岡野と秋月
岡野 未夜
誰よりも低い場所で、誰よりも高い空をみる
「あや、あっきぃ寝てるや」
岡野が裏庭の木陰で見慣れた後姿を見つけてぴょこんと顔を覗き込むと、秋月はすうすうと小さな寝息を立てていた。
「珍しいねぇ」
ちょこんと横に座り込んで、岡野はふむと空を仰いだ。
「岡野さん、ちょっといいかしら?」
唐突に呼び止められて、岡野は僅かに目を細める。
それからふっと表情を緩めるとニコリと笑って声の主を振り返った。
「なんですか?岸本せんせ」
「貴女が駅前でバイトをしているのを見たという生徒がいるんだけれど」
またその話か、と岡野は内心の呆れを見せずに笑顔を崩さずに口を開く。
「えぇと、せんせ。岡野、許可貰ってるので」
「許可を貰っているからと言って、大々的にやっても良いわけではないのよ」
ぴしゃりとした物言いに思わず肩を竦めると、苦々しげな視線が降ってきた。
「むしろ特例であることをもっとよく認識して、謙虚さを持った…」
往来とも言える廊下で、良く通る声は生徒の興味を引き寄せる。
適当に着崩した制服に、癖のあるツインテールの茶色の髪は、固いくらいに髪を束ねた地味なパンツスーツの岸本先生とは対比的だ。
「聞いているの、岡野さんッ」
「え、はい」
そんな考え事は不真面目に見えたようで、余計に岸本先生の機嫌を損ねたらしい。
降りやまない言葉の雨と好奇な視線。
待っていればいずれは収まることは解っている。
それでも流石に頭の上から押さえつけられるような態度に、岡野は零れそうになるため息を飲み込んだ。
例えこちらに非がなくとも、こういう先生は厄介だ。
自分が正しいと思い込んで、生徒に反論されることを好まない。
折角与えられている許可を取り上げられるのは、岡野にとって非常に困るのだ。
「全く。どうして貴女にそんな許可が出るのか、信じられ」
「個人的な事情をこんな場所でひけらかす貴女に言われるのは心外だと思うが?」
滑り込むように静かに届いた言葉に、岡野は驚いて顔をあげた。
「秋月さん?」
それは、奇妙な時期にやってきた転校生。
「廊下というのは、人が行きかうためにある。こんな所で立ち止まっているのは迷惑だと解らないのか?」
口を挟まれることを想定していなかったらしい岸本先生も、呆気にとられたように彼女を見て、それからさっと顔に朱を上らせた。
「なっ! 先生に向かってその態度はなんですか!」
「先ず生まれた、と言うだけで言動がすべて正しいと思っているような人間なら、尊敬するには値しないだろう」
それだけ言ってさっさと間を通り抜けた秋月に、先生は口をぱくぱくさせていたが、はっとして声を上げる。
「待ちなさい! クラスと名前を言いなさい! 担任の先生に」
「岸本先生。担任は私ですよ」
おっとりとした声がかかって、いつの間に其処にいたのか担任の羽野先生がにこりと笑った。
「羽野先生! 貴女のクラスですか!?」
「ええ、聞いていました。秋月には後で私から話しておきます」
「秋月?」
「えぇ。転校してきたばかりなので、まだ緊張しているんだと思いますよ」
「何を云っているんですか! 問題児ですよ! 全く、先生はお若いから、なめられて」
「お言葉ですが」
ひやりと羽野先生の言葉の温度が下がる。
「岸本先生は、岡野を叱っていたようですが、どんな理由ですか?」
「え? それは、この子がアルバイトを」
「こんな所で、ですか? 岡野の家庭事情をご存じの上で、他の生徒に聞こえるところで叱っておられたのですか?」
ぽんと頭の上に乗った手に顔を上げると、羽野先生はこちらに顔を向けないまま岸本先生を軽く睨んだ。
「家庭事情? 私はただ、」
「詳しいことをご存じないのに、表面上だけで人を判断する。それが教師の仕事だとおっしゃるわけですか?」
「なっ」
「失礼ですが、岡野の事は担任の私が把握しています。岸本先生に口を出されるようなことはありませんので、今後一切その件で岡野を叱るのは止めてください。では、昼休みも終わるので」
羽野先生に促されその場を離れて廊下の端から振り返ると、調度岸本先生が不機嫌に教室に消えるところだった。
「岡野、やる」
教室に入るなり差し出されたロリポップに顔を上げると、妙な顔をした猪村が立っていた。
「ありがと。何?」
「悪かったな、助け舟出せなくて」
猪村は、岡野が人手の足りない離婚した母親の美容院で働いていることを知っている。
「別に良いよ。岡野が原因で猪村まで岸本せんせに目つけられたら嫌だもん」
「にしても、羽野先生もよく言ったよな」
「それより、猪村。秋月さんは?」
「次、物理だろ? どっか行ったよ」
転校してきて一番初めの授業の途中で出ていったきり、秋月は物理の時間だけは出ることがない。
「そっか。ありがと」
「おい、授業始まるぞ?」
「大丈夫。すぐ戻るよ」
廊下を走りながら、貰ったばかりのロリポップの包みを剥がして口に入れる。
マンゴー味のそれは、とても甘かった。
「岡野?」
思考に滑り込んできた声に、岡野は目を瞬かせて視線を戻した。
いつの間に起きたのか、訝しげな秋月と目が合う。
「あ、あっきぃ。おはよー」
「もう昼過ぎだ」
「起きたばっかりは、おはよーで良くない?」
僅かに眉を顰めた秋月は、けれど何の反論もしないで立ち上がった。
「授業に遅れる」
「次、物理じゃないもんね」
「数学も退屈だがな」
素っ気なく呟いて歩き出す秋月の横に並んで、岡野は少し高い位置にある秋月の顔を見上げる。
「ねぇ、あっきぃ。ありがと」
「何の話だか分からない」
「解んなくていいよ」
高い空に視線を移して、岡野はにこりと笑った。