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悪役令嬢、断罪イベント中にトイレの危機

作者: 月宮 かすみ

【尿意メーター:20%】


 断罪イベント。それは乙女ゲームのクライマックスにして、悪役令嬢の終着点。

 王子の糾弾、ヒロインの涙、そして民衆の怒号の中、私は静かに佇んでいた。


 いや、正確に言えば、静かにしている“ように見せている”だけであって、私の内心は割と――いや、かなり修羅場である。


 なぜなら今、トイレに行きたいからだ。

【尿意メーター:20%】表示された数字はまだ低いが、問題はこの先が長丁場であることだ。


(……どうして、断罪イベントの直前にあんなにハーブティーを飲んでしまったのかしら、私)


 朝の時点では、喉の渇きと緊張を誤魔化すために数杯飲んだだけだった。

 けれどこの“数杯”が、今や私の膀胱にとっては有罪判決も同然である。


「マリエル・アルバス!」


 前方で王子が高らかに名を呼んだ。

 玉座の階段の上、誇り高き姿勢で私を見下ろすその瞳には、怒りと決意が宿っている。


「貴様が行ってきた数々の悪行――今ここに、罪状を読み上げる!」


(……読まなくていいわよ、全部認めるから……今すぐ終わらせて)


「あなたには、心当たりはないのですか?」

 ヒロインのアメリアが、泣きそうな顔で問いかけてくる。いや、実際泣いている。


 私は、ゆっくりと顔を上げる。

 この時点では、まだ余裕がある。ポーカーフェイスも保てている……と思いたい。


(頬が引きつっているかもしれないけど、それは決して開き直ってるわけじゃないの。ただね、尿意って、案外表情筋にも影響するのよ)


 だが、それを知らぬ周囲の者たちは、私の顔を見てざわついた。


「……あの眼、反省してないわね」

「いや、むしろ開き直ってるぞ……!」

「肝が据わっている……!」


 ちがう。

 ただ、ちょっとだけトイレに行きたいだけなの。お願いだから誤解しないで。


「マリエル、弁明があるならば今のうちだ」

 王子が、剣を抜かんばかりの勢いで迫る。


 私は静かに口を開いた。


「……いいえ、ありませんわ」


【尿意メーター:38%】

(……なんとか、早期終結ルートに持ち込めるかもしれない……)


「ふっ……やはり、認めるのだな」

 王子が嘲るように言う。

 ……嘲ってない。そう“聞こえた”だけ。今の私はとてもナーバスなのだ。


「だがな、マリエル。貴様の罪状は、口先ひとつで赦されるものではない!」


(うわ、これ、めっちゃ引き延ばすやつじゃない!?)


【尿意メーター:45%】

 脚をそろえて立つ。膝を緩めると終わる気がするので、気が抜けない。


「貴様は、聖女アメリアに対し、嫌がらせと妨害行為を繰り返した!」


(してない。ていうか、ゲーム設定上そうされてるだけ。わたし無実よ)


「さらに、舞踏会における酒杯のすり替え、衣装の破損、婚約者の拉致未遂!」


(誰!? そんなことやったの! いやゲーム的には私だけど、私はやってない!)


【尿意メーター:52%】


「証人もいるぞ!」と差し出される使用人の証言書。

 ……その証人、昨日まで“好感度99%”だった私のメイドじゃなかったかしら?


(裏切り者ォォォ!!)


 とはいえ、ここで騒げば尿意にダイレクトアタックが来る可能性がある。

 冷静さは尿意の盾。私は、耐える。


 だが、ヒロインがつぶやいた一言で場の空気が変わった。


「……マリエル様、本当は……泣きたいのではありませんか?」


 え?


(ちがう……私はただ、トイレに行きたいだけなのよ)


「その……強がるお姿が、かえって心を打ちます……」

「まさか……何か、言えぬ事情が?」

「いや、あの眼差しは――覚悟を決めた者のそれだ!」


【尿意メーター:63%】


 空気が、妙な方向に傾きはじめた。


(お願いだから、変な解釈しないで? 本当に切実なだけなの!)


 けれど王子は、すでに剣を収め始めていた。


「……マリエル。貴様の罪は重い。だが……最後にもう一度、聞こう」


 彼は真剣な眼差しで、まっすぐに私を見つめる。


「お前は――何を想い、この場に立っている?」


(トイレよ!!!)


