第九話 風呂屋の精霊
アレンは二十人用の大きな木製の湯船に浸っていた。
湯船には数字を記した薄い木の板が浮かんでいる。木の板に載っている数字を読む。アレンは算盤で計算を確認してから、目を閉じて瞑想に入る。
しばらくすると、頭の中で渋い男の声がする
【発動条件。対照者の経済状態の把握・禁酒状態・必要アイテム・算盤・女湯での瞑想。スキル・『金銭返済可能確率の啓示』を発動します】
「返済可能確率は九十五%です」と男の声が告げた。
(かなり、高い確率が出たな。これは、エルマンのやつ、運に左右されると吹聴していたが、かなり確実な投資と見ていたな。喰えない男だ)
瞑想を止めて目を開ける。風呂場内は早朝なのに薄暗かった。
窓に目をやると雨戸が全て閉じていた。魔法の灯も明るさが三分の一くらい落ちていた。
(何だ? 暗くなっているぞ。イリーナの奴が、瞑想し易いように灯を落としてくれたのか?)
ふと、右後方に視線を感じたので、目を向ける。
いつのまにか、一人の若い女性が湯船に浸かっていた。女性の肌は白く、茶色の瞳をしていた。
髪は長く赤かった。女性は、どこかぼーっとした顔をしていた。
(おかしいな。借り切りの時間はまだ終わっていないはず。それに、男が入っていたら、普通は入って来そうにないものだ)
「今日の午前中の女湯は俺らの借り切りですが」
「風呂が長いわよ」と女性は苛っとした顔で叫ぶと、薄くなって消えた。
女性が消えると、魔法の灯は明るくなり、元に戻った。
(何だったんだ、あの女? この世の者ではなかったか?)
風呂から上がって、三十畳ほどある脱衣所でパンツを穿く。
脱衣所ではイリーナが待っていたので、声を掛ける。
「スキルは発動した。借り切っている時間が残っているなら、好きにするといいぞ」
イリーナは顔を輝かせる。
「いいっすか? やったす! 一度、こんな大きな風呂を、一人で借り切ってみたかったっす」
イリーナは元気よく服を脱ぐと、タオルを担いで風呂場に入っていった。
フルーツ牛乳を飲んで、汗が引くのを待つ。
イリーナが風呂から上がってきた。イリーナも美味しそうにフルーツ牛乳を飲んだ。
いい頃合いで風呂屋のフロントに行く。
フロントには風呂屋の女将さんがいた。女将さんの年齢は三十くらい。褐色肌で、瞳は黒。肩まである黒い髪を後ろで縛っている。
服装は動き赤い半袖シャツに半ズボンを穿いていた。
「開業時間をいつもより二時間も早く開けてもらって、助かった」
女将さんは気まずい顔で訊いてくる。
「風呂に入っている最中に、異変はなかったでしょうか?」
イリーナが目をぱちくりさせて答える。
「温度もちょうどよく、お湯も綺麗だったっすよ」
アレンの答えは、違った。
「そういえば、女の幽霊が出たな。風呂が長いと文句を言って、消えた」
「えっ」とイリーナの顔が歪むので、考えを語る。
「女湯に男の幽霊が出るなら問題だが、女湯に女の幽霊が出るのなら、問題ないだろう。幽霊だって、風呂に入りたくなる時もあろう。不思議ではない」
女主人が困惑した顔で尋ねる。
「それで、女の幽霊は何と告げていました?」
「知らん。こっちは瞑想中だ。雑念は排除していたからな」
イリーナが幽霊に同情した顔をする。
「それまた、脅かし甲斐がない客っすね。幽霊は脅す相手を間違えたっすね」
女主人は困って頼んできた。
「風呂を借りに来たお客様に、こんな仕事を頼むのはなんですが。幽霊を祓っていただけないでしょうか」
「俺は賢者であって、坊主ではない」
女主人は困った顔で告げる。
「でも、僧侶の前だと幽霊は出ないんです」
「わかった。やるだけやってみよう」
アレンは脱衣所の扉を開けた。
脱衣所のベンチの上に、先ほどの女性の幽霊が、バスタオルを巻いて横たわっていた。
幽霊は苦しそうな顔をしていた。
「噂をすれば幽霊だ。何やら、逆上せているな。イリーナよ、団扇を借りてきて、扇いでやれ」
イリーナが感心する。
「風呂で逆上せた幽霊って初めて見たっす。けど、逆上せた幽霊を見て、すぐに扇いでやれって頼む御主人も、大物っすね」
イリーナは団扇を持ってきて、逆上せている幽霊を扇いだ。
アレンは幽霊を見下ろして告げる。
「幽霊よ。何か伝えたい話があるのであろう? 今なら聞いてやる。話すがいい」
幽霊が目を閉じて、老婆のような声で語る
「この町に災いが迫っている。災いは高きところから、低きところに流れるであろう」
「お前、さっきまで普通に話していただろう。ちゃんとわかるように話さないと、団扇で扇ぐのを止めるぞ」
「うっ」と幽霊は顔を歪めて、普通の女の声で語る。
「ありがたみが出るように、不思議めいた言葉で教えなきゃいけないのよ。それに、私は幽霊じゃないわ。この街の守護霊で、名前はピンよ」
「わかった、ピンよ。わかりやすく教えるなら、フルーツ牛乳を供えよう」
ピンが膨れっ面で答える。
「精霊は普通の飲み物を飲めないのよ!」
アレンはスキル・ブックの中を探す。
『霊体にフルーツ牛乳を飲ませる』スキルが存在した。
(何か、ピンポイントであったな、発動条件は何だ)
【発動条件。精霊の友好度が半分以上・対象霊は風呂上り状態・必要アイテム・フルーツ牛乳二本・一本は対象の整理に供える。もう一本は、スキル保持者が飲む】
(使い道がほとんどなく、効果も限定的で弱いスキルなら、発動条件も緩いのか)
アレンはフルーツ牛乳を二本買ってくる。
一本をピンに供えて、もう一本は自分で飲む。
【スキル・『霊体にフルーツ牛乳を飲ませる』を発動します】
アレンはピンに命じる
「これで、飲めるはずだ。飲んでみろ」
ピンはアレンを疑ったが、瓶を手に取ると驚く。
「嘘、瓶が握れる!」
ピンは、おそるおそる蓋を開けると、瓶に口を付ける。
「美味しい!」とピンは顔を輝かせた。
ピンがフルーツ牛乳を飲み終わったところで尋ねる。
「それで、具体的には、何が起きようとしているんだ?」
ピンは、あっけらかんとした顔で重要な事実を語った。
「この街には、去年から動かなくなった時計台があるのよ。その時計台の中に爆発物が仕掛けられているわ。それが、今日の昼前にも爆発するのよ」
「何だって? もう、そんなに時間が残されていないだろう」
ピンは、むっとした顔で言い返した。
「ずっと前から警告していたんだけど、ちゃんと聞いた人は貴方が初めてよ」
「わかった。イリーナ、時計台に急ぐぞ」