一体何をしているんだ。そんな歪んだ創作の苦悩は、本来のそれとはかけ離れていた。

 

目的化された手段なら、もういっそ捨ててしまった方がいい。そんな風に投げ捨てたつもりになっても、男の頭には常にいつかの情景が眩く光り輝いていた。

 その強迫的な執着はもはや呪いでしかなかった。捨てられない過去の額絵に、暗唱出来る程読み返した男宛の手紙。


 一度目を逸らすことで、完全に捨て去ることで前に進めるというのに、描くことを誰よりも大事にしていたからこそ、利口に捨て去れない。

 男はそんなジレンマという呪いによって疲弊し、明けても暮れても、酒に逃避し続けた。


 ソファーに座って真っ暗なテレビ画面を見つめながら安焼酎を吞んでいると、いつの間にか日が暮れていた。

 男は病んでいたのだ。女にも精神科の受診を勧められたことがあるが、男は拒否した。


 男は病院に行くことで病気になるという狂気的な俗説を唱えている訳でも、自身の状態を甘く見積もっている訳でもなかった。単純に面倒だったのだ。ここ数週間に限って言えば一度も外出していない。

 絵を描くことを生き甲斐としていた男にとって、絵を描かない日々は虚無そのものだったのだ。




三月十四日




 夜二十二時になっても女は来なかった。男は来てほしかった。冷蔵庫も冷凍庫も空になっていたからだ。

 仕方なく宅配を頼むことにしたが、既に営業時間外だった為諦めざるを得なかった。

 男はストロングチューハイのロング缶を片手に煙草を吹かす。


 今日はいつも以上に吞み過ぎていた為、吐き気が酷かった。それでも男は呑むのをやめなかった。

 二十三時を過ぎても女は来なかった。男は吐いた。トイレに顔を突っ込んで吐いた。

 碌に固形物を摂取していなかったせいか最近吐いた中で一番苦しかった。


 日を跨いで二十分程経ったところで、女が来た。

 男は相変わらず便器に惨めな求愛をかましていたところだった。


「ごめん遅くなっちゃった」


「…うぇ」


「九々瀬くん…?」


 女はトイレのドアを開ける。


「大丈夫?…じゃないよね、これ、飲んで」


 女はコンビニ袋からスポーツドリンクを差し出した。


「あぁ、助かる…」


 男はそれからも暫くトイレにしがみついた。女はその間ずっと男の側で介抱していた。

 動けないという男の我儘を聞いて、トイレでお粥を食べさせてあげた。




三月十五日




 昨晩吐きまくったおかげか、女の介抱のおかげか、思ったより目覚めのいい朝だった。

 女はいなくなっていた。男は慢性的な空腹と胃のムカつきを解消する為に冷蔵庫に歩き出した。

 冷蔵庫を開けると、買った覚えのない花柄の器に盛られたサラダが目に入った。ラップの上に貼られたメモ用紙には「体を大事に!」と一言だけ残されていた。


 男はサラダを食べながら、向かい酒にビールを呑んだ。そして泣いた。もう一回頑張ってみようと思った。

 男は筆を執った。真っ白なキャンバスを前に座り、ただ待った。その時が来るのを、何をするでも酒を呑むでもなく、真摯に待った。




三月十六日




 日が暮れても、描きたいものは何も浮かばなかった。もう描くのは辞めよう。何も考えず、昔の様に思うまま描ける日まで、待っていよう。

 描くことがどうでもよくなったのではない。男にとって、それ以上に女が何よりも大事な存在になっていた。




三月二十六日




 男はバイトを始めた。引きこもり生活で鈍った社会性を元通りにするのは大変だった。

 女は男の変化を喜び、褒めてくれた。しかしそれ以上に絵について聞かれるようになった。


「無理に働かなくてもいいんだよ」


「やりたくてやってんだよ。それに、自分でも驚くくらい、楽しかったりするんだよ」


「ずっと引きこもりだったもんね」


「あぁ。毎日外に出るってだけで、こんなに生活が豊かになるとは思わなかった」


「よかったね」


 女の笑顔は以前までの純粋なそれではなかった。


「私は、絵を描いてる君が好きだよ」


「前から描いてなかっただろ」


「描こうとはしてたじゃん」


「でも描けなかった」


「もう怒りもしないんだね」


「……どういう意味だよ」


