放課後の諸々
彼、なかなか目を合わせないのです。
彼、口癖、難癖、いっつも決まって話すのです。
「俺は、俺はな、なまじ頭が良いばかりに有耶無耶にやっちまうんだ。本気でできやしない。この頭が良いのだって、使わなきゃ意味がないんだ。」
彼、いっつも成績は二番だった。いっつも決まって、一番にはならない。
何故って、いっつも、一番になるの、私だったから。それが不満で仕方ないって、そんな顔しながら、自分は頭が良いって、威張って、満足したくってしょうがないのを、私に、いちゃもん。とんだクレーマー。
「私が、勉強したことないなんて、話したら、貴方、どう思う?」
嘘はまだ吐いてないわ。
「そんなわけない、そんなことがあるか。お前はいつも一晩中机に向かってんだ。休みの日にゃ、10時間も20時間も詰まらん本を読んでんだ。」
「私、本なんて、読んだことないわ。」
「ロダンは名刺を一寸見て云った。」
「ランスチチユウ・パストヨオルで為事を……。」
「そらみろ。」
彼だって、知っていた。
今時、森鴎外を読んでる人、いないわ。
私だって読んだことはあるけれど、意味なんて、わからなかったもの。調べもしなかった。必要のないこと。
「謀ったの?」
「お前が詰まらん嘘なんぞ吐くからだろう。」
「吐いてないわよ。」
「吐こうとしていた。変わりゃしない。」
彼、こうやって、いっつも私を言い負かすのです。
彼、こうやって、言うものだから、私が勝ったことなど、ただの一度もないのです。
「成績、一度も私に勝ったことなんてないくせに。」
本音。紛れもなく。思っていたこと。
「だから言っただろう、俺は本気でやらねぇで、意味がない。」
「失礼よ、そんなの。本気でやってる人に、本当に失礼。」
「やるやらんじゃない、できないんだから、仕方ない。神童なんて言われてたお前にゃ、俺の気持ちはわからんのさ。俺はどうでもいいことばっかり気になって、詰まらん大人が書いたもの読んだり暗記したいなんて、これっぽちも考えにないんだ。」
「どうでもいいことより、どうでもよくないことの方が、詰まらないのね。」
「どうも大人にとっちゃ、どうでもよくないらしい。俺はさっきどうでもいいって言ったけど、それは大人にとってそう思われるようなことをしてるってだけだ。」
「貴方にとって詰まることは、大人にとって、どうでもいいこと?」
「大抵そうさ。」
「大抵?」
「舞姫。」
「森鴎外のこと?でも知ってたって必要ないじゃない。きっとどうでもいいことだわ。」
「そういうことを言う大人が詰まらんのだよ。」
「じゃあやっぱり、森鴎外は、詰まる人だったのね。」
彼にとって。
「あんなに詰まる人間は昔から今までにだって二人もいない。」
「他の人は、みんな詰まらないってこと?」
「そんなこと言っちゃない。俺は本は読むからな。一日に五冊は読んでるんだ。それだって授業中さ。一時間で一冊読めば充分だ。」
「そんなに沢山いるのね。」
私なんて、週末にやっと一冊を読んで、また同じ本を三度四度と読んで、月に一冊か二冊が限界なのに。
彼、本気じゃないなんて。本当、本当にどうかしてるわ。
「でも十冊読めば九冊は詰まらん本だった。十冊に一冊は、詰まる人間の本だけど、九冊は時間の無駄だ。」
「有益な時間を過ごしたいってこと?」
「人間は無益なことばっかりして、阿呆の諸行だ。こればっかりは詰まる奴も同じことをする。」
だったら、私はその、無益な人生を送っているということ。
彼、そんなこと、意図しては言ってないだろうけど。私には、そんな風に聞こえてしまう。
彼、いっつも、無自覚に、私の尊厳を、簡単に奪い去ってしまう。
「貴方だって人間よ。」
「そんな詰まらん理屈を言ってるようじゃ、お前も、詰まらん人間になっちまうぞ。」
「私なんて、とっくに、詰まらない人間よ。」
彼、実際、詰まると思える人間など、いないのです。彼と話せる相手の中にはいないのです。
