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第三話「返り戸(かえりど)」

 帰りたい、と思った瞬間に、ここへ来ていた。

 それが最初の記憶だった。

 夜。青く光る地面。そして、目の前に立つ一枚の戸。

 古い木の戸だ。どこにでもあったような、ありふれた家の玄関。

「……帰れる」

 私は、確信していた。

 手を伸ばしかけたところで、杖の音がした。

「触る前に、話をしよう」

 赤いランタンを持った老人が、戸の横に立っている。

「それは返り戸だ」

「帰る扉、ですよね」

「帰れると思わせる戸だ」

 嫌な言い方だった。

 私は戸を見つめた。取っ手の傷。郵便受けのへこみ。

 間違いない。――私の家だ。

「帰りたいんです」

 老人は否定しなかった。

「だが、お前の帰る場所は、もうない」

 胸が、ひくりと痛んだ。

「……知ってます」

 声が震えた。

 事故。入院。退院したときには、家は処分されていた。家族は散り散りになり、

「戻っても、もう同じじゃない」と言われた。

「それでも、帰りたい」

 返り戸が、かすかに軋んだ。

 戸の隙間から、暖かい光が漏れる。夕食の匂い。テレビの音。

 妖怪は、戸そのものだった。

「入ればいい」

 戸が、低く囁いた。

「元に戻れる。何も失っていなかった頃に」

 老人が言った。

「返り戸は、帰りたい者には優しい」

「じゃあ、問題ないじゃないですか」

「優しすぎる」

 私は、取っ手に触れた。

 その瞬間。

 ――中から、誰かの声がした。

「……あなた、誰?」

 知らない声。

 だが、戸の向こうには、私の家がある。

「開ければ、確かめられる」

 返り戸は甘い。

「迎えられるかもしれない」

 私は、震えながら問いかけた。

「……もし、違ったら」

 老人は答えた。

「帰りたい場所を、完全に失う」

 手を離した。

 返り戸が、強く軋んだ。

「なぜだ」

 戸の声が、怒りを帯びる。

「帰りたいのだろう」

「帰りたい」

 私は言った。

「でも……帰り続けたい場所じゃない」

 沈黙。

 青い光が、弱まる。

「帰る場所って……待ってる場所じゃなくて、戻っていいと、自分が許せる場所なんだと思う」

 老人は、何も言わなかった。

 返り戸が、ゆっくりと古びていく。木目が崩れ、ただの板になる。

 妖怪は消えない。ただ、戸であることをやめた。

「……じゃあ、私はどこへ」

「ここでもない。向こうでもない」

 老人はランタンを掲げた。

「だが、歩ける」

 道が、細く伸びる。どこへ続くかは、わからない。

 私は一歩踏み出した。

 振り返ると、戸はもうなかった。

「後悔、しますか」

「する」

 即答だった。

「それでも?」

「それでも、歩ける」

 老人は、少しだけ頷いた。

 夜の境目に、また一人、歩く影が増えた。

 帰る場所を失っても、帰ろうとする意思だけは、ここに残る。

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