悪役令嬢は断罪の夜に笑う
「セレスティア・ヴァルフォード。君との婚約を、ここに破棄する」
その言葉が響いた瞬間、王立学院の大広間から音が消えた。
つい先ほどまで奏でられていた弦楽器の余韻だけが、金箔に彩られた高い天井の下を頼りなく漂っている。磨き上げられた床には無数の燭台の明かりが映り込み、華やかな礼装に身を包んだ若者たちの影を細長く引き伸ばしていた。
卒業祝賀会は、本来ならば彼らの門出を祝う夜だった。
長い学院生活を終え、貴族社会へ正式に踏み出す者たちが未来を語り合う場所である。にもかかわらず、今、この広間にいる誰一人として自分の未来を考えてはいなかった。
すべての視線が一人の令嬢へ注がれていた。
公爵令嬢セレスティア・ヴァルフォード。
黒曜石を思わせる髪は乱れ一つなく結い上げられ、細い首筋を飾るのは、王家から贈られた紫水晶の首飾りだった。身にまとっているのは、王妃候補として最後の祝賀会に臨むため仕立てられた漆黒のドレスである。
黒という色を選んだのは、アルベルトだった。
華美な色を好まぬ自分にふさわしい婚約者であれと、彼が命じたからだ。
けれど今となっては、その黒はまるで王子との関係を弔う喪服のようだった。
セレスティアは壇上のアルベルトを見上げた。
第一王子は黄金色の髪を誇らしげにかき上げ、その腕で桃色の髪の少女を守るように抱いている。男爵令嬢リリア・モートンは純白のドレスに身を包み、恐怖に震えているかのように王子の胸元へ寄り添っていた。
白いドレスの裾が、かすかに揺れている。
けれどセレスティアには分かっていた。
リリアは怯えているのではない。
昂揚しているのだ。
待ち望んだ瞬間が訪れた喜びを、懸命に押し隠している。
「君は嫉妬に狂い、リリアに数々の嫌がらせを行った」
アルベルトの声には、自らを正義の執行者と信じて疑わない者の響きがあった。
「彼女の教科書を隠し、女生徒たちを使って孤立させ、階段から突き落とした。最後には紅茶へ毒を入れ、命まで奪おうとした。そのような卑劣な女を、未来の王妃とすることはできない」
広間にざわめきが広がった。
今夜ここで何かが起こると知っていた者もいたのだろう。驚愕を浮かべながらも、どこか期待をにじませている顔がいくつか見えた。
セレスティアが怒鳴り散らすのを待っているのだ。
高慢な公爵令嬢が化けの皮を剥がされ、泣き叫びながら連れ出される。そんな見世物を期待している。
だからセレスティアは、背筋を伸ばした。
扇を閉じる音が、静まり返った広間へ小さく響いた。
「これが殿下のお選びになった方法なのですね」
責めたつもりはなかった。
それなのにアルベルトの顔が険しくなった。
「何が言いたい」
「卒業祝賀会で、証拠も示さず、わたくしを罪人と決めつける。それが殿下の考える正義なのかと、確認しただけでございます」
「まだ白を切るつもりか」
「白を切るも何も、身に覚えのない罪を認めることはできません」
「リリアが嘘をついているとでも言うのか!」
アルベルトの腕に力がこもった。リリアが苦しそうに身じろぎしたが、彼は気づかなかった。
これまでずっとそうだった、とセレスティアは思う。
アルベルトは、自分が守りたいと思ったものを強く抱き締める。相手が苦しんでいることには気づかない。必要なのは守っているという満足感であって、その相手の意思ではない。
かつて、その腕の中にいたのはセレスティアだった。
八歳のころ、王宮の庭で初めて会った少年は、今のように自信に満ちてはいなかった。王になるのが怖いのだと、木の上で膝を抱えていた。教師たちは難しいことばかり言い、父は自分を褒めてくれないのだと、涙をこらえながら打ち明けた。
セレスティアは彼の隣に座り、幼いなりに懸命に考えた。
そして約束した。
一人で王になる必要はありません。わたくしが隣におります、と。
それから十年、彼女はその約束を守り続けた。
国法を学んだ。経済を学んだ。歴史と外交を学び、外国語を身につけ、飢饉の年には食料価格の推移を夜通し計算した。
十二歳のころから、眠る時間は一日五時間ほどしかなかった。
礼法教師に指先の角度を叱られ、舞踏教師に足から血が出るまで踊らされた。感情を表へ出せば王妃にふさわしくないと言われ、笑いすぎれば軽薄だと評された。
