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06 『冒険者』から見た冒険者ギルド⇒あってもなくても変わりはしない。それがオレたち『冒険者』だろ?


 探検家との区別が難しいが、冒険()という職業は、現実にも存在する。

 植村直己、堀江謙一、三浦雄一郎といった名前は聞き覚えないだろうか。

 世界初のエベレスト登頂者、エドモンド・ヒラリー。

 大西洋単独無着陸飛行を成功させた、チャールズ・リンドバーグ。

 クリストファー・コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、フェルディナンド・マゼランといった、歴史の教科書に必ず出てくる人物も、冒険家として数えられる。


 対し、冒険()という職業は、ない。

 だが、冒険者は現実にいる。

 上に挙げた冒険家たちは皆、例外なく冒険者だ。


 地理的なものだけではない。

 現在では法やサポート体制整備が進み、意味合いが変わってきているが、元来ベンチャー企業はその名の通り、冒険的(ベンチャー)な会社だった。

 その発案者・経営者たちは、その当時の主流とは離れて先進的な、口さがなく言えば無謀な挑戦を行う冒険者だったのは、誰も否定しないだろう。



 『冒険者』とは、称号だ。

 笑われても己を信じ続けて、『馬鹿』から『成功者』へ変身し、『無謀な挑戦』を『偉業』へ、『空想』を『現実』へと変えた者を称えるための。



 誰しもが成しえることではないのだから、人々は憧れる。


 自由を。

 普通に生きるだけでも、人間は束縛される。家族、友人知人、仕事、法律、大小さまざまな社会の中で、さまざまな(しがらみ)に囚われる。

 それが生きるために必要だとわかっていても、時には全部振り払いたくなる。


 自信を。

 人間誰しも完璧ではない。そして人生は未経験の連続だ。「これでいいのか」と自問自答しながら、暗闇の中を手探りで進んでいる気分で、迷いながら生きていくしかない。

 だから常に変わらない、己の意志を貫ける強さを求めてしまう。


 力を。

 困難が立ちはだかった時、人は己の無力さを嘆く。

 知力・体力・時の運。腕力・財力・権力・精神力。足りていないものを「あればいいな」と思ってしまう。


 そして挑戦を。

 自由で、自信があり、力がなければ、挑戦はできない。

 半端に色々と知って、半端に様々なものを得てしまえば、それを守るために保守的になってしまう。

 だから若かりし時のように、青臭い判断をして、熱意でだけ行動できないかと思ってしまう。



 物語で描かれる『冒険者』たちは、本来そのような憧れの擬人化だ。


 身分制度が厳しく、往来すらも不自由だった、危険な時代。

 なのに彼ら・彼女らは、飄々(ひょうひょう)と旅を続ける。

 行く先はその時々。しかし確固たる意思があってのこと。

 近しい者の仇を追って。失われた秘法を探して。極めるために。未知の地を見つけるために。

 その行く手には、様々な困難が立ちはだかる。

 金欠が。凶悪な怪物が。法と正義が。仲間の死が。

 時に笑いながら、時に悲しみながらも、彼らは乗り越え、進む。

 なぜ戦えるか。なぜ進むことができるか。

 全ては己のために。結果として誰かのために。

 だから『金のため』と(うそぶき)きながら、小さな手で温められたたった一枚のコインと、笑顔だけでも、充分すぎる報酬と判断できる。


 『英雄』『勇者』という名に変わることがあろうとも、本質は変わらない。


 そういった人物の人間性といった現実を知らず、話を聞くまでならば、彼らの存在は一種の神となる。

 信仰を集める、完璧な存在という意味ではない。

 その筋のトップカテゴリーや伝説の作り手を、『○○の神様』と呼ぶだろう。それと同じだ。

 崇めることはなくても、尊敬し、目標とする。そういうレベルの。

 完璧ではないけれど完璧な、人間でも到達可能な領域にいる、親しみある不完全な神たち。



 だから人間として生かすために、社会的地位を与えようというのが、根本的な間違いとなる。


 『冒険者』になれるのは、ごく一握りの者だけ。

 なのに名前だけとはいえ、全ての者を名乗らせるようにした。


 『冒険者』は自由、社会に縛られない。

 なのに登録と労働と金銭と立場で縛りつけた。


 『冒険者』は自信を持たなくてはならない。

 なのにただの運や無謀さを勘違いさせ、増長させた。


 『冒険者』は力を持っていなくてはならない。

 なのに力無き者も、力の使い方を知らない者も、受け入れてしまった。


 『冒険者』は挑戦しなくてはならない。

 なのに誰かが書き記した地図を見て、整備された道を歩くだけにした。


 『冒険者』は、誰もの憧れでいなければならない。

 なのにどこにでもいる誰かにし、特別さを失わせてしまった。


 冒険者ギルドは、禁忌を犯した。

 冒険者ギルドの存在こそが、『冒険者』の価値を(おとし)めた。


 本物の『冒険者』であるならば、「あれば便利」くらいの、必須の存在ではない。

 その組織がなければ活動できないのであれば、『冒険者』ではない。



 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○



 さて。最後に、作者としての立場から見た話だ。


 広く使われている形では、冒険者ギルドはリアリティがない、地雷設定と断言するしかない。

 あれば異世界に暮らす人は、想像力も危機感もなく生活しているリアリティのない、テーマパークのスタッフにも劣る大根役者と化す。


 先走ってもらっては困るが、冒険者ギルドが出てくる作品は全部つまらない、なんてことを言う気は全然ない。

 だが使われているだけで、評価を得られにくくしていまうのは、半数以上の作品で間違いなく言える。


 これまで散々述べてきた内容だが、つまらない戯言だと判断する人もいるだろう。

 フィクションなのだから、そんなの気にする必要はない、などと。



 だから言い換えよう。

