第一王女の憂鬱
第一王女様の話。はじまりはじまりー。
世界で最も巨大な大陸、イシュラ大陸。
その国の南西に、シェインデル王国という国があった。
先の大戦で貴族の言いなりになっていた当時の国王を引き摺り下ろし、イシュラ平和条約締結に一役買った新王、フェルディナント。
彼の尽力により順調に復興を進め、今や文化先進国と名高いシェインデル。
賢王と名高い彼には一人の正妃と二人の側妃がいた。
国内二大貴族と名高い公爵家の片方から娶ったアンシェラ王妃。
国境付近に領地を持ち、幾度も国土防衛に成功した忠臣中の忠臣、伯爵家から娶ったフローチェ妃。
国内で最も伝統と格式ある歌劇座、夢花座で当代一と言われた歌姫、カチャ妃。
それぞれの妃には娘が一人ずつ生まれ、王妃には長女、フローチェ妃には次女、カチャ妃には三女の子宝に恵まれた。
そして、第一子が生まれてから、二十年に近い歳月が流れる。
シェインデル王国第一王女、シルフィア・ファン・シェインデルは、本日何度目とも知れぬため息をついていた。月光のような淡い金髪を指先で弄びながら、私室の寝台の上で悩ましげに肩を落としている。
白百合のようなとほめそやされる繊細な美貌の彼女が、そのような愁いを帯びた表情をしていると、むしろ美貌に拍車がかかるようだが、当の本人はそんなことはちっともわからない。
そんなことより彼女の目下の悩みは、一週間後に迫る結婚式にあった。
誰が誰と結婚するのだと問われれば、シルフィア本人と彼女の婚約者であり侯爵家次男のヨエル・デ・ノーイェルが、である。
シルフィアは国王第一子であり、次期国王である。この国では継承順位は男女関係なく生まれた順番で決まるので女性でも全く問題はない。
ヨエルはシルフィアと幼いころから親しく、彼女が次期国王と正式に公表された、成人とされる一五歳の宴の日に婚約者としてあてがわれた。
シルフィアは正式に決定したのは一五歳といっても、幼いころから王位継承権第一位の王女として英才教育を受けてきた。だから王族の結婚は義務であると受け入れていたし、それが顔の見たことのない相手だろうと年が離れていようと気にしないことにしていた。むしろ、親しみのある相手を婚約者にしてもらえて拍子抜けしたほどである。
そしてシルフィアは今年一九歳。
若く咲き誇る花のような美姫だが、女性の適齢期は短い。本来なら一六、一七歳で婚礼式を済ませているはずだったが、近ごろ病で伏せるようになった父王の代行として公務に励んでいたことから、先送りにしていたのだ。
あれこれと調整し、去年の冬にめどが立ったことからついに婚儀へと踏み切ったのである。
婚儀を来年の初夏に行いたい。そう婚約者本人と、側近たちなど主だった家臣たちにまず伝え、さらに国中に伝達した時にはやっとだという達成感もあった。
しかし…。
シルフィアは柔らかな寝台の上で仰向けに寝転んだ。
このもやもやとした胸の内を、自分でも何と言ったらいいのか分らなかった。こんなこと、親しい侍女にも妹たちにも、もちろん父王にも言えやしない。
今更…、結婚が憂鬱だ、なんて…。
シルフィアの淡い金髪が燭台の光を受けて赤みを帯びる。
その様をぼんやりと見つめながら、シルフィアはまとまらない思考をつらつらと流していた。
最初にヨエルに会ったのは五歳のころ。まだ王族としての責任感もぼんやりとしか理解していなかった幼く無邪気なシルフィアは、教育係だったノーイェル侯爵夫人に彼女の息子と引き合わされたのだ。
思えばその出会い自体何らかの作為が働いていたのかもしれない。しかしそうして出会った当時十歳のヨエルを、回数を重ねるうちにシルフィアは慕うようになった。
――ヨエル兄さん。
そう、無邪気に呼んでいたあのころ。ヨエルも自分より身分のある姫君というよりは妹に対するような態度で接していたように思う。
――なんだ、シルフィー。
そう、切れ長の若草色の瞳を細めて、愛称で自分を呼んでいたヨエル。
基本的に自分にも他人にも厳しくて、冷静で、知的な雰囲気の人だけれども、幼いころにはそれなりに無垢で無邪気な部分もあった彼。
そんな部分がなくなったのはいつのころからだろうか。
