第五話「灯を持たない者」
夜の境目に、誰もいない時間がある。
迷う者も、帰る者も、渡る者もいない。ただ青い地面が淡く光り、赤いランタンだけが揺れている。
老人は、ランタンを地面に置いた。
灯は、点いていない。
――彼には、灯がいらなかった。
「……まだ、来ないか」
誰に向けた言葉でもない。
境目の向こう、渡り道の始まりに、影が一つ立った。顔のない、しかし確かな存在感。
渡り道の妖怪だ。
「なぜ、渡らない」
影は、問うた。
老人は答えなかった。代わりに、杖で地面を軽く叩く。
「渡る資格はある」
影は続ける。
「未練は薄れ、役目も終わりつつある」
老人は、ゆっくりと首を振った。
「資格の話ではない」
「なら、恐れか」
「違う」
老人はランタンを手に取り、芯を指でなぞった。
「私は、帰らなかった者だ」
影が、動きを止めた。
「帰れなかったのではない」
老人は続ける。
「帰る道も、渡る道も、あった」
「では、なぜ」
老人は少し考えた。
夜の境目に、遠い声が重なる。
灯忘れ。留め石。返り戸。渡り道。
これまで導いた、無数の存在。
「私は、一度だけ、選び間違えた」
影は黙っている。
「帰るべき者を、帰さなかった」
赤いランタンの火が、ふっと揺れた。
「その者は、渡り道へ行った。帰れないと知りながら」
「止められたか」
「……ああ」
老人の声は、低かった。
「だが、私は選ばせてしまった」
「それは、罪か」
「罪ではない」
老人は即答した。
「だが、灯を持つ資格を失った」
影が、理解したように頷く。
「だから、お前は渡らない」
「私は、渡る者ではない」
老人はランタンを掲げた。
だが、火は点けない。
「灯は、渡る者が持つものだ」
「お前は、何だ」
老人は少しだけ、笑った。
「境目だ」
影は、しばらく老人を見つめていた。
やがて、渡り道の奥へと下がる。
「一つだけ」
影が言った。
「お前が渡る日は来る」
老人は否定しなかった。
「来るだろう」
「そのとき、灯は」
「いらん」
老人は、地面に置いたランタンを拾い上げた。
「そのときは、誰かの灯で十分だ」
夜の境目に、足音が近づく。
また一人、迷い込んだ者が来る。
老人は背を向け、歩き出した。
渡らない者として。選ばせる者として。
境目に立つ者は、光らない。
光れば、道になる。光らなければ、人を見送れる。
老人が渡らないのは、誰かが渡れるように、そこに立ち続けるためだ。