「どうでもよくなっちゃったの?」


 男は冷蔵庫に走り出した。ここ数日全く手を付けていなかった焼酎を手に取り、口に付けたところで強い不快感に襲われ、焼酎の瓶を壁に叩きつけた。

 轟音と共に飛び散る硝子片と飛沫が顔にかかった。


「なんで……」


 男は振り返って女の方を見た。女は男以上に悲しそうな顔をしていた。

 男は女のことが分からなくなった。


「君はゴミだって言ったけど、私は、本当に君の絵が大好きなんだ。だから、ゆっくりでいいから、もう一度描いてくれないかな」


 確かに言った。売れなきゃゴミだと、男は言った。けど、そうじゃないんだと男は思った。

 俺は、俺は…描くことが人生だと思ってやってたからこそ、俺は。


「…もう二度と描かないって決めたんだ」


 その嘘は、男にとって最後の蜘蛛の糸だった。


「それが本心なら………さよならしたい」


「はっ」


 男はもう何もかも馬鹿馬鹿しくなった。あまりにも自分が滑稽すぎて、今まで人生の全てだと思っていた全部が下らなく思えて、男は狂ったように笑いだした。可笑しくて仕方がなかった。

 腹を抱えて笑いながら涙を流す男の姿を見て、女は男のことが分からなくなった。




三月三十日




 男はその日も酒を呑んでいた。壁に掛けていた額絵は全て可燃ゴミとなった。

 女はその日も来なかった。




四月〇日




「やっぱいいなあ」


 女は男の絵に見惚れていた。


「やっと描けたんだ。志乃の絵」


「すっごく素敵だよ。この絵」


「そうだろ。世界で一番綺麗な女を世界一綺麗に描いたんだからな」


「もう」


「はははっ」


「本当にこれでよかったの?」


「…何が?」


「君が描いたシナリオなんだよ」


「これも、あれも」


 女は崖際から飛び降りる男の映像を指さして言った。




四月十日




 病室のベッドから見上げる真っ白な天井に、男は嫌でもキャンバスを連想した。


 女はその日も来なかった。


 男はさっき見た夢を思い出していた。その絵の女は、男が実際に見た女のどんな笑顔よりも美しい顔で笑っていた。


 悲しい訳でもないのに、男の頬には涙が伝っていた。




四月十四日




 男は一心不乱に絵を描いていた。女が幸せそうに笑う絵。

 日が暮れても明けても、男は筆を動かす手を止めなかった。

 やがて絵が完成すると、男は暫くの間それを見つめ続けた。そうしている内にまた日が暮れた。

 間違いなく男が今まで描いた中で最高の傑作だった。男はその絵を売りに出すことも、発表することもしなかった。ただ自分の部屋に飾った。

 それから男は酒を辞め、絵を描くことも辞めた。そして二度と女に再会することもないまま、春は何度も過ぎて行った。




四月十日




 男の部屋に女が来た。実に七年振りのことだった。


「久しぶり。九々瀬くん」


 男は呆然としていた。二度と会うことなどないと思っていた。


「まさかまだここに住んでるとは思ってなかったよ」


「この部屋好きなんだよ」


「そう」


 女は玄関扉から男の部屋を覗き見る。正面右の壁に大きな額絵が飾られているのが見えた。


「描いてたんだ」


女は静かに感嘆した。


「今はもう描いてないよ。働いてるんだ」


「…見たいな。君が描いた絵」


 女は微笑みながら言う。


「いいよ」


 女は男の部屋に上がり、女が美しく笑っている絵を見た。

 女は泣いていた。そして何故か謝った。崩れ落ちて、何度も何度も。

 男は手で顔を覆って泣き顔を隠す女を見て、左手の薬指に気が付いた。

 そして男は穏やかな顔で笑った。女が不幸になっていないことが嬉しかった。


「君に見て欲しかったから、ずっとこの部屋に飾ってたんだ」


「……まさか、その為に誰にも見せてなかったの…?」


「まあな。それとさ、あの時言えなかったんだけど」


 男は女の絵を見る。


「ありがとう」


 男は絵の中の女と同じように、綺麗な笑顔で言った。

「不幸中の幸い」の話。


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