伏龍
彼は綺羅星の夜空を悲しき瞳で眺めていた
若き日から絶望と希望の問いかけをした暗い美空に帰る時がきた
師とした先帝も、共に死力を尽くした友も今は亡き過去
情に生き情に死した師君は白帝城に眠る
共にその情に殉じた忠臣は夷陵の大火に包まれ灰となった
師君らを葬った若者は、夭逝の名家の運命を担い
忠臣名将に囲まれ皇国を建てる
しかし志を共にはしなかった
彼の故郷を焼いた大陸の英雄は
大国を建てて、百年の平和を築いた
例え仮初めの平和であっても
そこに住む民衆にとっては理想郷であり
求めていた英雄であった
英雄に仕えていれば、共に百年の本物の平和を築けたろう
決して私怨で英雄を否定したのではない
ただ、彼は、百年ではなく
永遠の平和を築きたかったのだ
それが途方もない夢物語であっても諦め切れなかった
途方もないからこそ、実現は不可能だと戒め
世間を嫌い晴耕雨読の日々を過ごした
そんな彼の家の門を叩く一人の男が居た
風雪が道を阻んでも、若輩の自分を三度も訪ねてくる不思議な男
彼の家は、男の住む地から数日もかかる距離にある
一体、なにを考えているのか
訝る不信感が心にありながら
何処かその真心に惹かれる自分もいる
かくして彼は蛟龍と出会った
自分の才能をなんの偏見も無く敬うその人物は、自分よりも数十歳も年上でありながら、自分を高く評価してくれた
そして、心打たれたのは…
天下万民の嘆きを我がことのように涙する慈悲…
彼は自分を恥じた
その人物は晴耕雨読の時間もなく
ただひたすらに駆け抜けてきたのだ
己の瞳に映る悲劇を見過さなかったのだ
なんという潔癖な仁義
清廉高潔な精神であろうか
その男には実現の可否など眼中に無い
可否など、関係なかったのだ…
蛟龍が流す温かな慈悲の雫は
彼の冷酷な不信の氷を溶かした
それから彼は何度も献策した
彼は必死だった
その労苦を生かしてあげたかった
師君の理想を実現させたかった
彼は生命を賭して赤壁を動かし
荊州を護り抜いた
旧友が矢に倒れ、仁義が非難されても、西へ東へと駆けた
死力を尽くしても至らぬ自分を悔やんだ
床に臥した師君は自責で痩せこけて彼に願う
君よ。我が子が主に相応しくなければ、君が主となれ。
子よ。彼を師とし、彼を父と思い仕えよ。
反する子は不孝なり。
最後まで自分を信じてくれた師君は白帝城に眠り落ちた
生きている間にと駆けた彼は
深い悔恨の念に駆られながら、幼帝を支える
乱があれば南の熱帯雨林で病を恐れず駆けつけ
師君の仁を説き
異国の賊あれば北の極寒の地で風雪に身を置いて礼を説く
正義の東奔西走が弱き身体を更に弱め
仁徳の政治が身体を蝕んでも
師君を想えば眠ることも出来ない
不思議にも彼は齢五十余まで生きることができた
きっと彼の身は報恩で出来ていたのだろう
類は友を呼び、天才は天才を相手とする
北伐を敢行した先に三国随一の奇才を相手に苦悶しながら一進一退
されど、天は彼に味方せず
信実の忠臣が、誠の友が一人、また一人と矢に撃たれ病に倒れていった
孤独の闇が彼を包み込んでも、彼に恥はない
信じる人に仕えてからは
恩と正義のみに生きたからだ
彼の目の前にいる一人の青年は泣き止まない
そんなことで彼亡き後、国を護れるのか
厳しく正しても泣き続ける
師よ。師よ。必ずや師の理想を実現してみせます。
栄耀栄華は時が流れれば虚しく朽ち果てる
かつて暴虐の梟雄が都を焼いた様に
だが、時が流れても消えることなく受け継がれる志
『正義』
ずっと悔やみ続けた
ずっと己を許せなかった
嗚呼。師君よ。貴方もこのように私を想って眠られたのですね。
青年を信じ、感謝して彼は星空を見た
頼んだぞ、後継の青年よ
私は一足先に、この星空へと還ろう
彼は最後にもう一度、夜空を眺めながら強く確信した
天よ私は間違っていなかった
後を継ぐ青年たちこそ宝
我が生涯の誇りなり
永遠の平和は、いつか必ず築かれる
流星雨が空を満たすと同時に
彼は美空に還っていた
彼の名は諸葛亮孔明
正義に生きた真実の人
人間の心を、未来を信じた
千年に一人の英雄
彼の志は大陸を越えて
二千年の長い時を経ても輝きを増し
今も世界中に受け継がれている