第1話 邪神が二度の寂滅を迎える前
周りを濡羽色は覆いまくり、自分の拍動や呼吸の音がはっきりと耳に届く。
目の前に、上方で浮いているボールライトに照らされ、横に傾く体勢で椅子に背もたれている風変わりな男が発した鼻息が愉悦に聞こえていた。
その愉悦は、なんだかんだ人をむかつかす。
俺から見ると、この男は整いすぎる顔をしており、そして不思議と自分と酷似しているようだ。
肩にかけた衣や下のゆったりしたズボンが散った色彩は古老なり、手に握られている古銀色の法具は十字架如き。
法具の中心部には、揺れているような枝のシルエットが閃いていた。
最も怪しくぞっとさせてくるのは彼の首から下、腰から上の部分が形骸しかなく、元ならば心臓の位置に光を放つアメジストがあり、その表から粉末がひらひらと降り注いでいる。
まるで、カウントダウンが行われているように。
その時、血痕の出たほど亀裂した唇がそっと開かれて。
「ようこそ、少年よ。」
男の低く穏やかな声が伝わった。
ゆるりと椅子から立ち上がった彼は真っ向に寄ってきたら、少し屈んでこの空間の平面に座り込んでいる俺の頭頂に手を添える。
「ほ、これは、なんと素晴らしく、かけがえのない容貌。」
したがって俺は威圧感で身を動かせず、相手の微笑みを目で迎えるしかない。
「さて、時間は限られておる。話を短くしよう。」
いつの間にか頭の上にその手は離れ、男はもう椅子に座り直した。相変わらずのんびりとした姿勢で。
時間は限られていると言ったが、喋るペースは全く速いと言えない。なんの意図を抱いているのか知る由もなく、絶対的な余裕を示している。
「あのー」俺は困惑半分ついた口調で口を開く。
「うん?何。」そう言い返し、男は欠伸をしていた。
「恐れ入りますが、自己紹介していただけたらと思いますね。」頼みながら、俺は焦らず胡座をかきながら背筋を伸ばす。
「......ほ?」男は意外そうな表情を見せた。「君、あまりにも落ち着いておるな。その目、嫌気でも読み取れる。ふん、面白い。」
「こんなところに連れられてきた以上、全身全霊で引けるとは期待しないがいい。もしかすると、永遠に戻れないこともあるさ。」
男は再び微笑む。
「まぁよい。君に我の正体を知る資格を与えよう。」
正直なところ、彼の話し方は眠気を誘える。
俺も条件反射で欠伸が出る。そして次の言葉を待つとした。
男は依然としてすべてを見下す笑みを浮かべており、彼の背後から色の暗い気配が上へと伸びていき、十字架如き法具が引き寄せられて宙に浮かんでいた。
「我はこの世における初代の邪神である。君も聞いたことがあると思うが、左様、世人は我を「曳律」と呼んでおる。」
「...あ、確かに聞いたことがありますね。」俺は数秒考えるとぼんやりと思い出す。
史前生まれの人類であり、わずか18歳で神に昇格し、モート歴も彼によって誕生したのだ。
しかしその後は正道から外れ、紛争や壊滅を世にもたらし、世界の真の主・創世星から「曳律」という神の印を授かった所以であった。
今時の歴史の教科書では、彼のことを「初代目邪神」と呼ぶことが多い。
ところで、今はモート歴1013年。つまり初代目邪神が滅びた日から三百年も以上が経っていた。
なぜ突然現れ、しかも俺といった、ただのんびりと凡人生活を送っている無名の教士をこの神秘極まった空間に連れ込んだのだろう。
うん......考えるまでもなく、きっと良いことではない。
「では、あなたは再度この世で復活するつもりなんでしょうか。」心の中での疑問を口に出す。
「ふん、鋭い。」
その一瞬、邪神の双眸には獲物への渇望が浮かぶ。
「然るに、7世紀の包囲殲滅は盛大であったな。大人気の我は大いに追い討ちをされ、肉体の再構築はもう出来まい。君の今見ておる我の姿すら、ただの虚でな。」
「ここまで語れば、賢い君ならば既に心がけたであろう。」
険しくなりつつあるその邪神の顔に、俺は無表情に自分の首に手を当てる。
「それで、俺の体を。」
「左様である。」―
「っ!」
話を言い終える寸前、貪婪に満ちていた眼差しが刹那で目蓋に差しかかり、胸を酸欠感が占めていく。
「かといって、」
邪神はまたすぐ背筋を伸ばし、指を軽く動かしたら、法具が掌に収まった。
