目が覚めたら、婚約者も家族も私の存在を忘れていた — 記憶税の国で
退院証にスタンプが三つ押される音が、やけに立派だった。
肋骨の内側に置かれた時計が、一秒ごとに柔らかく鳴る。麻酔は抜けた。世界は輪郭を取り戻し、私だけが少し遅れて追いかけている。
迎えは来ない。
母に電話をかけた。「もしもし、私——」
「どちら様?」
短い沈黙。受話器の向こうで、鍋の蓋がぶつかるような金属音。
「……いたずらなら切るわよ」
「お母——」
ツー、ツー、と単純な音が続いた。
婚約者の番号にかける。親指が覚えている。十回のうち八回は、彼に繋がるショートカット。
「はい」
声は確かに彼だ。けれど言い方が違う。柔らかいところが磨かれて、知らない鈍さになっている。
「私、佐久間陽。退院したの。迎えに——」
「間違い電話ですね」
間髪を容れず、落ち着いた、礼儀正しい他人の声。
「失礼します」
切れた。
私は受付へ戻った。自動ドアに自分が映る。頬はこけ、髪は浮き、目の下は薄い影。
「すみません。術後の説明で、“付帯手続”ってありましたよね。あれ、もう一度——」
事務員は卓上端末を見て、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「佐久間陽さま。本日付で忘却整理が施行されています」
「……何ですか、それ」
「記憶税の未納状態が累積し、関係コストの高い“対人参照”から順に、第三者側の記憶リンクが匿名化されます。対象者ご本人の記憶は残りますが、他者の脳内にある『あなた』への参照だけが無効化されるんです」
「だから、母が、彼が——」
「“佐久間陽”の参照権が、社会ネットワーク上で無効になっています。ご家族・ご婚約者ともに、あなたを知らないことになります」
喉の奥がわずかに鳴った。泣く気配はない。泣くには、状況が硬すぎる。
「……未納って、私払ってましたよね」
「今年度の引き落とし時、療養による課税標準の変更が申請されていません。自動移行の対象外でした。システム上は未納四期、催告二回。期限を過ぎたため本日午前八時に施行——」
「八時」
術後覚醒のベルが、八時ちょうどに鳴った。
同時に、私が他人から消えた。
私は端末のカウンターに身を寄せた。「戻す方法は」
「存在参照権の再付与です。たとえば、ご婚約者さまが窓口で『佐久間陽の参照権を自分の記憶に再登録する』と宣言すれば——」
「彼は、私を知らない」
「ええ。ただ、誓約トークンを用意すれば、初対面の他人としての登録は可能です。トークンの条件は、『当人同士の合意』『有効な物理媒体』『一時的な痛覚刺激』」
「痛覚」
「記憶固定の古典的手法です。痛みは記憶の錨になりますから」
私はうなずき、紙袋を抱えて病院を出た。秋の光が目に沁みた。
バス停で、ガラス越しに自分の指先を見る。
指輪。銀の輪。術前に外した婚約指輪。袋の内ポケットの一番底で、指に戻る機会を待っていた。
終点駅。改札。人は流れている。私は流れていない。
彼の住むマンションの前は、ガラスと石の箱が二つ重なったような建物で、私は合鍵を持っている——はずだった。
キーピックのように軽い合鍵は、私が他人になった瞬間に、無効になっている。
私はインターホンを押した。彼が映る。少し髪が伸びた。台所の白い照明が彼の頬骨を平らに見せる。
「宅配です」と言った。
嘘は罪だが、式の外では、時に橋にもなる。
扉が開き、私は靴を揃えた。玄関の匂いは、化学繊維と洗剤と、彼の皮膚の塩。
彼は小首を傾げた。「あの、うちは——」
「書類のご説明に上がりました」
私は淡々と、何もない封筒を差し出す。目線が封筒へ落ちる。その隙に、私は左手を上げた。
指輪が、光を少しだけ切った。
「これを見てください」
「……指輪?」
「あなたが、私にくれたものです」
彼の顔に、微弱なひずみが走った。
忘却整理は、記憶を消すのではない。参照リンクを無効化するだけだ。痕跡は、ある。
「知らないはずの輪に、心臓が先に触れる」
私は言葉を繋いだ。「あなたは、私と、結婚の話をしました。両家の食卓で、あなたは緊張して水を三杯飲みました。夜、帰り道で、あなたは道を間違えて、私たちは知らない遊歩道で笑いました」
「……どうして」
彼が喉を鳴らす。「そんなことを、あなたは」
「覚えているから」
私はテーブルに置いた指輪を、彼の右手のひらに転がした。銀は冷たい。皮膚は温かい。
「存在参照権の再付与。行政窓口は遠い。今ここでやる方法がある」
「ここで?」
「誓約トークンを介した仮登録。条件は三つ。『合意』『物理媒体』『痛覚』。
合意は今、あなたの口から。物理媒体は、それ。痛覚は——」
私はポケットから、小さなホッチキスを出した。事務用品にしては少し重い。医療用の滅菌針が装填してある。
「待って」
「大丈夫。軽い。私がやる」
彼の目が揺れる。恐怖ではない。理解だ。理解は、恐怖よりも遅れてやってくる。
「私はあなたに、もう一度、**“初めまして”**をするために来た」