アルベルトが授業を抜け出せば、セレスティアが講義の内容をまとめた。彼が外交使節の名を忘れれば、会話の中で相手の名を呼んで助け舟を出した。彼が会議で不用意な発言をすれば、誤解を解くために各家へ手紙を書いた。
けれどアルベルトは、一度として彼女に礼を言わなかった。
むしろ、失敗を知っているセレスティアを疎むようになった。
彼女が失敗を補うたび、自分の無能を見せつけられていると思ったのだろう。
そこへ現れたのがリリアだった。
リリアはアルベルトが何を言っても瞳を輝かせた。少しくらい間違っていても、王子様は素晴らしいと褒めたたえた。
セレスティアが国家予算について語る間、アルベルトは退屈そうにあくびをした。けれどリリアが恋の物語について話すとき、彼は何時間でも耳を傾けた。
それでもセレスティアは耐えた。
愛していたからではない。
未来の王妃には、感情より責任が求められると教えられてきたからだ。
「わたしは、セレスティア様を責めたいわけではないんです」
リリアが震える声を上げた。
潤んだ碧い瞳が、広間に集まった者たちの庇護欲を巧みに誘う。
「ただ、アルベルト様をお慕いする気持ちだけは、どうしても偽れなくて」
セレスティアは静かに彼女を見た。
「では、偽らなければよろしいでしょう」
予想外の返答だったのか、リリアが目を瞬かせる。
「殿下をお慕いすること自体は、罪ではございません。感情は他人が命じて変えられるものではありませんから」
「それなら、わたしとアルベルト様のことを認めてくださるのですか」
その声には、ほんの少しだけ喜びが混じっていた。
セレスティアは首を横へ振った。
「殿下には婚約者がおりました。あなたもそれをご存じだったはずです。お気持ちを抱くことと、その気持ちを理由に他者との契約を踏みにじることは、まったく別の問題です」
「契約、ですか」
リリアの顔に失望が浮かんだ。
「セレスティア様はいつもそうです。愛よりも、契約や義務のことばかり。だからアルベルト様は苦しんでいたんです」
アルベルトが深くうなずいた。
セレスティアは、胸の奥に細い針が刺さるのを感じた。
彼女が王妃教育を受けていた間、アルベルトはリリアと劇場へ行っていた。
彼女が北部の治水計画を修正していた夜、二人は王都の丘から星を眺めていた。
それでも彼らは、セレスティアには愛が分からないと言う。
自分たちは何も背負わずに愛を語り、背負ってきた彼女を冷たいと責める。
「殿下」
セレスティアはアルベルトへ視線を戻した。
「わたくしがリリア様の教科書を隠したという証拠を、お示しいただけますか」
「彼女の証言がある」
「目撃したのですか」
リリアが小さく息を呑んだ。
「直接は見ていません。でも、セレスティア様に呼び出されたあと、教科書がなくなっていたんです」
「なるほど。教科書はどこで発見されたのでしょう」
「女子寮の物置です」
「わたくしは女子寮へ入ることを禁じられております」
今度はアルベルトが言葉に詰まった。
王族の婚約者は誘拐や暗殺を防ぐため、学院でも王家の管理する離れに居住する。一般寮への立ち入りには学院長の許可が必要で、出入りの記録も残される。
「誰かを使ったに違いない」
アルベルトが吐き捨てた。
「誰を使ったのでしょう」
「君を恐れる女生徒の誰かだ」
「その方のお名前は?」
「それは調査すれば分かる」
セレスティアはわずかに目を伏せた。
調査をしてから裁くのではない。最初に自分を罪人と決め、その後で都合のよい証拠を探そうというのだ。
「では、階段から突き落とした件についてはいかがですか」
「三月十二日の放課後、西校舎の時計塔で突き落とされました」
リリアは今度こそ確信を持って答えた。
「振り返ったとき、階段の上にセレスティア様が立っていたんです」
「時刻は?」
「午後四時ごろです。忘れるはずがありません」
そのとき、大広間の扉が開いた。
冷たい夜気が流れ込み、燭台の炎が一斉に揺れた。
「その証言に、間違いはございませんな」
低くよく通る声とともに、オズワルド・ヴァルフォード公爵が入ってきた。