正しいことを一方的に話してる内しか、彼にとって詰まる人間でいられない。言葉を交わせば、あっという間。負かされてしまうが関の山。
彼、だって、いっつも喧嘩口調なんだもの。
「そうやって自己嫌悪をしたようなこと言ってな、二番三番を蹴落とすようなことだって、わかって言ってるのか?それ。」
「成績は関係ないわ。だって貴方は詰まる人間だもの。」
「俺は詰まらん人間だ。」
「九冊分の作者も言い負かしてしまえるのに?」
「そんなもの、何の役にも立ちゃしない。大体言い負かそうとしてるわけでもない。俺はこうやってお前に厭味を言われるような、詰まらん人間だ。」
彼、厭味だなんて言って、自分が一番厭味な人間になろうとしてるって、わかってるくせに、それでもやめない。まだ私の目を見て話さない。後ろめたい気持ちだってあるくせに、それでも言いたいことを言うんだもの。本当は実直な性格。笑っちゃう。思ってもないことまで言いだすのよ。本当は誰も彼もを羨ましがってるだけなのよ。彼、わかってるのに、口が止まらない。笑っちゃう。
彼、いつだって私を馬鹿にする。でも私のこと、どこかで尊敬してる。詰まる人間だなんてちっとも言ってくれないくせに、はっきり言えないくせに、端々で私の自虐を否定する。それから、今度は彼が自虐を始める。
「貴方って謝らないのね。」
「謝らせたいのか?厭らしい女だ。」
「ごめんなさい。」
「そうやってお前は、俺に罪悪を植え付けたいんだな。浅ましい。」
「そんなに言わなくたって良いじゃない。普通の乙女なら、泣いているところよ。」
「そんな野蛮な種族になりたいのか?」
「彼女たちは野蛮じゃないわ。神聖で明媚なのよ。」
「よもやお前がそんな風に言うなんてな。ありゃ野蛮に違いない。泣いてるところなんて野蛮そのものだ。はしたない。見るに堪えない。」
「じゃあ、貴方の前では泣かないようにするわ。」
「お前は人前で泣かないだろう。第一、一人であっても泣かないような女だ。」
「そう思うなら、そうなんだと思うわ。」
「お前は勉強ばっかりやって、他のことなんて興味ないからな。」
彼、何もかも知ったような顔してる。馬鹿に本は読むくせに、人の心なんてちっとも読めない。笑っちゃう。その顔だって、本当は作ってるの。
彼、本当は不安で仕方ないのよ。自分が否定されるのも怖いのよ。だから私に甘えるのよ。私は彼を野蛮だなんて言ったりしないもの。きっと私を母親か何かと同じにしてるのよ。赤ん坊みたい。
彼、ここで本当に私が涙を一粒零したって、野蛮なんて思わないのよ。もしかして、困り果てて、彼まで泣き出すかもしれない。そうなれば、どんなに面白いか。
私、彼に向かって小馬鹿にした笑みをあげて、思いっきり憤慨させてやってみたい。けれど、そんなことしたら、彼きっと、居所を失ってしまう。私がいなきゃ、独りきり。寂しい人。
「私、興味があるの、勉強だけじゃないわ。」
少し、悪戯心が消えなかった。少し、困らせてやろう。
泣かせるのは可哀想だものね。控えめに、困らせてやる。
「ほう、飯を食うことか?」
本当、失礼しちゃう。でも、今日はめげないわ。
「そんなわけないじゃない。」
「それは嘘だな。三大欲求だ。食に興味のない奴なんてないさ。飽食状態だって完全に興味を失くしたりはできねぇんだ。」
「三大欲求、そうね、三大欲求のことよ。」
「下賤の科白だな。」
「駄目かしら。」
「お前のその顔、俺を困らせようとしたいんだろ。」
「そうよ。」
「お前の気に触るようなことを言った憶えはないぞ。」
「何もかも気に障ったわよ、馬鹿ね。口を出任せで放ったらかしにして、言ってから困った顔してたわ、貴方。私が何か言わなくたって、もうさっきからずっと困った顔よ。わかってたんでしょ、私を侮蔑するような言、何度も遣ってしまっているの。」
ほら、彼、こっちを見た。
「そうやってお前、俺の心を見透かしたようなこと言いやがって。」
「わかるわよ。だって私、貴方に興味があるんだから。」
「本当、下賤の科白だ。」
「駄目なの?」