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第一話「灯忘れ」

 夜の空は、思ったより明るかった。月があるわけでも、星が近いわけでもない。地面そのものが、淡く青く光っている。

「……なんだ、ここ」

 靴底の下で、霧のような光が揺れる。草でも石でもない、名前のわからない大地。振り返ると、来たはずの道はもう見えなかった。

 異世界転移。そう呼ぶには、あまりに静かすぎる。

 ポケットを探ると、スマホは沈黙していた。電源は入らない。唯一残っていたのは、小さな携帯ランプ。スイッチを入れると、黄白色の光が浮かび上がる。

 その瞬間だった。

 ――足音が、増えた。

 自分の歩幅より、半拍遅れて。ぴたり、ぴたり、ともう一人分。

 立ち止まる。足音も止まる。

「……誰か、いるのか?」

 返事はない。ただ、横に“いる”という確信だけがあった。視線を向けると、そこには人の形をした影が立っていた。輪郭だけが、ぼんやりと。

 胸のあたりに、小さな青い灯りが浮かんでいる。

 怖い。

 けれど、なぜか逃げてはいけない気がした。

 私は三歩進む。影も、同じだけ進む。

 そのとき、ふとランプの光が揺らいだ。理由もなく、私はスイッチに指をかける。

 ――消したら、どうなる?

 胸の奥で、知らない声が囁いた。

 影は何もしてこない。ただ、こちらを“待っている”。

 私はランプを消した。

 夜が、少しだけ深くなった。

 そして、影が、隣に並んだ。

 影と並んで歩いている、という状況を、私はまだ理解できていなかった。

 肩が触れる距離。けれど、体温も息遣いも感じない。あるのは、胸の高さに浮かぶ青い灯りだけ。

「……ねえ」

 呼びかけようとして、言葉を飲み込んだ。なぜか、“話しかけてはいけない”気がしたのだ。

 そのときだった。

「灯を、点けなさい」

 低い声が、前方から投げられた。

 はっとして顔を上げると、光の霧の向こうに人影があった。外套を羽織った、背の低い老人。手には長い杖と、赤い火のランタン。

 私は反射的に携帯ランプを点けた。黄白色の光が戻った瞬間、隣の青い灯りが、わずかに遠のいた。

 老人はそれを見て、深く息を吐いた。

「まだ、名は言っておらんな」

「え?」

 老人は私と、私の隣――何もない空間――を交互に見た。

「それは灯忘れだ。夜に、灯を忘れた者のそばに現れる」

 私は思わず横を見た。確かに、そこにはもう影しか残っていない。輪郭は薄れ、溶けるように消えかけている。

「危ないところだったぞ」

 老人は杖で地面を叩いた。

「**名を名乗るな。灯について問うな。三度、立ち止まるな** それさえ守れば、あれは何もしない」

「……何もしない、って」

「道を失わせはせん。むしろ、導く」

 老人の声は淡々としていた。まるで、天気の話でもするように。

「だが、破れば――」

 言葉は、そこで切れた。続きを言う必要はない、というように。

 私は喉の奥が乾くのを感じた。

「じゃあ……さっき、ランプを消したのは」

「一度目だな」

 老人は私をじっと見た。

「知らぬ者ほど、試したがる。だがこの世界では、 **知らぬことは免罪符にならん**」

 背中に、冷たい汗が流れた。

 ふと気づくと、青い灯りは完全に消えていた。けれど、足元の霊燐が、わずかに前方を強く照らしている。

「……行くべき方向、ですか」

「そうだ」

 老人はうなずいた。

「灯忘れは、帰る意思のある者しか導かん。 お前は、まだ帰りたいと思っている」

 その言葉が、胸に刺さった。

 帰りたい。本当に?