 この設定を作品に使うことで、読者からの評価を受ける可能性を狭め、評価されても上限を定めてしまう。



 粗があっても問題ない。リアリティがなくても問題ない。フィクションなのだから。

 そう思って作品を読む読者がいる一方、フィクションだからこそ、リアリティが大事と考える人もいる。

 『面白さ=リアリティ』ではない。これは断言できる。

 だが『リアリティ=面白さの一部』であり、『リアリティのなさ=面白さの一部』であるのも間違いではない事実だ。


 そして、「リアリティがなくてもいい」と考える人はいても、「リアリティがあってはいけない」と考える読者はいない。

 だとしたら、小説を読むことができない。

 本題ではないので説明は省くが、「リアリティがない」と言われる作品であっても、リアリティがゼロではない。正確には「リアリティ度が低い」と評するべき代物だからだ。



 アンケートを取っても、当人も自覚しているか怪しいことなので、どの程度の割合がいるか知らない。

 だから、世界観や冒険者ギルドのリアリティを、気にする人・しない人が、半々でいると仮定しよう。


 だが読者が判断する作品の評価ポイントは、リアリティだけではない。


 粗がある設定に、リアリティを持たせる工夫をしているか? していないか?

 粗が気にならない、魅力的なキャラクターがいるのか? いないのか?

 粗がどうでもよくなるほどの没入感が作品にあるのか? ないのか?

 粗があっても先が気になる中毒性が作品にあるのか? ないのか?


 意識あるか無意識かはさておいて、実際にはもっと細分化して、読者は判断していることになる。

 粗のあるキャラクターが作品内に登場しないとしても、魅力的なキャラクターがいなければ、評価しない読者もいる。

 面白い展開が続いていたとしても、たったひとつの場面がつまらないと判断して、読者は読まなくなる場合もある。


 とにかく一定数の読者が「これはないわー」と思う要素が、その作品にいくつあるか。

 それを気にせず評価する人・気にして評価しない人は、全てが半々でいると仮定する。


 すると評価してくれる読者の割合は、2のn乗分の1、n=要素数となる。


 作品に「これはないわー」と思う要素が、10個あるとしたら、2の10乗分の1、1024分の1。

 面白いと思ってくれる読者が、約1000人にひとりしかいないというになる。

 ブログやSNS、このサイトの場合だとポイント評価して、実際に「面白い」と態度を表明してくれる読者は、その数百分の1、数千分の1になる。


 更には仮に、ものすごく広報や営業活動を頑張って、日本国内の最大限、全国民がその作品を読んだとしよう。

 計算上はその1024分の1、約12万人までしか「面白い」とは思ってくれない。それ以上は評価してくれない。

 「地方都市人口レベルも評価してくれる人がいれば十分」と考える人がいるかもしれないが、それは広報活動としての評価であって、作品の評価としては最底辺だ。面白い・面白くないが単純に半々と仮定した場合と比べてみれば、一目瞭然だろう。


 しかし、世界観や冒険者ギルドのリアリティがあると、「これはないわー」がひとつ減り、nの数をマイナス1する。

 この計算上では、評価してくれる読者数が2倍になる。

 だから作品には、粗がないに越したことはない。



 粗はゼロにはできない。

 ジャンルや題材を選ぶと粗はどうしても出る。

 例えば恋愛モノなど、男性読者のことは考えて作られていない。男性読者を排除するわけではないが、読んでくれなくてもそれは構わないと、女性が好みそうな題材を取り上げて作る。結果として男性を排除してしまうだけだ。

 ある表現を作品内をしようと思った時点で、どうしても受け入れられない読者を作る要因、粗は出てしまう。それは仕方ない。


 だが冒険者ギルドの問題は、これに当てはまらない。

 ファンタジー作品で、可能な限り現実的な冒険者ギルドの姿を描いたら、誰も読まなくなるのか?

 このエッセイで挙げた問題は全て「ある」前提でなければならず、その解決を作品で描いてはならないのか?


 絶対にない。そんな読者がいるとしたら、他人にはなんの参考にもならない偏見でしか物を見れない、ごく少数の人間だ。

 もしそうだとしたら、「冒険者ギルドが出てこないテンプレ作品」は淘汰されている。



 最初はどうかは知らない。

 ゲームで使われている設定だったからとか、好きな作品でそうだったからとか、そんなものかもしれない。

 その作品では、その設定を作り出して使った経緯に、相応の理由があるだろう。


 だが己の作品で、なんの工夫もせず冒険者ギルドを出したら、作者が手抜きした結果でしかない。



 作者がプロや売れっ子になれるのは、ごく一握りの者だけ。

 どのレベルか、自覚あるかは不明だが、作者が作品を広く公開したということは、他人はそう望んでいると見なす。


 作者は物語の中では自由、社会に縛られない。

 なのに「テンプレ設定を使う」と決めた時点で、自由ではなくなった。


 作者は己の作品に自信を持たなくてはならない。

 なのに己独自の設定や工夫を作る自信はなかった。


 作者は物語の中では力を持っていなくてはならない。

 なのに己独自の設定や工夫を作る力はなかった。


 作者は物語の中で挑戦しなくてはならない。

 なのに挑戦を放棄し、ありきたりに埋もれることを善しとした。


 作者が作り上げた物語は、読んだ人の憧れなければならない。

 なのに一定数以上の憧れを集めることは絶対にできない。


 『冒険者』を描きたいのであれば、誰よりも作者自身が『冒険者』であれ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 疑問を持つこと自体は良いね 似たような設定ばっかで飽きてきてるのはある [気になる点] まあでも冒険者ギルド自体は海外のゲームや小説ですら出てくるし 必要か必要じゃ無いかなんてその作品の世…
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