野生のメイドさん
俺は急な肩タッチにひどく動揺した。無理もない、この頃は人との接触なんてまずないし、それが野生のメイドともなればもっとないことだ。驚きのあまりに左手に重くのしかかる買い物袋が商店街のタイルの上に倒れ、中から源氏物語が飛び出て散乱した。
「あぁ、新書が…」
反射で振り返っていた顔を下に向け、本を袋に戻そうと手を伸ばす。その瞬間人肌の感触を指先に感じた。
「「あっ」」
人の手に触れるなんてもう何年ぶりだろうか。覚えていないぐらい古いか、それこそ初めてか。小さいながらも同じタイミングで声が出てしまった。これまた驚いて手を素早く体の方に引っ込める。
「本当にごめんなさい、こんなつもりじゃ…」
そう言いながら手を進め本を袋に戻すメイドさん。ふと目線を彼女の方に移すと黒髪がかかる申し訳なさそうな横顔が見えた。
「ああ…いえ、こちらこそ…」
俺の方も作業を進めていく。なんだかぎこちない空気が流れる中俺は口を開く。
「あの…ここら辺にメイドカフェあるんですか?」
「はい!えっと…すぐそこの…」
彼女はそう言ってチラチラと辺りを見回す。そうしてるってことはもしかして…
「店から結構離れてきたんですか?」
「そ、そうみたいですね…私従事し始めたばっかりで、ここら辺あまり知らなくて……」
「そうなんですね」
従事……彼女は始めたてとは言っているが節々の振る舞いや精錬されたメイドの言葉遣いに、初々しさは感じられない。さながら肖像画のように自分の前で丁寧に手を組み、気持ち頭を下げている。
源氏物語を袋に戻し終え今度は右手で袋を摑む。心なしかまだ左手には重厚な感覚が残っていた。袋自体に穴がないことを確認してからその時初めて顔を彼女に向かせた。
「…」
「…」
自分が顔を向けるとそれに気づいたのか彼女も顔をあげる。あたかも観賞植物のように手入れを施されている長い睫毛がハイライトのごとく光を反射する。沈黙の時間が俺とメイドさんの目と目を繋ぎ止めた。
「白石さん?」
「え?」
「あっいや、その知り合い…でもないか。うーん…」
「あの…どこかで会ったことありましたっけ?」
「え?いや、会ったというか…」
間違いない。あの睫毛は2人と持ってない代物だ。それは俺がする評価ではなく周りからの一種の表敬ではあるが……それでもあの睫毛は間違いなく、そして今目の前のメイドさんは他でもないクラスメイトの白石さんだった。とは言ってもクラスの人気者と話したことはないし、変装をしているわけでもない俺に気づかない時点でいろいろ察することはある。いや、バレるのが怖くて気づいていない振りをしているのか?なんて思い上がりにも程がある言葉を頭に浮かべないうちに言葉を繋ぐ。
「メイドさんって…白石さんだよね?」
「え?」
彼女は未だ知らんぷりする。本当に隠し通せると思ってるのか。首を傾げて不思議そうにこちらを見る彼女、静かな瞬きで鳥の羽根のように揺れるチャームポイントが俺の目に映り込んだ。
そうだ、何も問い詰めることはないじゃないか。人にそこまで興味を持たないようにしている俺でさえ、強く印象に残っているあの睫毛と今目の前にいる彼女のそれが重なって映り、咄嗟にそのような行動に出たがバイト禁止の校則を名目に白石さんを詰めるなど俺がすることなのか。不思議そうにこちらを見るメイドさんにもう一度目を向ける。
「すいません人違いでした…あ!折角出しメイド喫茶行ってみようかな」
「…」
突然苦笑いする俺に一瞬彼女はフリーズするがすぐに目を輝かせて返答する。
「本当ですか!?是非是非!」
文字通り彼女の目がキラキラしている。そんなに嬉しかったのだろうか。確かにこんな中途半端な街でキャッチに引っかかるような人はそうそう居ない。それに従事し始めの彼女にとっては珍しいことなのかもしれない。
「それで店はどちらに?」
「あ!えぇと…」
何とも言えない顔をして下を向く彼女。迷っているとは言っていたがこれほどまでとは。今までどうやって生きてきたんだ。
「まあこれで検索すれば場所は分かりますから店名だけでも…」
「喫茶初音と言います」
「初音…初音……」
既に手に取っていたスマホの地図アプリを開いて初音と検索する。数秒間ぐるりと通信マークが回って居酒屋やらなんやら3軒にピンが立つ。その中でこの商店街から裏に2、3本程退いた通り上に喫茶初音の文字を見つけられた。ピンを押し店の画像らしきものを彼女に見せると、子供のように喜ぶ様子に少し圧倒された。
でもこれからどうすれば良いんだ。ここから一人でこの店まで行くのか?正直一人でいきなりそういう店に入るのはやや抵抗感がある。それに、そもそもこういうのはキャッチが店まで連れて行くものなんじゃないか。
スマホ片手に、或いは源氏物語片手に立ち尽くす俺に気付いて彼女が口を開く。
「すいません…ご主人様をろくにもてなせなくて…」
人違いかもしれないことは置いておくとして、クラスの高嶺の花に似つかわしい女の子が落ち込んでいる様子に何も思わないわけがなかった。
「全然大丈夫ですよ。一緒にメイド喫茶行ってもらえませんか?」
「もちろんです、ご主人様!」
俺の誘いを聞いて彼女はこれまた顔を明るくして目をキラキラさせる。それにしてもクラスメイトに似ている人がメイド服を身にまとい、俺のことを『ご主人様』などと呼ぶのにはすごく違和感を感じるものだ。
「今どき正統派のメイド喫茶がキャッチなんてするんですね。コンカフェならまだしも」
「コンカフェ…ですか?」
「…」
正直コンカフェとメイド喫茶の違いなんて法律の区分を除けば(法律の区分は結構重要だが…)ほとんど変わらない。だがメイド当人がその違いを知らないとは思わなかった。俺も実際に見聞きした訳では無いが、良くあるメイド文句として『メイドに触れると溶けてしまう』なんてものがある。俗に言うおさわりを禁止してメイドさんを守るものと認識されているが正確には違う。真にはキャストとのふれあいは接待と捉えられてしまい、風営法に違反してしまうからだという。
なぜこんなことを知っているかと言うと無論、メイドさんを隣にして歩くこの気まずい時間を紛らわせるために必死にスマホで調べているからである。
というかそもそもこのような呼び込み行為自体かなりグレーなものだ。彼女が俺に声をかけたのは本当は……隣を嬉しそうに歩く彼女を横目でチラリと見る。分からないものだらけの彼女にとってみればそんな法律のことなど頭にあるわけがないのだろう。自然とそう思ってしまった。
かれこれ考え中、彼女を横目で見続けており目線が合ってしまわないか少し怖かったが身長差的にその心配はなさそうだ。だがまあこうもチラチラと見るのも相手には失礼といったものか。そうして俺は視線をスマホに戻した。
ふと気づいたがメイド服を着た女の子と商店街を闊歩する男の姿とは傍から見ればどう見えるのだろう。少なくとも俺の主観からはすごく違和感があるとしか言いようがない。だが居心地が悪いかと言われればそうではない。その程度だ。
「あっ」
突然彼女が声を出し走り出す。なんだか子供を見ているようだ。
「ここです!喫茶初音」
彼女は腰に手を当て自信満々にメイド喫茶を指差した。