彼はゆっくりとうなずいた。「——合意、します」
私は彼の人差し指を取り、指輪をはめた。ぴったりだ。体が、記憶のない記憶を覚えている。
そして、彼の指先と私の指先を、ホッチキスで軽く留めた。金属音が一つ。痛みが二人に同時に走る。
鋭い、けれど、短い。錨にちょうどいい。
呼吸が一回ずれる。
私は端末を開き、仮登録のフォームに指を乗せる。静脈認証。
端末が鳴る。「仮登録:成立」
彼が息を吐いた。目を閉じ、開く。
記憶は戻らない。リンクが、一つ、作られただけだ。
けれどそれは、ゼロじゃない。
「……あなたは、誰」
彼が問う。
私は笑った。
「佐久間陽。あなたの、未来の妻」
彼はしばらく黙り、やがて頷いた。「なら、コーヒーを淹れます。砂糖は」
「二つ。あなたは入れない」
「どうして」
「昔からそうだったから」
彼は台所に立ち、私はリビングの椅子に座った。家具の配置は変わっていない。ソファの角に、私の選んだ生地。カーテンの裾の軽いほつれ。
忘却整理は、物を忘れない。忘れるのは、人だ。
私は自分の膝を両手で触る。術後の縫合痕が服の下で引きつる。
記憶税。働けない期間の減免申請を怠った私の落ち度。けれど、落ち度と罰の釣り合いは、いつだって他人が決める。
コーヒーが二つ置かれる。湯気が薄い生命の形をして上がる。
私は一口飲み、テーブルに申請書を出した。
「明日、役所に行きます。あなたは存在参照権の本登録に同行するだけでいい」
彼は紙を見て、顔を上げた。「あなたは、僕の何ですか」
「うーん」
私は少し考えた。
「制度上は他人。感情上は婚約者。未来上は妻」
彼は笑った。「器用ですね」
「制度は不器用だから、私が器用にするしかない」
彼は、カップの縁を指でなぞった。「僕は、あなたを好きになるでしょうか」
「それは、あなたが決めること」
言葉に、少しだけ棘が生えた。私の心が、**“もう好きでいてよ”**と幼い要求をする。
私はそれを飲み込む。制度も恋も、要求では動かない。実装で動く。
◇
翌日、区役所。
番号札。電光掲示板。待合椅子。窓口の職員は、眠そうで、親切だった。
「はい、本登録ですね。お二人の相互参照に伴い、第三者の匿名化解除は順次——」
「家族も?」
「家族は別手続です。血縁は、別の系統の税制に紐づきますので」
私はうなずき、家族分の申請も書いた。
彼は静かに、身分証を出し、私の名前を口にした。
初めて呼ばれる、他人の口からの“私”。
それはぎこちないけれど、嫌いじゃない。
機械の印刷音が続く間、私は窓の外を見た。木々が風で揺れる。
人の脳も、風で揺れたらいい。そうすれば、少しは戻ってくる。
けれど、戻らないものもある。戻してはいけないものも、ある。
私はペンを置き、彼を見た。「……ねえ」
「はい」
「全部、戻したい?」
唐突な問いだ。自分でも驚いた。これは、昨夜から胸の内側の机に置きっぱなしだった質問だ。
彼は考え、言った。
「全部は——怖い。今の僕が溺れそうだ」
私は笑った。救われる種類の笑いだ。
「じゃあ、一部で始めよう。好きになれる余白は残して」
職員が登録票を渡す。「本登録、完了です。憶えたくない記憶の再付与は、拒否権を行使できます。チェック欄は——」
私はボックスを見た。「拒否しません」にチェックを入れる。
彼は「拒否します」にチェックを入れた。
私たちは、違う。けれど、並べることはできる。
◇
夕方、私たちは河川敷を歩いた。地面は固く、空は透けている。
彼が言う。「この道、知ってる気がする」
「知らないよ」
私は笑う。
「でも、知るよ。今から」
手はつながない。
指の穴はまだ赤く、銀の輪はわずかに冷たい。
痛みは記憶の錨。けれど、痛みだけが錨ではない。
私は彼を見た。「私、あなたに全部は渡さない」
「え?」
「あなたがくれない分は、私も渡さない。公平のために」
彼は目を細め、頷いた。「それ、好きかもしれない」
「好きは、徐々に、でいい」
風が、髪を押す。水面が、光を切る。
私は左手をポケットに入れ、指先で王冠みたいな小さな傷痕を確かめた。
制度は冷たい。けれど、その冷たさを器にして、温かいものを運ぶことはできる。
夜、別れ際。
彼が言う。「明日、また役所?」
「ううん。明日は、家具屋。ソファの角、ほつれてるから」
「直し方、知ってるの?」
「前の私が知ってる」
彼は笑う。「明日、教えてください」
「教えるよ。明日の私として」
彼は少し迷ってから、私の手を取らないまま、身体を半歩寄せた。
それで十分だった。
存在参照権の本登録が、胸の中で小さく音を立てた気がした。
忘れられた。
でも、今は憶えられている。
それで、歩ける。
— 完 —
〔同系統のおすすめ〕
・「忘却ポスト」(制度×記憶)
・「夢の外注」(概念労働SF)
・「無害化の町」(行政×倫理)
あとがき
制度は冷たいけれど、手続は温度を運ぶ器でもあります。今回の“記憶税”はフィクションですが、現実の行政用語をもじった造語遊びを散りばめました。好きな造語があれば感想欄で教えてください。