セレスティアの父であり、この国の宰相でもある。白髪の混じり始めた黒髪を後ろへなでつけ、濃紺の礼服に身を包んでいる。
その顔に娘を案じる父親の感情はなかった。
あるのは、王国の法を預かる宰相の厳格さだけだった。
「ヴァルフォード公爵、ちょうどよい」
アルベルトが勝ち誇ったように言った。
「貴公の娘が行った悪事について、正式に説明を求める」
「そのために参上いたしました」
オズワルドが指を上げると、後ろに控えていた文官が国璽の押された書状を開いた。
「国王陛下より、本件についての調査権限を与えられております」
王の名を聞き、広間の空気が変わった。
学生同士の醜聞として楽しんでいた者たちも、これが国家を揺るがしかねない事態だとようやく理解したらしい。
「まず確認いたします」
オズワルドはリリアを見た。
「三月十二日、午後四時ごろ。あなたは西校舎の階段から突き落とされ、その上に立つ娘を見た。間違いございませんか」
「ございません」
「娘の顔を確かに見たのですな」
「はい」
「それはあり得ません」
オズワルドの声は静かだった。
「その時刻、セレスティアは王宮におりました」
リリアの顔から血の気が引いた。
文官が会議記録を掲げる。
その日、王宮では北方三国との関税協議が行われていた。会議の開始は午後二時、終了は午後六時十八分。セレスティアの発言も一言一句記録され、国王、外務卿、財務卿を含む二十二名が同席していた。
「そんなはずはありません」
リリアは何度も首を横へ振った。
「わたしは見たんです。本当に、セレスティア様が」
「では、王と大臣たちがそろって虚偽を述べていると?」
公爵の問いに、リリアは口を閉ざした。
「なぜセレスティアが外交会議に出ている!」
アルベルトの叫びが静寂を破った。
「学院の生徒にすぎない者を、王国間の会議へ参加させるなど聞いたことがない!」
「殿下の代理でございます」
「私の?」
「殿下にも招集状が届いていたはずですが」
アルベルトは一瞬、目を泳がせた。
あの日、彼は頭痛を理由に欠席していた。その後、王都東区の菓子店でリリアと過ごしていたことまで記録されていた。
セレスティアは何も言わなかった。
アルベルトが甘い菓子を食べて笑っていたころ、彼女は七時間にわたる会議で発言を続けた。王国の小麦農家を守りながら、北方から鉄を安く輸入するための妥協点を探していた。
あの夜、屋敷へ戻った彼女は疲労のあまり靴を脱ぐ力さえ残っていなかった。
侍女の肩を借りて寝台へ向かいながら、それでも翌朝の王妃教育に必要な資料へ目を通した。
アルベルトの代わりに出席したことを、彼は今まで知らなかった。
知ろうともしなかったのだ。
「階段の件は、何かの見間違いだったのだろう」
追い詰められたアルベルトは、乱暴に話を切り替えた。
「だが、毒殺未遂は違う。リリアの紅茶から、間違いなく毒が検出された」
側近のジェラルドが、小さな銀の容器を運んできた。
表面には王子府の紋章が刻まれている。
「宮廷薬師に調べさせた。ここに入っているのが、紅茶から抽出された毒だ」
「調べた薬師はどなたですかな」
オズワルドの問いに、広間の隅から若い薬師が進み出た。
ベルナルドはひどく青ざめていた。額には汗がにじみ、重ねた両手は絶え間なく震えている。
「証言せよ」
アルベルトが命じた。
「リリアの紅茶から毒を検出したとな」
ベルナルドは唇を開いた。
声にならない息を漏らし、助けを求めるように周囲を見る。やがて彼は目を固く閉じた。
「毒は、ありました」
アルベルトの口元に笑みが浮かぶ。
「聞いたか!」
「ですが、紅茶から検出したものではございません」
笑みが消えた。
「何を言っている」
「私は、すでに空になった茶器を渡されました。毒を塗り、それが紅茶から検出されたと報告するよう命じられたのです」
ベルナルドは懐から折り畳まれた書状を取り出した。
命令書にはジェラルドの署名と、王子府の印章が押されていた。拒めば、病床にある母親を王立施療院から追い出すと脅されたことも書かれていた。
「偽造だ!」
ジェラルドが叫んだ。
「その男が嘘をついている!」
「署名の鑑定は済んでおります」
オズワルドが答える。
「王子府の印章についても、本物であることが確認されました」