 けれど、答えられるはずもない。


 私は、ただ、静かに微笑んだ。


 王子は、その表情に――何かを感じ取ってしまったようだった。


【尿意メーター:68%】


(……だめだ、このままでは、長引く)


 私は決意する。次の章で、この茶番を終わらせにかかる。

 命(膀胱)をかけて、断罪イベントからの離脱を狙うのだ――!



 ***



【尿意メーター:68%】


(……まずいわ。明らかに、膀胱が警告を発しはじめてる)


 玉座の間に立ち尽くす私は、沈黙を選び続けていた。いや、“選んでいた”というより、“喋ると漏れそう”だったのである。


 静寂が走る。

 けれどその沈黙を、誰ひとり正しく解釈してくれないのがこの世界の不便なところだ。


「……ふん。沈黙とは、つまり開き直りか」

 王子――リュシアン・グラディウスは、氷のような声で吐き捨てた。


 違うのよ。開き直ってなんかいない。

 私はただ、声を張ると腹圧がかかるから物理的に喋れないだけ。


「マリエル・アルバス。お前の態度は、まさに反省の色なし。最後まで民を愚弄するのか」


 愚弄してるのはそっちじゃない!?

 私は貴族令嬢として、優雅さと理性を保ちながらこの断罪という辱めに耐えているのに、なぜか「不遜」「強気」「悪女の風格」扱いされるこの仕打ち。


【尿意メーター:71%】

(膀胱が……膨張して……くるしい……!)


 私はついに、決断する。

 この場を終わらせるため、潔さを見せようと。


「――すべて、認めますわ」


 その瞬間、玉座の間に走る衝撃。

 ざわっ……! と、まるでカードバトルゲームの観客のような反応をする廷臣たち。


「な、なんと……すべてを認めただと……!」

「まさか、本当に……真の黒幕だったのか……!?」


(ちがうってば! これ、早く終わらせるための嘘なのよ!)


「ふ……潔く認めるとは、最後まで高慢だな」

 リュシアン王子の声には、妙な感情が混じっていた。怒り、憐れみ、そして――


(同情!? いえ、それより、お願い……話を締めて……!)


 だが、追い打ちは続く。

 ヒロイン・アメリアが涙を浮かべ、ふるふると首を振る。


「マリエル様……私、ずっと悩んでいたんです。でも、やっぱり信じたかった。あなたは、本当は悪い人じゃないって……!」


(その“信じたかった”っていう回想ルートいらないから!!!)


「でも……っ、すべてを認めるなんて……!」


【尿意メーター:73%】

 脚を閉じたままの状態が続き、もはやつりそう。

 しかもこの角度、この顔、絶対に“涙をこらえてるように”見えてる。


「……マリエル嬢」

 王子が一歩前に出た。

 やめて。来ないで。そんなイケボで語りかけないで。


「その瞳……まるで何かを抱えたまま、すべてを背負おうとしている者のようだ」


(いや、背負ってるのは膀胱の限界だけ!)


「私は今まで、お前をただの悪役だと思っていた。だが、もしかして、お前は……“誰かを庇って”罪を被っているのではないか?」


(黙れェ! 膀胱が振動で刺激されるッッ!!)


 ヒロイン・アメリアはもう涙ボロボロ。

 廷臣たちは感極まって「真の忠義」「犠牲の貴婦人」「気高き魔女」など勝手な称号を与え始める。


 そして私は、何も否定できず、ただ脚を閉じたまま、ひきつった笑みを浮かべ続けるしかなかった。


(……あと何分、この茶番が続くの……)



 ***



【尿意メーター:73%】


(限界が……近づいている……)


 アメリアの涙、廷臣たちのざわめき、そして王子の誤解が深まり続ける中、私――マリエル・アルバスは、己の“生理的限界”と静かに対峙していた。


 思えば、今朝からずっと水分を取りすぎていた。

 緊張から喉が渇き、ハーブティーを2杯。ミント水を1杯。そして「落ち着きますよ」とすすめられたラベンダー茶を断れずにもう1杯。


 それらがすべて、今この瞬間に集結している。

 私の膀胱という名の収容所に――。


【尿意メーター:76%】


(このままでは……このままでは……)


 私は意を決した。静かに、誰にも気づかれぬよう、わずかに一歩、後ろへ。


 ざっ……


 そのたった一歩が、事態を悪化させる。


「マリエル・アルバス、どこへ行く気だ!」


 鋭く響いた声に、私は全身を硬直させた。

 リュシアン王子の視線が、まるで断罪の刃のように私を貫く。


(ちがう! トイレ! ただトイレに行きたいだけなのよ!)


