猪村と秋月
猪村顕人
ただまっすぐに、いつだって全力で
クラスメイトと話していた猪村は、長い黒髪の後姿を見つけて窓から身を乗り出す。
「秋月ッおはよー」
うろんげに振り向いた少女にぶんぶんと手を振れば、彼女は気づいて肩を竦めた。
「え。猪村って、あいつと仲いいの?」
特に手を振り返す事もなく去っていく少女を見送りながら、驚いたようなクラスメイトの声に振り向く。
「秋月のこと?」
「なんか近寄りがたいし、怖くね?」
笑わないし、云うことひでぇって聞くし―まだ何か云いかけるクラスメイトの口に思い切りロリポップを突っ込んで、猪村はにこりと笑った。
「それ以上云うなら、手ぇ出す」
以前の猪村なら、多分宣言する前に切れていただろう。
でも今は、言葉にすることを知っている。秋月に出会って、言葉にしたいことも知った。
「な、なんだよ。猪村ぁ」
情けない声で抗議するクラスメイトに肩を竦めて、猪村は自分のロリポップを口にしたまま立ち上がる。
「別にお前が秋月と仲良くしようが、しまいがどうでもいいけどな。聞いただけの言葉で、秋月を否定すんな」
「わ、悪かったよ」
しゅんとしたクラスメイトの肩を叩いて、猪村は教室を出た。
「秋月ッ」
「何か用か」
屋上とは別の、時計台にだけ繋がる階段にいつものように腰かけていた秋月が広げた本から顔を上げた。
「サボりすぎ」
「お前に迷惑を掛けた覚えはない」
しらっと云ってのけて、秋月はまた本に視線を落とす。
それに小さく笑って、猪村は同じ段まで上がると、壁に背中を預けて座り込んだ。
「俺もサボりたくなるじゃん」
「私の知ったことか」
そっけない言葉に、初めて言葉を交わした日を思い出して、猪村はまた小さく笑った。
階段につきそうな長い髪を掬い上げると、秋月はうっとうしそうに視線を上げる。
「触るな」
「ごめん、ごめん」
何事もなかったかのように本に視線を落とした秋月の横顔を眺めながら、猪村はあの日を思い出す。
「ね。猪村、転校生が来るんだって」
「転校生?」
「そう。女の子」
くるくると表情が良く変わる岡野の言葉に、猪村は大げさに眉を顰めた。
「何で、この時期?」
季節は6月。
梅雨に掛かりそうな低く重い空模様。
「知らないよ。岡野は聞いただけだもん」
どんな子かな―トレードマークのツインテールをぴょこぴょこと動かして、岡野は窓から身を乗り出す。
「落ちるなよ」
「落ちない落ちない。あ、あの子かな」
そう云った岡野の指先を追って、猪村は彼女と目が合った。
吸い込まれそうなほど深く、目が離せなくなるほど強い色。
「こんにちは。秋月さん?岡野だよ。こっちは猪村」
「あ、よろしく」
反射的に差し出した手に一瞥をくれて、彼女―秋月はふんと鼻を鳴らした。
「よろしくしなくていい」
「え?あれ?」
「生憎、人間的興味を覚えるかは未定だ」
初対面でしらっと云ってのけて、秋月は猪村の所謂”人間的興味”を一瞬で掻っ攫ったのだ。
「秋月」
「用がないなら呼ぶな」
「好きだよ」
「知ってる。人としてな」
時折、どうしようもなく言葉にしたい瞬間があって、けれど本から顔を上げない秋月にだから告げられる言葉なのだと、猪村自身良く解っている。
「猪村」
「あ、え、何?」
唐突に名前を呼ばれたことにうろたえると、顔を上げた秋月と目が合った。
「今度は何だ」
「え?」
「自覚しろ。意味もなく纏わりついてくる理由をな」
うざったくて敵わん―ふんと鼻を鳴らした秋月に、猪村は驚いて、それから肩を竦めて苦笑する。
「すごいね、秋月」
本当に惚れちゃいそうだ―聞こえないように呟いて、猪村はポケットの中のロリポップの包み紙を握りつぶした。
【猪村と秋月】