ジェラルドは後ずさった。
広間の壁へ背中がぶつかる。
「私は、殿下に命じられただけです」
彼の口から、かすれた声が漏れた。
アルベルトの顔が引きつる。
「私がいつ命じた」
「リリア嬢を害した者がセレスティア嬢であると証明しろ、と」
「毒を使えとは言っていない!」
アルベルトが叫んだ瞬間、自らの失言に気づいた。
つまり彼は真実を調べるよう命じたのではない。
セレスティアが犯人であるという結論を作れと命じたのだ。
広間中の視線が、アルベルトへ集まった。
「違う」
隣でリリアが呟いた。
「こんなの、何かの間違いです」
「リリア様」
セレスティアが呼びかけると、彼女の肩が跳ねた。
「ベルナルド様がここにいることを、なぜそれほど驚かれたのですか」
「驚いてなんていません」
「先ほど、どうして彼がここにいるの、とおっしゃいましたね」
「言っていません!」
リリアの甲高い声が広間に響き渡る。
これまで保たれていた、か弱く純真な少女の仮面がわずかに剥がれた。
セレスティアは彼女を追及しなかった。
追い詰められた人間は、自ら綻びを広げる。急ぐ必要はない。
「たとえ毒の証拠に不備があったとしても、君がリリアを傷つけていた事実は変わらない」
アルベルトはなおも言い募った。
「君は彼女に身の程を知れと言ったそうだな」
「申し上げました」
思いがけずセレスティアが認めたため、アルベルトは勢いを取り戻した。
「やはり身分を理由に侮辱したのではないか!」
「あの日、リリア様は学院中央の噴水へ銀貨を投げ込もうとしていました」
セレスティアの脳裏に、春の日差しの下で輝く銀貨が浮かんだ。
リリアは恋がかなうおまじないだと言って笑っていた。
周囲の生徒たちも面白がっていた。
けれど、その噴水は隣国の先王が両国の友好を願って寄贈したものだった。以前にも硬貨が投げ込まれ、排水管が詰まったことがある。隣国の大使が訪問する直前だったため、当時の学院長は厳しい処分を受けていた。
セレスティアは事情を説明し、貴族として身の程に合った振る舞いをするよう注意した。
だがリリアがアルベルトへ伝えたのは、その最後の一言だけだった。
「そんなことを、リリアが知るはずがない」
アルベルトは当然のように言った。
「ですから、わたくしが説明したのです」
「もっと優しく教えることもできただろう!」
「ええ。できたかもしれません」
セレスティアは否定しなかった。
いつも時間に追われていた。
アルベルトが放棄した責務を引き受けるため、余裕を失っていた。
自分がもう少し柔らかく接していれば、無用な反感を招かなかったのかもしれない。
けれど、言葉が厳しかったことと、冤罪を着せられてよいことは別の話だ。
「わたくしの言い方に問題があったのであれば、それについては謝罪いたします。ですが、そのことが教科書を隠し、階段から突き落とし、毒を盛った証拠にはなりません」
アルベルトは何も答えられなかった。
それでも、リリアの手だけは離さなかった。
「私はリリアを愛している」
やがて彼は言った。
議論では勝てないと悟り、感情へ逃げ込むような声だった。
「彼女には、君にない優しさがある。温かさがある。王子としての私ではなく、一人の人間としての私を見てくれる。誰が何と言おうと、私は彼女を妃に迎える」
セレスティアは目の前の男を見つめた。
十年間、共に歩くはずだった人。
彼の顔立ちは、出会ったころの少年の面影を残している。
けれど、その内側にいる人間は、もうセレスティアの知っている少年ではなかった。
あるいは、最初から知ってなどいなかったのかもしれない。
彼女は幼い日の約束を守ることに必死で、アルベルトがどのような大人になったのかを直視しようとしなかった。
求められているのは自分の知識でも、努力でもない。
失敗を正当化し、心地よい言葉で包んでくれる存在なのだ。
ようやく、それを認めることができた。
不思議なほど心は静かだった。
悲しみは確かにあった。
だが涙は出なかった。
十年間抱え続けた重荷を下ろしてよいのだという安堵が、悲しみよりもはるかに大きかった。
「承知いたしました」
セレスティアは深く息を吸った。
「婚約破棄をお受けいたします」