 私は、自分でも答えの出ない問いを抱えたまま、青く光る道を見つめていた。

 老人は歩き出した。赤いランタンの光は、霊燐の青とは違い、温度のある色をしている。

「ついて来い。今夜は長くなる」

 私はうなずき、並んで歩き始めた。背後を振り返る癖が抜けない。あの青い灯りが、まだどこかで見ている気がした。

「さっき言ってましたよね。灯忘れは、帰る意思のある者しか導かないって」

「そう言った」

「じゃあ……帰る気を失ったら、どうなるんです」

 老人はしばらく黙っていた。杖が地面を叩く音だけが、一定の間隔で続く。

「帰る先がなくなる」

 それだけだった。

 私は足を止めかけ、慌てて歩調を合わせた。

 ――三度、立ち止まるな。

「お前は、この世界で“灯を持っていない”」

 老人が言った。

「剣も、術も、名もない。だがな」

 ちらりと、私を見る。

「境目に立てる」

「境目?」

「こちらと向こう。生と帰還。灯の内と外」

 老人は、前方に見えてきた建物を指差した。半ば崩れた石造りの塔。戸口はなく、影だけが入口の形をしている。

「今夜、お前には一つ頼みがある」

「……断ったら?」

「断れるなら、もう帰っている」

 妙に納得してしまい、私は黙った。

「塔の中に、灯を失った者たちの名前が残っている」

 老人は歩きながら続ける。

「帰る道を見失い、灯忘れに名を渡した者だ」

「……名前、って」

「記号ではない。存在そのものだ」

 塔に近づくにつれ、空気が重くなる。霊燐の光が弱まり、代わりに、かすかな青が壁の隙間から漏れていた。

「お前はそれを、現世の言葉で呼び直す」

「呼び直す?」

「正しくなくていい。完全でなくていい」

 老人は立ち止まらずに言った。

「思い出そうとすることが、灯になる」

 私は喉を鳴らした。

「それをやったら……帰れるんですか」

 老人は初めて、はっきりと立ち止まった。

 一度。二度。

 そして、私を見て言った。

「帰る資格を得る」

 三度目の立ち止まりは、なかった。

「帰るかどうかは、お前が決めろ」

 塔の影が、私たちを飲み込む。

 背後で、風もないのに、青い灯りが揺れた気がした。

 灯忘れが、待っている。

 塔の中は、思ったよりも狭かった。

 外から見た大きさに反して、内部は円形の一室だけ。壁一面に、無数の文字が刻まれている。

 ――いや、文字ではない。

「……名前だ」

 口に出した瞬間、空気がざわりと揺れた。

 壁の名前は、どれも途中で途切れている。文字が削られたわけではない。思い出せなくなった、そんな空白。

 青い灯りが、床に点々と浮かび上がる。灯忘れだ。姿は見えないが、確かにここにいる。

「始めろ」

 老人は塔の外に立ったまま、入ってこない。

「中に入らぬんですか」

「入れん。ここは、帰る者の場所だ」

 喉が鳴る。

 私は壁に近づき、最も文字の残っている名前に触れた。指先が、ひどく冷たい。

「……アキ、ら」

 その瞬間。

 ――息を、吸われた。

 胸が締めつけられ、視界が歪む。知らない風景が、流れ込んできた。

 雨の交差点。赤信号。傘を差した、母の横顔。

「……え?」

 私は後ずさった。

 壁の名前が、はっきりと読めるようになっている。

「アキラ」

 それは、幼い頃に亡くなった、兄の名前だった。

「嘘だろ……」

 現世で死んだはずの人間が、なぜここにいる。

 青い灯りが、私の足元に集まった。悲鳴のような、でも声にならない感情が、空気を震わせる。

 頭の奥に、理解が落ちてくる。

 ――灯忘れは、異世界の存在じゃない。

 ――帰るはずだった人間の、残骸だ。

「呼び直すな、次を」

 背後から、老人の声。

「この名前は……もう」

「知っている者ほど、危うい」

 私は歯を食いしばり、次の名前に触れた。

「……ミ、さ、き」

 また、映像。

 深夜のリビング。テーブルの上の薬。スマホに表示された、私の名前。

 心臓が止まりそうになる。

「やめろ……!」

 頭に、確信が走った。

 ――今ここで帰れば、間に合わない。

 私が帰還すれば、世界線が収束する。この異世界で灯を得られなかった者たちは、現世で“帰る理由”を失ったまま、死ぬ。

「全部……俺のせい、なのか」

 灯忘れの青が、激しく揺れた。

 悲しみ。怒りではない。置いていかれた痛み。

 私は理解した。

 灯忘れは、帰れなかった者たちだ。名前を奪うのは、帰りたい者を道連れにしたいからじゃない。

 ――一人で、闇に残るのが怖いだけだ。

「……癒せ、ってことか」

 誰に向けた言葉か、自分でもわからない。

 私は、最後の名前の前に立った。それは、まだ完全に残っている。

 私自身の名前。

 触れれば、帰れる。触れなければ、ここに残る。

 青い灯りが、私を囲む。

「なあ」

 私は、灯忘れに話しかけた。タブーだと、わかっていて。

「一緒に、灯を持とう」

 灯が、静かに揺れた。

 悲しみが、ほんの少しだけ、和らいだ気がした。

 青い光に囲まれながら、私は自分の名前を見つめていた。

 触れれば帰れる。触れなければ、すべてが止まる。

「……全部は、持っていかない」

 私はそう言って、壁から一歩離れた。

「帰りたい。でも、置いてはいけない」

 誰に向けた言葉かは、もうどうでもよかった。

 私は目を閉じ、現世の記憶を一つだけ選んだ。幼い頃、兄と夜道を歩いた記憶。街灯が切れていて、二人で影を踏みながら帰った、あの夜。

「灯は……ここにある」

 胸に手を当てる。

「俺が持ってるのは、全部じゃない。 でも、分けることはできる」

 青い光が、ゆっくりと集まってきた。

 灯忘れたちが、聞いている。

 私は兄の名前を、声に出さずに思い浮かべた。音にならない呼びかけ。思い出そうとする意思だけ。

 すると、青い灯りの一つが、胸の奥から抜け出した。

 痛みはなかった。ただ、少しだけ、寒い。

 その灯りは分かれて、塔の壁に刻まれた名前一つ一つに、静かに触れていく。

 名前が、完全になった。

 削れていた部分が、埋まっていく。

 灯忘れたちの気配が、変わった。悲しみは消えない。けれど、独りではなくなった。

「……これでいい」

 私は、最後に自分の名前へと近づいた。

 触れた。

 世界が、反転する。


 目を開けると、病院の白い天井だった。

 心電図の音。消毒液の匂い。

「……生きてる?」

 声が、かすれる。

 母が、泣きながら私の手を握っていた。その向こうで、父が頭を下げている。

「兄さんが……夢に出てきたの」

 母が言った。

「夜道でね、『灯、忘れるな』って」

 私は答えられなかった。

 胸の奥に、小さな冷えが残っている。何かを置いてきた感覚。

 でも、それは空白ではない。


 退院した夜、私は部屋の明かりを消した。

 暗闇。

 けれど、怖くなかった。

 窓の外、街灯の下で、一瞬だけ、青い光が揺れた気がした。

 並んで歩く影が、二つ。

「……ただいま」

 そう呟くと、影は消えた。

 灯は、まだそこにある。

 忘れなければ。思い出そうとし続ける限り。



 夜道で、灯を消さない人間が一人増えた。

 それだけで、この世界は、ほんの少しだけ、暗くならずに済んでいる。


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