名倉と秋月
名倉 宗
此処にいるのに、何処かにいる
「名倉君って何考えてるのかわかんない」
「名倉、何処見てるの?」
勝手に近づいてきて、勝手に離れていく存在は、心には何も残さないで、表面を風が撫ぜるように通り過ぎていった。
けれど
「そうか。見てみたいな」
あの時、秋月が呟いた言葉が、今も名倉を捉えて離さない。
夕闇がそろりと触手を伸ばして、世界から音を全て飲み込んでいくようだった。
人工的な灯りのない教室には、窓からの茜色に染まった机にうつ伏せる秋月だけ。
零れる穏やかな寝息に、名倉は僅かに目を細めた。
癖のない長い黒髪が、風に流れて床に細い影を落とす。
どうして、人は「綺麗」だと思うのだろう。
どうして、人は繋ぎとめておけないものほど「愛しい」と思うのだろう。
名倉にはずっと解らないことがあった。
言葉よりも雄弁に、物語る瞳が、感覚があるのに、どうして人は言葉を多用するのだろうか、と。
何も入っていない、空っぽの言葉の群れ。
入れ物であるからこそ、中身のない言葉は驚くほど滑稽で。
名倉から、言葉や想いを取り除くには十分だった。
けれど。
あの時唐突に、あふれた言葉の渦に、名倉自身驚いた。
入れ物に入りきらないほどの何かがあることを、初めて知った。
繋ぎとめておけない一瞬を、必死に絡め取ろうとすること。
それが想いなのだと、そう気づいた。
「……名倉」
どうしている―消えかけた茜を目で追っていた名倉の耳に、唐突に声が届いた。
「よ、秋月」
「何か用か」
「もう済んだ」
「そうか」
興味もなさそうに紡がれて、名倉は小さく苦笑する。
「秋月」
「なんだ」
「秋月」
「用がないなら呼ぶな」
うんざりしたように首を振って、椅子から立ち上がった秋月の腕を掴むと、揺らがない強い瞳が名倉を捕らえた。
「離せ」
「嫌だって云ったら」
紡いでからはっとする。
「なんだ?」
「らしくない、な」
ぱっと手を離して、名倉は肩を竦めて小さく笑った。
「秋月といると、どんどん」
「人のせいにするな」
元々そんななんだろ―腕組みをして、きっぱりと云ってのける秋月はブレもなくて、名倉は目を細める。
「猫が暖かすぎたんじゃないのか」
「そうかもな」
猫を被っているつもりはなかった。
けれども、確かに一線を引いていたんだと思う。
誰かが見るものを、見てみたいと思ったこともなかった。
「秋月の見てるものが、見たい」
「なんだそれは。鏡でもみればいいだろ」
馬鹿馬鹿しいというように紡がれた捨て台詞に、不覚にも名倉は立ち尽くす。
さっさと教室を出て行く秋月を見送るともなく見送って、名倉は手で視界を覆うとどさりと机に寄りかかった。
「ふふ。はは」
零れ落ちる笑いは、自分でも止められない。
「もう駄目だな」
逃げられない。
一度魅了されてしまったら、目を逸らすのは無理だ。
目が潰れると知っても、太陽に焦がれる土竜のように。
誰もいない教室で、名倉は一人その目を細めた。