「逃走の意思ありと見なす! 衛兵、囲め!」


(やめてええええ!! トイレに行きたいだけなのぉぉぉ!!)


【尿意メーター:81%】


 見る間に、鎧に身を包んだ衛兵たちが私を取り囲んだ。

 ぐるりと囲まれた鉄の壁。私の前途を阻む、最強最硬の障壁。


 いや、違うの! 逃げたいわけじゃないの! ただ御手洗に行きたいだけなのよ!


「マリエル。まだ何かを隠しているのだな?」


 王子が迫る。

 その威圧感が、私の精神と膀胱に容赦なくダメージを与えてきた。


(ほんとにお願い……これ以上、話を長引かせないで……)


「この場で真実を明らかにしてもらおう!」


【尿意メーター:84%】


(真実って何!? 尿意のこと!? だったらもう言うよ!? “おしっこ行きたい”って言えばいいの!?)


 いや、言えない。言った瞬間、この場の全員が黙り込む未来が見える。

 王子も、アメリアも、廷臣たちも、そして私も。空気が氷点下まで冷え込むのが目に浮かぶ。


 そう、私は悪役令嬢。気高き令嬢。

 こんな場で“生理的限界”を晒してはいけない――!


 ……しかし、そんな美学も限界だった。


【尿意メーター:88%】


 ついに、脚が震え出す。無意識に内股になる。

 王子の言葉が、もはや鼓膜の外で反響しているだけ。集中力は、もはや完全に膀胱に吸い込まれていた。


「マリエル様……」

 アメリアが近づいてきた。

 その瞳には、なぜか慈悲の色が宿っている。


「私、分かります。……きっと、あなたにも……苦しみがあるんですね」


(いや、あるけど! 思ってるのと違う方向の苦しみよそれ!!)


「王子様、もうこれ以上……マリエル様を責めないであげてください!」


「アメリア……君は、彼女を庇うというのか?」


「はい! 私は、マリエル様の奥底にある悲しみに、気づいた気がするんです……!」


(あんた、ほんとに乙女ゲームのヒロインか!? 今一番の“敵”は膀胱よ!?)


「……衛兵たち、包囲を解け」


 王子の指示により、衛兵たちが静かに距離を取る。


(よしっ、今だわ! 私はもう……全力で駆け抜けるしかない!)


 ひと呼吸置いたのち、私は背を向けた。


 ──いざ、トイレへ!!


 その瞬間、ドレスの裾を両手でたくしあげ、王族らしからぬ勢いで走り出した。

 階段を飛ばし、絨毯の上をつんのめりながら進む。


「マリエル!? どこへ行く!?」


「待ってください、マリエル様!」


 背後で悲鳴が上がるが、もう振り返らない。


 振り返れば、敗北する。

 私はただ、勝利トイレに向かって走るのだ!!


【尿意メーター:92%】



 ***



【尿意メーター:92%】


 私は走っていた。

 貴族の気品? 令嬢の優雅さ? そんなもの、今はどうでもいい。

 目指すはただひとつ、王城南東翼の最奥――貴婦人用個室トイレ


 けれど、その道はあまりにも遠かった。


「マリエル、待ってくれ!」


 廊下に響き渡る王子の声。その声色には、もはや怒りはなく、むしろ焦燥が混じっていた。


 お願い、追ってこないで。

 私は悪役令嬢であって、今は逃げる者。……膀胱の限界から。


 だが。


「衛兵、止まれ! マリエルを追うな!」


 その一言に、私の脚が止まった。


(……えっ?)


 思わず振り返ると、そこには――王子が、私を見つめる目で、ゆっくりと語り始めた。


「……彼女は、何か……誰にも言えぬ苦しみを抱えているのだ」


【尿意メーター:93%】(いや、そうだけど!)


 王子の眼差しは、まるで十年前の戦場で仲間を見送った英雄のような慈しみに満ちていた。


「マリエル・アルバス。君の沈黙、君の苦悩、そのすべてが今、私に伝わってきた……!」


(ちがうのぉぉおおお!!!)


 そこに、アメリアが駆け寄ってくる。涙で頬を濡らしながら。


「マリエル様……ずっと誤解していました。あなたは……私に冷たかったのではなく、いつも距離をとって……私を傷つけないようにしてくれてたんですね……!」


(違うってば! あれは単に“関わるとルートが崩壊するから距離を取っただけ”!!)