「我は自由な生き方を好んでおる。よほどのことでない限りは人の自由を奪いやしない。」
見下ろしながら、法具で俺の頬を軽く一回叩く。
「で、君には二つの選択肢がある。嗚呼、我はなんという寛大。」
そのどうかしている発言に何の意見も言わず、俺はただ嫌そうに触られたばかりの皮膚を拭き始める。
「ひとつ、自分の体を差し出すこと。」
「その代わりに我の力で君を転生させ、現世よりも幸福な生活を送れる確率は五割にしてやる。不公平だと思うと欲張りでな、五割はかなり高いのである。」
「俺の立場で考えたら、十割でない限りは低いほうですが。」
「ひとつ、自分の中枢力を半分差し出すこと。その代償としては、君に能力一切使えずに普通の人間で生きてもらうことになる。」
「そんな人生はつまらなすぎてさすがに受け難いですね。」
「さあ、少年よ、選べ。」
俺のツッコむ気が入った話をものともせずに、待ちきれない口調であった邪神。
椅子のところに戻り、手を上げて空でいくつかの線を描き始めた。
程なく気付いた。自分は鏈陣の雛形に囲まれていたことを。
対して俺は余儀なく溜息をついて。
「選ぶ前にはちょっと質問させてくださいませんか?」
「ほ、聞くがいい。」
「助かります。まずは、もし前者を選んだ場合、どうやって俺の体を奪いますか?今のあなたはとても窶れているに見えますが。」
「ふん、無礼なる少年よ。今で我の力は過去よりだいぶ弱まっておることを認めざるを得ないが、初代諸神の一つとして未だに青臭いガキの体を手に入れるくらい、木っ端にすぎまい。」
嘲りつつ、邪神は描きを続ける。今回は、線の紡ぎ方がより綿密になっていく。
俺は周りの鏈陣が出来上がるよう捗っているのを見つめていた。
「儀式、今時の言い方であったら鏈陣についてさらに教えよう。知れるごとく人間の体内に流れておる幻態物質は三つに分けてある。記憶、人格、そして意識である。そこで魂というのは、幻態物質のキャリアーとして存在する。」
「魂には「重み」があり、鏈力、すなわち鏈術の動力源にも同じさ。言い換えると、今仕込んでおる陣は単なる等価交換にすぎない。」
「なるほど...」俺は知識を得たように頷く。
所詮は俺の魂を魂に等しい分の鏈力を捧げることで肉体から毟り出す形なのか。
なんだか全然面白くなくないか。邪神であればもっとかっこいいの持っていないか。
まあ、全盛期でもなかったから無理もないか。
実際、内容を聞いて簡単そうだが、こんな等価交換の陣を動かせる人間はこの世にほぼいないはず。
何せ「等価」ということが極端に厳しく求められており、一旦対等でない状況が出てしまい、施術者を待っている定めは破滅のみである。
そこで、特に魂の重みを計算すること、成功する可能性はゼロに近い。
「でしたら、魂の重さをどうやって量るんです?」
「ふん、その質問が出たとはな。何にしろ、モート歴が始まって既に千年も経つというのに、最先端の学者は依然として魂を正確に計算する術を把握できずにね。」
残念ぶりだった邪神は、くるりと胸中に成竹ありそうな面持ちで掌を返し。
ずっと照明の役割を担っていたボールライトが舞い降り始める。
「とはいえ我の子猫は、君の魂がどれほどの重みであるか、的確に感じ取れておる。」
普通は球体にそんな名前をつけるか。
「もし感じ取るのを間違えたら?」
違和感を覚えながら、俺は邪神の言葉に対して再び問いかける。
「その時で悲劇は起こる。」声を落とす邪神。
「この空間を維持するためには我の今持っておる鏈力の半分を絞り出さねばならぬ。そしてもう半分の一部を、君の魂をめぐった仕込みに使うのである。」
「儀式が求めるのは完璧なる等価交換。そこに微塵の差すら許されん。」
「もしも計算が狂えば、その反噬として我は二度の寂滅を迎えるのであろう。」
言葉を区切り、邪神はそっとニヤつく。
「が、それはあり得ぬ。神となっていたこの身で誓おう。我の子猫は過ちを犯したことなど、これまで一度もなかったのである。」
その話が終わった途端、脳を迷わせる響きが空間を紛れる。
俺は目線を身の回りに戻し、陣が完成されたようだと感じて。
一回、呼吸を緩めるにする。きちんと自分の生命を味わうために。
さあ、ここより、賭博は始まったな。
邪神様。