そもそも彼と私的に会う時間が少なくなり、公人として会いまみえる時間のほうが多くなったせいではないだろうか。
十を過ぎたころからシルフィアは次期国王候補として公務に出るようになった。無論十歳になる王女に条約の締結などの無理難題を押し付けることなどなかったが、公務は公務だ。経験を積むためにシルフィアは様々な公務に励むようになり、否応なしに王族としての責務を自覚していくこととなった。
感情を殺し、常に聡く優しく美しい、望まれた王女でなければならない。
そのせい、だろうか。
ヨエルもまた、聡く有能な、侯爵家次男としての顔でシルフィアと接するようになった。
ヨエル兄さん。
シルフィー。
もう、そんな気やすく呼べるような間柄ではないぐらい、二人には解っていた。
シルフィアも理解していた。仕方のないことなの。彼は侯爵家次男で、私は王女。彼もまた慈しむべき民であり、公平に処断を下すべき臣民でもある。だからあのころのことはもういい思い出で、それ以上の何でもあってはならないことなの。
そう思って、日々をやり過ごしていた、ある日のこと。
シルフィアが十五歳、成人と認められる年の、初春。まだ雪解け水も流れ終わらぬ日に、父王はわざわざシルフィアを自分の執務室に呼びつけて、言った。
――お前の婚約者を、ノーイェル侯爵家次男、ヨエル・デ・ノーイェルとする。
父王に対して否という返事はあり得ない。婚姻という最重要事項の一つともなればなおさらだ。だから、その場ではシルフィアは淑女として畏まった態度を少しも崩すことなく、承りました、と返した。
その後いくつかの申しつけを受けてから、シルフィアは御前を後にした。その後の公務も勉学も、シルフィアはいつも通り淑女のお手本のような態度を保ち続けていたが、心には嵐が吹き荒れていた。
どうして、今更。
優しいお兄さんだったヨエル。いい思い出のヨエル。それを思い出すと今との差異が寂しくなるから、侯爵夫人に薦められても、勤めがあるからと面会することも避けていたヨエル。
大好きだったヨエル兄さん。
シルフィアがただの貴族の娘なら、嬉しく思えたかもしれない。年のころもちょうどよく、見目良く、理性的で、幼いころから親しんできた殿方と結ばれるのだ。
しかしシルフィアは王女だった。次期国王だった。
もうあのころには、無邪気で愚かだった日々には戻れない。
彼女も自分の生真面目さから意固地になっていた部分もあるだろうが、何より彼の態度がそれを許してくれなかった。
婚約が決定してから初めて会った彼は、流れるように跪いて言った。
これから何があろうと、自分は殿下を陰日向に支え続ける所存でございます。
ほんの半歩先で固まる少女に構うことなく、ヨエルは臣下として理想的な態度でこの婚姻を受け入れた。
女王の夫として王族に迎えられる彼に求められるのは、自分より力の劣る王の権力を絶対に侵さないことである。夫婦ともなれば他人には踏み入れがたい領域が発生するのは当たり前。その隙に乗じて王権を奪おうとした王婿も過去には幾人も存在する。
ヨエルは理想的な婿だった。公然の場では常に影のようにふるまって実体の王女を立て、王女の敵となる人間は速やかに排除して彼女の絶対的な味方であることに努めた。
すべては王女のため。
すべては次期国王のため。
すべては――この愛すべき母国のため。
彼は正しい。ヨエルは、有能で、冷静で、与えられた役割を完ぺきにこなしている。
問題があるとしたら、それはシルフィアの方なのだ。
どうしてあのころみたいに、シルフィーとは呼んでくれないの。
ずっと前に封じ込めていた我儘が再び疼きだしたことにシルフィアは戸惑った。彼女が研鑽の末に作り上げた王女の仮面はこんな時に限って彼女を助けてはくれなかった。
――殿下。
ヨエルはいつも、シルフィアをそう呼んだ。シルフィアは王女だ。間違っていない。だからシルフィアもこう呼ぶ。ヨエル殿、と。
結婚したら、なんて呼べばいいの?
今よりも――幼馴染よりも、婚約者よりも、ずっとずっと近くに感じるようになるはずのあなたを、私はなんて呼べばいいの?
今更、どんな顔であなたの妻になればいいの?