アルベルトの目が見開かれた。
彼は拒絶されるとは考えていなかったのだろう。
セレスティアが泣いて縋り、婚約者の地位を守ろうと醜態をさらすことを期待していた。そうすれば、自分は彼女を振り切り、真実の愛を選んだ英雄になれる。
だがセレスティアがあっさり受け入れたことで、計画していた物語は根底から崩れた。
「本当にいいのか」
アルベルトの声には、かすかな苛立ちが混じっていた。
「婚約破棄を宣言なさったのは殿下です」
「後悔しても、私は知らないぞ」
「その心配はございません」
「強がるな!」
なぜ彼が怒っているのか、セレスティアには分からなかった。
望みどおり婚約がなくなるというのに、彼は勝利を奪われたような顔をしている。
「ただし、正式な手続きは行っていただきます」
「手続きだと?」
「王家とヴァルフォード家の婚約条約に従い、これまでに提供した資産をご返還ください」
「資産など、返してやる」
アルベルトは吐き捨てた。
「いくらだ」
「金貨二百四十万枚相当でございます」
誰かが手にしていた杯を落とした。
乾いた音が響き、赤い葡萄酒が床へ広がる。
けれど落とした本人さえ、それに気づいていなかった。
王国の年間税収のおよそ四分の一。
小国であれば、国家予算にも匹敵する金額だった。
「でたらめを言うな!」
アルベルトの顔が赤くなる。
「婚約一つに、そんな金が動くはずがない!」
「王都南区の再開発、西方街道の補修、北部の治水事業、王立学院の奨学金。飢饉の際に輸入した小麦の代金も含まれております」
「それは公爵家が勝手に援助したものだ!」
「婚姻後、王家と公爵家が一体となって国政を支えるという前提で提供した資産です。婚約が王家側の都合で解消された場合、すべて返還されると条約に明記されています」
オズワルドが契約書を差し出した。
そこには国王の署名と王家の印章があった。
アルベルトの指が震えていた。
彼は条約を読んだことがなかった。
十年前、婚約が結ばれたとき、まだ幼かったことは言い訳になる。だが成人後、王位継承者として契約内容を確認する機会はいくらでもあった。
セレスティアは十六歳のころには、すべての条文を暗記していた。
「そんな大金を取り立てたら、苦しむのは国民です」
リリアが涙ながらに訴えた。
「セレスティア様は、ご自分の誇りのために国民を苦しめるつもりなのですか」
言葉だけを聞けば、慈悲深い主張だった。
だがセレスティアは、彼女の胸元で輝く青玉へ目を向けた。
深い海の色を閉じ込めたような宝石である。
「その首飾りは、殿下から贈られたものですね」
リリアは反射的に青玉を手で覆った。
「これは、愛の証しとしていただいたものです」
「金貨八千枚相当でございます」
広間のあちらこちらで息を呑む音がした。
「ほかに東方絹のドレスが十二着、白狐の外套、純金の装飾を施した馬車、南部避暑地の別荘。殿下がこの一年間にリリア様とモートン男爵家へ贈った品は、確認できるだけで金貨四万七千枚に及びます」
「アルベルト様は、ご自分のお金で買ってくださったと」
「王子府の会計から支払われております」
「知らなかったんです」
リリアの声がかすれる。
「本当に、何も」
「そうでしょうね」
セレスティアが認めると、リリアは救いを見いだしたように顔を上げた。
「無知であれば、責任がないとお考えですか」
その表情が再び凍りついた。
「あなたは国民を心配しているとおっしゃいました。では、その青玉を買うための金が、どこから来たか考えたことはございますか」
「それは」
「北部の堤防補修費です」
リリアの指が、青玉から離れた。
昨年の豪雨で、北部を流れる大河の堤防には大きな亀裂が入った。
補修が一週間遅れれば、三つの町と二十七の村が水に沈む危険があった。ところが、王子府を通じて支給されるはずだった資金は届かなかった。
セレスティアが異変に気づいたのは偶然だった。
北部から送られてきた穀物価格の報告書に、不自然な数字があった。調べると、商人たちが洪水を予測し、小麦を買い占めていることが分かった。
彼女はその日のうちに父へ報告し、公爵家の資金を使って工事を開始させた。
もし見逃していれば、数万人が家を失っていた。
