第二話「留め石(とめいし)」
帰り道が、必要だと思ったことはなかった。
私は気づけば、石畳の上に座っていた。空は暗く、地面が淡く光っている。青い霧のような光――ここでは夜でも足元が見える。
「……やっぱり、死んだか」
そう呟いても、特に感慨はない。事故の直前の記憶は曖昧だし、未練もなかった。
立ち上がると、背後で杖の音がした。
「そう急いで結論を出すな」
振り返ると、赤いランタンを持った老人が立っている。外套、杖、そしてこちらを値踏みするような視線。
「ここは、どこですか」
「帰り道の脇だ」
「じゃあ、通らない人は?」
老人は口元を歪めた。
「溜まる」
嫌な言い方だった。
歩き出すと、石畳の途中に、不自然なものが見えた。人の腰ほどの高さの石。丸く、滑らかで、墓石にも道標にも見える。
私は、なぜかそこに腰を下ろした。
――落ち着く。
理由はない。ただ、動く必要がない気がした。
「座るな」
老人の声が鋭くなる。
「それは留め石だ」
「留まる……?」
「帰らぬ者を、留める」
私は肩をすくめた。
「別に帰らないし」
その瞬間、石が温かくなった。
脈打つように。
「……なんだ、これ」
石の表面に、文字が浮かび上がる。
会社の名前。役職。未送信のメール。何度も諦めた約束。
「それは、お前がここに残る理由だ」
老人はランタンを掲げた。
「留め石は、帰る意思のない者には優しい。何も奪わず、何も迫らず、“もう頑張らなくていい”と囁く」
石が、静かに光る。
正直、悪くないと思った。責められない。選ばなくていい。ただ座っていればいい。
「……それで問題が?」
「問題はない」
老人は即答した。
「だが、誰も戻らなくなる」
私は老人を見た。
「あなたは、戻したいんですか」
「役目だ」
「感情は?」
一拍、間があった。
「昔は、あった」
そのとき、留め石の影が伸びた。影が、人の形になる。
顔のない、人影。だが灯忘れとは違う。胸に灯はなく、代わりに重さだけがある。
――留め石の妖怪だ。
動かない。ただ、座る私の隣に“ある”。
「ここに残れば、楽ですよ」
声は、私の頭の中だけに響いた。
「誰も期待しない。誰も待たない。あなたは、失敗しない」
胸の奥が、少し緩む。
そのとき、老人が言った。
「一つだけ、教えてやる」
「何を」
「残ることも、選択だ」
私は留め石を見た。
「……選んでいいんですか」
「選ばぬまま留まるのが、最も重い」
私は立ち上がった。石から離れると、体が軽くなる。
「帰らない。でも、留まらない」
妖怪の影が、揺らいだ。
「そんな中途半端は――」
「俺らしい」
私は笑った。
老人は、初めて少しだけ、笑った気がした。
「行き先は?」
「まだ決めない」
「それでいい」
赤いランタンが、道を照らす。
留め石は、元のただの石に戻った。妖怪は、眠る。
「……また来る人、いますよね」
「多い」
「帰らない人も?」
「増えている」
私は歩きながら言った。
「じゃあ、あなた一人じゃ足りない」
老人は黙った。
「手伝いますよ。帰らない人の、話し相手くらいにはなれる」
しばらくして、老人が言った。
「名は?」
私は少し考えてから答えた。
「……まだ、いいです」
夜の境目に、二つの影が伸びる。
帰る者と、留まらぬ者のために。




