洗われる身
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
経年劣化。
ストレスが万病のもとであるなら、経年は万劣のもとといおうか。なぜ傷んだかの理由を問われたら、ひとまずこれをあげておくと、そうそうつっこまれることはないと思う。
たとえ目立った動きをしておらずとも、世の中にはたくさんの分子が存在し、あわよくば反応を起こそうと絶えず漂っている。「なにもしていない」なんていうのは、自然全体で見れば嘘っぱちであり、受け身であるがままに任せているとか、外からの干渉に無抵抗を貫いているというのは実情だろう。
その中にあって、パフォーマンスを保つには動かないといけない。
食事で栄養を補充し、運動で身体の各所を活性化させ、睡眠で損傷個所の回復に力を回す。
常日頃、仕事をしてくれているものたちを応援しなくては、生きていくのはままならない。さぼって命を長らえたとしても、それは貯金を切り崩したのみだ。
どんどん減っていって、無理して借金をするようになり、ついには破産を迎える。その兆候はだるさや痛み、排出するものなどでしっかり伝えてくれているが、それを理解し、素直に受け入れて対処を取れる者は限られている。
中には、ごくまれなレアケースにあたり、良くも悪くも貴重な経験をしている人もいるかもね。
僕が父から聞いた話なのだけど、耳へ入れてみないかい?
父は昔から、プールで泳ぐのが好きだったらしい。
以前までは夏場でないとしんどかったけど、住んでいた家のそばに温水プールができてからは、週の終わりによく足を運んでいたみたいだ。
非常に格安な利用料だったこともあり、急用のない休みの午前中はここで泳いでお腹を減らしていたという。
誰にも邪魔されず、ひとりで思うがまま泳ぐのをよしとする父。誰かを誘うことはなくとも、何度も利用しているうちに他の利用者たちの顔も見知ってくる。
その中にあって、ひとり。父が利用するときは、ほぼ毎回会う顔があった。
ややふくよかなそのスタイルは、どこかで見た顔に思えるが、特徴がないのが特徴といわんばかりの十人並みな容姿。近い顔の同級生もいるし、たいしたことではないかと最初は思っていた。
彼は泳ぐことはせず、プールサイドのヘリに沿ってのしのしと歩いていく。端から端まで、何度も切り返ししながら往復をしているんだ。
泳がずとも、水中のウォーキングは陸上でのウォーキングよりも効果が高くなりやすい、とは、父も聞いたことがあった。仮に泳げないとしても、長い時間続けることによって脂肪の燃焼にも役立つだろう……と思っていたのだけど。
父が泳いでいるのは、3つほどコースをずれていた。
彼が歩いているのはおよそ1、2時間程度なのだけど、その彼が歩いている最中、もしくはあがってからしばらく経つと。
彼の歩いていた方向から、ほのかに瑠璃色を帯びた液体が流れてくる。
油だ。
ラーメンのスープに浮かぶような、いくつにも区切りが生まれているかのような油膜。波打つ水面に対して、よく目を見開かなくては気づけない薄いものだけど、父は顔をしかめてさっと水から上がってしまう。
はじめてこのことに気づいたとき、ちょうど彼がいなくなっていたのも手伝って、父はプールサイドから彼の歩いていたあたりへ回ってみたそうなんだ。
そこへ浮かぶ油たちは、父がいるあたりよりも、ずっと濃い色合いをしている。心なしか、使用済みの油が紙に吸われたときのごとき黒交じりの茶色をたたえていることもあって、ますます不快の対象に。
プールに入る前後でシャワーを浴びるためのゾーンがある。あいつはそれを満足に浴びていないのだろうか?
思い立った父は、その休みはいつもより早くプールへ直行。開場とともに男子更衣室で、あいつの到来を待っていたという。
30分ほどして現れたあいつは、またひと回り大きくなった身体を揺すりながら更衣室へ入ってくる。
普段着ははじめてみるが、紅白の縞模様をあしらったポロシャツに、緑色の半ズボンと、冬場にしては元気なかっこうが印象に残った。
このありふれたファッションも、やはり最近見たような気がするのだけど……父はどうにもぴんと来なかったらしい。
父とはロッカーの列を隔てて向こう側へ移動したあいつは、さほど時間を置かずに水着姿で、ドアひとつをのぞき、壁できっちり区切られたシャワーゾーンへ向かっていく。
あらかじめ着込んでいたのだろうか。父があわてて後を追うと、ちょうどあいつは降りかかるシャワーたちを頭から浴びるところだった。
父はこっそりとドア口からのぞく形で、様子をうかがう。
あいつはこちらへ横顔を向けながら、目を閉じて一心にシャワーを浴びていた。
その足元には、あのぬらぬらとした油たちが混じり、流れて、排水口へどんどんと流れ落ちていく。
父はたっぷり300を数えるほどはいたけど、あいつはその間に動きを見せずにずっとそのまま。流れ落ちる油もずっと絶え間なかったのだとか。
父としてはこいつの得体が知れず、すぐに荷物をまとめて家へ帰ろうと自転車を飛ばしたそうだ。
いつもの道を通って帰っていくのだけど……家の近くまできて、ほんのちょっぴり違和感を覚えた。
何か、見かけなかったものがあるような気がしたんだ。かといって、自分にはすぐ致命的になることではないとも感じている。
いったんは家に戻り、本来の予定を潰され悶々とする父。しばらくしておつかいを頼まれ、あらためて外へ出た折に自分の帰り道をもう一度たどりながら、よく観察してみたんだ。
そして気づく。あのプールにいた男の子の存在を。
生身ではなかった。帰り道の途中にある、新しくできた焼き肉屋。そのマスコット人形として店内に立っているのが、プールに来た姿と瓜二つだったんだ。
このお店、営業時間が土日などでも開店が遅めであり、昼を回ってから日付の変わる直前あたりまでオープンしている。それでも味がいいらしくて、父が通りかかった今もすでに店内では肉の世話をするお客でいっぱいだったそうな。
かのマスコット、なぜ外ではなく内に置かれているのかは父も知る由はない。ただ、ああも煙と油にさらされるだろう店内に立ち尽くす仕事をするなら、たまには水浴びをしてメンテナンスもしたくなるのかな……と思ったのだとか、なんとか。