「モートン男爵家が購入した葡萄園の資金も、同じ予算から流れております」
オズワルドの合図で、分厚い帳簿が運び込まれた。
「王子府の不正支出、治水費の流用、宮廷薬師への脅迫、学院職員への贈賄。証拠はすべて保全しております」
「父は関係ありません!」
リリアが叫んだ。
「お父様は、わたしが幸せになることを願っていただけです!」
「そのためなら、北部の民が洪水におびえてもよいと?」
「そんなことは言っていません!」
「ですが、あなたのご家族は、その民を守る金で土地を買ったのです」
「知らなかったんです!」
その言葉が広間の中へ虚しく響いた。
知らなかった。
それは免罪符ではない。
リリアは、知ろうとしなかったのだ。
贈られた宝石がどれほど高価なのか。貧しい男爵家が、なぜ突然豊かになったのか。アルベルトが際限なく金を使える理由は何なのか。
彼女は真実の愛を語りながら、その愛を飾る富が誰の犠牲によって生まれたのかを考えなかった。
アルベルトも同じだった。
王子という立場がある限り、金も人も無限に湧いてくると信じていた。
「もうよい」
大広間の奥から声がした。
玉座の間へ続く扉が開き、国王レオニスが姿を現した。
人々が一斉に跪く。
アルベルトも膝をついたが、その顔は恐怖に引きつっていた。
国王は威厳ある礼装をまとっていたものの、その目には深い疲労が刻まれていた。
「隣室で、すべて聞いていた」
「父上」
「アルベルト。お前は本当に、セレスティア嬢との婚約を破棄するのだな」
アルベルトはリリアを見た。
リリアの碧い瞳が、縋るように彼を見返す。
しばしの沈黙のあと、彼は強くうなずいた。
「はい。私はリリアを愛しております」
「後悔はしないか」
「いたしません」
国王は目を閉じた。
息子との思い出を振り払うような、長い沈黙だった。
やがて目を開いたとき、その顔から父親の甘さは消えていた。
「婚約破棄を認める」
アルベルトの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「同時に、お前の王位継承権を停止する」
笑みが消えた。
「王子府を解散し、すべての支出について監査を行う。関係者は調査が終わるまで自宅謹慎とする」
「なぜですか!」
アルベルトが立ち上がった。
「私は真実の愛を選んだだけです!」
「愛を選んだことを罰するのではない!」
国王の怒声が、燭台の炎を震わせた。
「国家の契約内容も知らず、国庫の金を愛人とその家族へ流し、偽りの証拠によって罪のない者を断罪しようとした。その判断力と倫理観をもって、どうして王位を任せられる!」
「リリアは愛人ではありません。私の妃です!」
「ならば結婚すればよい」
アルベルトが息を止めた。
「王位を継がぬ一人の男として、モートン男爵令嬢と暮らすがよい。王室からの援助は行わぬ。屋敷も領地も、自らの力で得よ」
「お待ちください!」
リリアが立ち上がった。
「アルベルト様は王になる方です。わたしは王妃として、アルベルト様を支え、この国の皆を幸せにするために」
言葉の途中で、自らの過ちに気づいたらしい。
けれど遅かった。
アルベルトが、初めてリリアの手を離した。
「王になれない私では、駄目なのか」
「違います」
「ならば、なぜ王妃の話をする」
「急なことで混乱しているだけです」
「王位を失っても、私を愛しているのだろう?」
問いかける声は、断罪を宣言した王子のものではなかった。
愛されている自信を失い、返事におびえる一人の青年の声だった。
リリアはすぐに答えられなかった。
彼女の視線が、アルベルトの豪華な礼服へ落ちる。次に国王を見て、周囲の貴族たちを見渡す。
王子でなくなったアルベルト。
宝石を買えず、別荘を贈れず、未来の王妃という地位を与えてくれないアルベルト。
「もちろん、愛しています」
ようやく返された言葉には、もう何の熱もなかった。
アルベルトの顔が歪んだ。
その瞬間、彼の中でも何かが壊れたのだろう。
真実の愛という美しい物語の薄皮が剥がれ、その下にあった欲望と虚栄が露わになった。
国王は二人から目を逸らした。
「オズワルド。返還金については、王家の私有財産を売却して支払う。国民に負担を求めぬよう、可能な限りの手を尽くす」
