第四話「渡り道(わたりみち)」
最初から、帰れないと知っていた。
それでも、歩き出した。
夜の境目。青く光る地面。赤いランタンを持つ老人が、少し後ろを歩いている。
「ここまででいい」
私は立ち止まり、言った。
老人は足を止めなかった。私の横を通り過ぎ、数歩先で振り返る。
「渡り道の前だ」
前方には、道があった。石でも土でもない。踏むたびに、かすかに遠ざかる道。
「戻れませんよね」
「戻れぬ」
老人は否定しない。
「この先は、現世でも異世界でもない。名も、役目も、いずれ薄れる」
私は、頷いた。
「それでも、行く」
老人はランタンを掲げた。赤い光が、私の足元を照らす。
「なぜだ」
問いは、責めではなかった。
「……帰る場所が、なくなったから」
「それなら、留まることもできた」
「留まる場所にも、なれなかった」
言葉にすると、驚くほど静かだった。
渡り道の上に、影が現れた。
人の形をしているが、顔はない。手には何も持たず、ただ立っている。
「道の妖怪だ」
老人が言う。
「名前は、ない」
影が、私を見ている。――いや、確かめている。
「この道は、戻らない者には何もしない」
老人は続けた。
「だが、未練を持ったまま踏み出せば、道は裂ける」
私は深く息を吸った。
未練がないと言えば、嘘になる。後悔も、恐れも、ある。
それでも。
「それでも、歩く」
私は一歩踏み出した。
道が、音もなく伸びる。
影が、私の横に並んだ。
「……一人じゃないんですね」
老人は答えない。
渡り道は、記憶を薄くする。
名前が、遠くなる。声が、曖昧になる。
私は振り返らなかった。
振り返れば、道は終わる。
「何か、持っていけるんですか」
影が、初めて口を開いた。
「一つだけ」
「何を」
私は、少し考えた。
「……選んだ、という感覚」
影は、頷いた。
それだけで、十分だった。
赤いランタンの光が、遠ざかる。
老人の姿が、小さくなる。
それでも、私は歩いた。
帰れないと知りながら、歩くことを選んだ者として。
夜の境目では、時々、道が一本増える。
行き先のない道。戻れない道。
だが、誰かが確かに、選んで踏み出した道だ。
老人は、それを消さない。




