そこは火星のような
夢です
そこは火星のような
そこは火星のような場所だった。赤茶けた地面が暗澹とした空の下に無限に広がっている。地面の上にはまるで俺が来た直後に急いで身をひそめましたという感じの乱雑さで、大小さまざまの同じ色の岩が散らばっている。そしてその岩の散らばりもまた無限に空の向こうまで広がっている。ここに終わりはない。始まりもないが。
地面に降りると俺はあごひげを触りながらその始まりも終わりもない、ただ赤茶けた砂と岩、それから広がり続けるくもり空を見つめ、それからなんだか恥ずかしくなって煙草を取り出して火を点けた。ラッキー・ストライクの紙のケースがくしゃくしゃになっている。こんな時ぐらいボックスにすれば良かったかもしれない。と思う。大丈夫だ。この煙草は減らない。そんな気がするだけだが。
俺が降りた珍妙な乗り物から俺の女が降りてくる。女は俺と違ってその変わった乗り物にあっていた。服装が第一変わっている。攻めたブランドのルックブックみたいになってるぞ。そうからかおうと思ったが、喉の入り口から先に言葉が出ない。無限に広がる火星のような地面を見つめるのと同じ表情で女を見てしまう。女は俺に似つかわしくないくらいいい女で、サングラスをかけている。背が高い。笑みを浮かべて俺のそばに来ると、何も言わず腕をからませてきた。無反応を攻めもしないので、俺はなんだか堂々としている女を見ていると安心した。堂々とした女はいいなあ。任せよう。どこかもうすでに行くところが決まっていて、女はそれが分かっている。そんな気がした。ここは通過点でしかない。それだけが俺に分かった。
火星のような地面を女と腕をからませてぶらぶらとそぞろ歩く。後ろにあったあの珍妙な乗り物から30mと離れず、その周りをうろうろと歩いた。私は娘に手を引かれる老人のように歩いた。煙草が吸いたいなあ、おい止まってくれよ煙草吸うんだよ、そういっても女は相変わらずの笑みで、止まるそぶりすら見せない。たまにしょうがないわね、という顔で俺を振り返る。その顔がなんだかとても優しい感じだったから、この人を困らせたくないなあと思って俺は我慢した。
しばらく歩くと、なんだかそこから雰囲気が違っていて、透明なゆるゆるとした幕のようなもので遮られていた。そこから先には進めないのよ、と女が久しぶりに口を開くとそんなことを言ったから、俺は組んでいた手を放して、両手で幕に触れてみた。確かに行けない。幕にそもそも触れられない。試しに煙草を付けて火のついたところを幕にあててみると、生き物みたいに幕はぶるぶると身を震わせて、それから元の感じに戻って、そこからは何回火を近づけてみても無反応だった。
ふと目を上げると、幕の向こうはなんだかこっちの火星とはだいぶ違う世界の様だった。幕に夢中で気付かなかった。それに気付いた俺の後ろで、女は少し悲しそうな顔をしているのではないか。なんとなくそう思ったのでせめて煙草を消した。俺もう煙草はやめるよ。それでも女の顔は晴れない。そう分かる。
幕の向こうの世界は初めぼやけていたが、目を凝らすと段々とはっきりとしてきた。夜の街だ。歩道にはレンガが敷かれ、道端のカフェやレストランの明かりが優しく行きかう人々を照らしている。休日なのだろう。買い物袋を提げた人々や恋人たちが楽しそうに何か話しながら忙しげに行きかっている。一人で歩いている人も心なしか楽しそうだ。良い街だな。ヨーロッパかなあ。俺もこういう街で暮らしていた、いや、暮らしたかった気がする。そんな気がしてならなかった。
素敵な街はますます輝いて見えた。月明かりが変わらずに行きかう人々を照らしている。俺はいつの間にか女のことをすっかり忘れて見とれていた。煙草を点けていた。気付かない間に点けていた。ずっと前から唇にあったみたいだった。ふと、それに気付いた時に女に手を組まれていることに気付いて、我に返った。幕を挟んで、楽しそうな街を俺たちは火星のような場所から見つめていた。誰も楽しそうな人々は俺たちに気付かない。相変わらず活気があふれるその道には人が行きかっていたが、誰もこちらを見ない。ただ俺と女はしばらく立ったままそれを眺めていた。女がどうしようもないよ、という表情でこっちを見ていた。いや、そう見えただけかもしれないな。相変わらず煙草は燃え続けていた。俺の煙草は減らないんだ。そんな気がまたした。
ふと、ここは本当に火星なのかもしれないな、と思った。それもただの火星ではない。500
年後だ。500年後の火星なのだ。ここは。それだったらあの人々が俺らに気付かないのも無理はない。素敵な街で楽しく暮らしていたら、500年後の火星にいる男のことなんて考えないよな、俺もそうだよ。俺は取り留めもなくそう思いながら、漠然とした気分で幕の向こうの素敵な街を女と見つめていた。相変わらず人々は楽しそうだ。どこかカフェから音楽が小さく漏れて聞こえる。ジャズかなあ。誰も俺と女に気付かない。俺と女は腕を組んで500年後の火星からいつまでもその街を眺めていた。
夢でした