「ご英断に感謝申し上げます」
「セレスティア嬢」
国王に名を呼ばれ、セレスティアは頭を下げた。
「王家を代表して謝罪する。君が十年にわたり果たしてきた献身へ、我々はあまりにも甘えていた」
国王が臣下の令嬢へ頭を下げた。
広間にいる誰もが驚いていた。
けれどセレスティアは、勝ち誇ることができなかった。
待ち望んでいた謝罪だったはずなのに、胸に浮かんだのは喜びではなく、深い疲労だった。
十年は戻らない。
血をにじませながら覚えた舞踏も、眠気をこらえて読み込んだ法律書も、アルベルトのために費やした無数の夜も、なかったことにはできない。
それでも、その時間が無意味だったとは思わなかった。
身につけた知識は、誰にも奪えない。
努力によって鍛えられた心も、今の彼女を支えている。
アルベルトの妃になるために始めた学びだった。
けれど、それを何に使うかは、これから自分で決められる。
「陛下」
セレスティアは静かに微笑んだ。
「一つだけ、確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「わたくしは本日をもって、王子妃教育から解放されたものと考えてよろしいのですね」
国王は目を瞬かせた。
「もちろんだ」
「では、明日の朝は遅くまで眠ることにいたします」
一瞬の静寂のあと、国王の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「そうするとよい。今まで休ませてやれなかったことも謝ろう」
「本当にそうですわ」
セレスティアは礼をした。
父が隣へ並ぶ。
出口へ歩き始めると、集まった人々が自然に道を開けた。
何人かは尊敬の眼差しを向けていた。先ほどまでリリアへ同情していた者は、気まずそうに顔を伏せている。
セレスティアはそのどちらにも応えなかった。
扉はすぐそこにある。
そこを越えれば、十年間彼女を縛っていた王妃候補という役目が終わる。
「待て、セレスティア」
アルベルトに呼び止められ、彼女は足を止めた。
「君は、本当にそれでいいのか」
何を尋ねたいのだろう。
王妃になれなくてもよいのか。
自分を失っても後悔しないのか。
それとも、十年を共にした男を、こんなにも簡単に置いていけるのか。
セレスティアは振り返った。
壇上にいるアルベルトは、急に小さく見えた。
王位継承権も、華々しい未来も失い、隣には彼の地位を愛していたかもしれない少女だけがいる。
かわいそうだとは思わなかった。
彼は自分で選んだのだ。
証拠を見ようとせず、忠告に耳を貸さず、責任より心地よさを選び続けた。
その結果を引き受けるのは、彼自身でなければならない。
「殿下は、ご自分がわたくしをお捨てになったとお考えなのでしょうね」
「違うとでも言うのか」
「ええ」
セレスティアの口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
それは、罪を暴かれた悪役令嬢の笑みではない。
長いあいだ閉ざされていた扉を、自らの手で開いた者の笑みだった。
「捨てられたのは、殿下のほうですわ」
広間を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
王都の空には雲一つなく、星々が鋭く輝いている。
セレスティアは大きく息を吸った。
胸を満たした空気は冷たかったが、不思議なほど甘く感じられた。
「泣かないのだな」
隣を歩く父が言った。
「泣いてほしいのですか」
「いや。ただ、十年は長い」
「ええ。長すぎました」
声にした途端、胸の奥へ押し込めていたものが少しだけ揺れた。
悲しくないわけではない。
アルベルトが自分の努力を理解してくれる日を、心のどこかで待ち続けていた。いつか幼い日のように笑い合えると、愚かにも信じていた。
その未来は、もう来ない。
けれど、来るはずのない未来へ人生を捧げ続ける必要もなくなった。
馬車へ乗り込む直前、オズワルドが懐から一通の封書を取り出した。
濃紺の封蝋には、翼を広げた銀の竜が刻まれている。
北方の大国、エルグレン帝国の紋章だった。
「これは?」
「皇太子殿下から、お前宛てだ」