「最初から悪い人じゃなかった……本当は、とても優しくて、強い人だった……!」


(尿意と戦ってるだけで強さ認定される世界、どうかしてる)


【尿意メーター:94%】


 脚がもう限界。もはや震えではなく、軽い痙攣。


「マリエル……今なら分かる。君は、真実から逃げていたのではない。全てを、一人で背負おうとしていたのだな……?」


(違う!!!! 背負ってるのは尿意だけ!!!!)


【尿意メーター:95%】


 私の視界は揺れていた。

 涙じゃない。感動でもない。

 純粋に、生理的危機が迫っているのだ。


「そんな君に……私たちはあまりに無理解だった」

「私……もう一度、ちゃんと話をしたいんです!」

「どうか戻ってきてください、マリエル様!」


【尿意メーター:96%】


 私の意識が、遠のきかけたその瞬間だった。


 ぽたっ。


 ……え?


 いや、まさか。まだ出てない。まだ漏れてない。セーフ。ギリギリ。瀬戸際。


 だがもう、このままでは本当に危ない。尊厳が、名誉が、再起不能な何かが、崩壊する。


 私は、最後の決断を下した。


「……わたくし、少々、席を……」


「!? マリエル! ついに口を開いたか!」


「おお……! 沈黙の壁を破った!」


「言葉を紡ぐのも苦しかったんですね……!」


 違う。そうじゃない。

 そうじゃないのに、なぜ、なぜその方向に解釈されるの。


 でも、私はもう――限界なのだ。


 スカートをつかみ、再び全力で駆け出す。今度こそ、全てを賭けて。


「マリエル……!」


「……っ!」


 王子の叫びを背に、私はひた走る。


 この一歩が、生死を分ける。

 この廊下の角を曲がれば、そこには……!



 ***



【尿意メーター:97%】


 もう、喉も言葉も動かない。

 私の意思はただひとつ、「トイレへ行く」――それだけだった。


 脚が勝手に動いた。

 貴族としての威厳? そんなもの、とっくに地面に置いてきた。


「マリエル様! どこへ行くのですか!?」

「彼女は、何かと戦っているのか……!?」


(そう! 膀胱と!)


 廊下を、全力で駆け抜ける。

 遠くでヒロインが泣き叫ぶ声が聞こえた気がする。王子の声もした。

 でも、もう届かない。私は“彼らの世界”から一時的に離脱しているのだ。


 目的地はただひとつ、王城南東棟の白金製トイレ。

 貴族専用の気高き個室――まさに聖域。


【尿意メーター:98%】


(もうだめ……もう……間に合って……お願い……)


 廊下の角を曲がる。扉が見える。聖なる扉!


 駆け込む。


 扉を閉める。


 鍵をかける。


 スカートを捲る。


 ──勝った。


【尿意メーター:100% → 0%】


(……生きててよかった)


 静かな空間に、私のため息が落ちる。

 誇り高き悪役令嬢は今、ついに“真実の解放”を手にしたのだ。

 己の身を律し、誰にも頼らず、孤高にして、尊く、美しく――


 いやほんと、漏れなくてよかった。



 ***



 翌日。

 王宮の中庭に呼び出された私を待っていたのは、リュシアン王子だった。


 相変わらずの麗しい容姿で、だが昨日よりどこかしら真剣な面持ち。

 私は(まさか、トイレの件で怒られるのでは……)と不安に震えていた。


 だが彼は、静かに言った。


「マリエル・アルバス」


 彼は一歩、私に近づく。


「私は昨日、君のすべてを見た。沈黙の中で苦しみ、それでも誰にも頼らず、自らの足で立ち向かった君の姿を……」


(※本当はトイレに走っただけ)


「その気高さと誇りに、私は心を打たれた」


(※気高くも誇りもなかった)


「君こそが、真に強き者だ。だから……」


 彼はひざまずいた。


「マリエル・アルバス。私と、結婚してくれ!」


 風が吹いた。


 鳥が鳴いた。


 私の頭の中は、真っ白だった。


(……えっ。トイレ行っただけなのに!?)


 民衆の前で、王子は真顔だった。

 ヒロインは泣きながら拍手している。廷臣たちは「さすが公爵令嬢!」「強き姫君!」と称賛している。


 私の心はただ一つ。


(もうなんでもいいわ……)


【尿意メーター:0%】

 生理的にも、運命的にも、スッキリした。


 ──完。


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