「わたくしに?」
「北方関税協議で、お前が提出した政策案を高く評価しているらしい。正式な使節として帝国へ来てほしいと書かれている」
セレスティアは封書を見つめた。
王妃候補であった彼女には、国外へ自由に出ることが許されていなかった。結婚後も王宮にとどまり、アルベルトを支える人生が待っているはずだった。
けれど、今は違う。
どこへ行くか。
何を学ぶか。
誰の隣に立つか。
すべて自分で選ぶことができる。
「お父様」
「何だ」
「帝国は、寒いでしょうか」
「王都よりは、ずっとな」
「では、新しい外套が必要ですわね」
父が小さく笑った。
公爵家の馬車が動き始める。
窓の外へ流れていく王宮の明かりを見つめながら、セレスティアは首元の紫水晶へ手をかけた。
王家から贈られた、婚約者の証し。
留め金を外すと、それまで気づかなかった重みから首が解放された。
紫水晶を柔らかな布へ包み、座席の隅に置く。
明日、王家へ返せばよい。
代わりに何を身につけるかは、まだ決めていない。
何もつけなくてもよかった。
空いた首元へ夜気が触れる。
セレスティアは窓を少し開き、遠ざかる王宮を見た。
今ごろ広間では、アルベルトとリリアが互いを責めているだろう。王子府の者たちは保身のために証言を始め、モートン男爵家にも調査官が向かっている。
リリアが仕掛けた数々の虚偽は、やがてすべて明らかになる。
教科書を隠したのは彼女自身だった。階段から落ちたのも、誰もいないところで自ら足を滑らせただけだった。毒殺未遂を作り上げたのは、セレスティアを排除すれば王子妃になれると唆した父親と、功績を欲しがったジェラルドだった。
彼らは裁かれる。
けれどセレスティアは、もうその結末だけを待って生きるつもりはなかった。
彼女の人生は、誰かが不幸になることで完成するものではない。
自分を陥れた者が転落していく姿を眺めるだけでは、奪われた十年を取り戻すことなどできない。
必要なのは前へ進むことだった。
自分の知識を、自分が守りたいと思う者のために使うこと。
自分の心を、自分が愛したいと思う者へ差し出すこと。
誰かに決められた役割ではなく、自ら選んだ人生を生きること。
婚約を破棄されたあの瞬間、人々はセレスティアがすべてを失ったと思っただろう。
王子の愛。
未来の王妃という地位。
十年を費やして準備してきた人生。
けれど本当は逆だった。
あの夜、すべてを失ったのはアルベルトだった。
自分の過ちを正してくれる者を失った。
無条件に王国を支えてくれた公爵家を失った。
そして何より、何度裏切られても最後まで責務を果たそうとした、最も誠実な婚約者を失った。
セレスティアが失ったのは、彼女を幸福にすることのない未来だけだった。
夜明け前、公爵邸に着いたセレスティアは侍女の手を借りず、自分でドレスを脱いだ。
王妃候補として立つために作られた黒いドレスは、床へ落ちると驚くほど小さく見えた。
彼女は窓辺へ立つ。
東の空が、わずかに白み始めている。
長い夜が終わろうとしていた。
明日は遅くまで眠ると言ったけれど、今はまだ眠りたくなかった。
帝国から届いた封書を開き、異国の皇太子が記した文字を読む。
そこには彼女を誰かの婚約者として扱う言葉はなかった。公爵令嬢として機嫌を取ろうとする美辞麗句もなかった。
必要としているのは、セレスティアの知識と意見である。
ただ、それだけが書かれていた。
読み終えた彼女は、封書を胸元へ抱いた。
窓の向こうから朝日が差し込み、部屋を黄金色に染めていく。
王宮の大広間で、アルベルトは彼女を悪役令嬢と呼んだ。
ならば、それでもかまわない。
都合のよい言葉だけを並べず、間違いを間違いだと告げる者が悪役ならば、喜んでそう呼ばれよう。
けれど、彼女の物語は断罪された夜では終わらない。
王子に愛されなかった令嬢としても、王妃になれなかった女としても終わらない。
セレスティア・ヴァルフォードは、これから自分自身の名で生きていく。
誰かのための脇役ではなく。
誰かにとっての悪役でもなく。
自らの人生を選び取る、一人の人間として。
朝の光を浴びながら、セレスティアは微笑んだ。
その笑みを目にする者は、まだ誰もいなかった。




