白藍の空
学校の休み時間ほど退屈な時間は無い。授業が終わり他の人達は早々に席を立ち、そこらで、あるいはクラスをまたいで雑談を始める。たかだか与えられた10分という時間の間に人々は最大限にこの時間というものを楽しむのだ。そんな時間がとても退屈だった。
席に座る義務感からの解放からか人々は、お昼休みも放課後も騒がしくする。煩いと書いて青春、五月蝿いと書いて青春。少し伸びた無精な爪で机に五月蝿いの文字を書く。五月の蝿がうるさいとは良くできたものだ。蝿の漢字なんて書けずに俺は溜息をつく。
机につかない方の片耳が人々の生活音を捉えると共に、ボーっとした目が白藍色の空を吸い込む。俺にとっては何事もない一日が今日も雲とともに流れていく。
気がつけば今日の学校も終わりのチャイムで鳴いていた。チャックが空いたままのスクールバッグに乱雑にペンケースと教科書を押し込み、こうして初めて席を立つ。なるべく目を合わせず、否、誰からも目を合わせられずそうして教室という狭い空間を後にするのであった。
スマートフォンのカレンダーを覗きながら廊下を歩く。意を決して4月から始めた長期バイトの予定は今日という日にはマークされていなかった。だが忘れていたとは考えにくい。学校での生活というのは特に予定のないカレンダーを眺める以上に特にすることもない。暇でしかないのだから必然的にカレンダーとにらめっこすることになる。だからこそこのカレンダーは完璧な予定を俺に指し示してくれるのだ。
1ヶ月もこの学校に通い大体の場所というのは覚えたものだ。目隠し状態でもある程度は目的地に着く能力が開花した。と言っても俺の行動範囲というのは教室とトイレと昇降口とそれらを続く動線のみである。
軽やかに上履きをスニーカーに履き替えそれほどの所要時間もかけずにその場を後にする。学生というのは学校が終わったら早く帰るか、遅くまで残るかの二択しかない。少しばかりボーっとし、昼過ぎの暖かな余韻に浸る俺という存在は稀有なもので、全校生徒500数人を抱える公立高校の玄関としてはとても静かなものである。
俺にとっては体育の授業でしか世話になることのない何の変哲のないグラウンドも放課後は体育会系の足によって酷使されている。掛け声やら砂を踏みしめる音やらが嫌というほどに耳に入り込めば、否が応でも気になるものだ。興味がない感を出しながらチラッと音源の方に目を移すと、半袖短パンのジャージを着た女子たちが走っていた。
「今日は女子陸上部…ジョジョか……」
毎日体育会系が青春を噛みしめるその横を通っているのだからグラウンド使用のサイクルも大体は分かる。ジョジョというのは俺が勝手につけた女子陸上部の略称だ。7音よりも2音の反復の方が効率的だと思う。
何のための効率性かはさておき、彼女らの走る姿を見て何も思わないかと言われればそれは違う。こんな俺でもあのような姿勢には憧れる。かと言ってジョジョ…ダンジョと混ざって何かする勇気というのは持ち合わせていない。(ダンジョと言うのはもちろん男子陸……)
初夏にしては肌寒い風が俺を包みこんだ。
特に予定もないので真っ直ぐ家に帰ろうと思ったが、今日は給料日なので少し寄り道して本屋に寄ることにした。本屋と言っても地域密着型の老舗的なものではなく全国に多々あるような某書店である。
ブックハンティングがさしあたり最近のマイブームでもある。というのも数少ない話し相手である立見との交流から、中学時代はこの世のラノベというラノベを読んできた。高校に進学してからというものラノ活からは離れたが読書自体は続けている。給料も貰うようになってなおさら趣味に費やすということが多くなった。
「臨時休業?」
A4用紙に赤いペンで書かれた張り紙の前で俺は立ち尽くした。真っ暗な店内から見えるラノベコーナーに少し雑に並べられた本を覗くことができた。正直needの度合いはそこまでではないしこのまま真っ直ぐ帰るでも良かったが、少しばかりの懸念があった。
別に俺は問題ないのだが、いかんせん親は毎日学校終わり一番で帰って来る自分のことを心配する。4月の中旬はずっと言ってくるものだったのでこうしてバイトを始めたし、バイトのない日は放課後ボーっとしてから帰るようにしている。
だから今日は帰ろうという気にはならなかった。確か高校近くの駅から家の最寄りまでの間の駅の近くにも書店があったっけ。なんて薄っすらとした記憶を頭の片隅から引っ張り出し、駅の方へと歩みを始めた。
「まもなく16時32分発快速弥梁谷行が参ります。危ないですから黄色い線の……」
駅の構内アナウンスが流れるホーム。家に帰るならこの電車だが目的の書店に行くには普通電車に乗らないといけない。本来自分が乗っているはずの電車を見過ごす感覚というのはいささか不思議なものだった。
「まもなく16時35分発普通田野山行が参ります。危ないですから……」
数分もしないうちに再び構内アナウンスが入り電車がやってくる。退勤・下校ラッシュにぶち当たらずこの時間帯はそこまで混んでいなかった。帰りは気をつけなきゃなと思いながら空いている座席に座る。
目的の書店があるのは二つ先の秦井駅、もちろん降りたことはない。一駅過ぎてそして3分も経たないうちに目的の駅に到着する。このまま乗り過ごそうという思念が頭をよぎったが、意を決して立ち上がり電車を降りる。
駅を出るとそこは小さな広場になっていて、水の出ていない噴水に出迎えられる。ビルの隙間から差す太陽の光が底の水面に反射してとても眩しかった。
噴水の奥の大通りを進み2個目の交差点を右。駅からおおむね10分ほどで目的の本屋に着いた。
自動ドアが開き最近人気な某popが流れる店内を見渡す。特に目的の本というものがあるというわけではない。さしあたりブラブラと歩いて気になった本を手に取る。それが俺にとってのブックハンティングのあり方だ。
まず入って目に付くコーナーには昨今の話題書がズラリと並ぶ。金策からドラマ、政治に受賞作品まで。幅広いジャンルの本が綺麗に並べられる中一際異彩を放つ作品があった。
「『異世界に転生した大魔王、武装メイドと甘々ライフを送ります』……」
最近のラノベというものは……。
実に面倒くさい古参のような言葉が思い浮かんでしまった。そりゃあ3年も同じジャンルを見てきているんだ。ジャンルのブームが変わるのもそれが普通というものだ。
「メイドさんがそんなに多機能になってどうするんだ。それは本当にメイドなのか…?」
心に思った言葉がそのまま外に出てしまった。我ながら本に対するリスペクトを欠く発言だ。少しばかりの反省をするがそれでも俺は溜息をつきながらスマートフォンの画面を確認する。
3万6千円、画面上に映し出された給与明細をじっくりと見つめる。俺はまあ気にならないわけでもないしなと本を手に取りレジの方に歩みを進める。
平日の夕方とは言えここの書店では地域では一番大きな書店、少し並ぶ程度の人数がレジの列に待っていた。財布の中からこの書店のポイントカードを取り出す。レジでカードを出すのに手間取ったりでもしたら恥ずかしいからな。
「あっ」
自信満々にカードを手にしたも束の間財布から小銭が転がった。甲高い金属音が数回響き、周りの人が反応する。なんでこんな時にと思いながら縦で転がり続ける小銭を追いかける。5mほど進んで昭和52年の百円玉がうつ伏せに倒れる。
「なんでこうなるかな」
今日一番の溜息をつく。その場に低くしゃがみ百円玉を拾い財布の中に戻す。よしと思い顔をふとあげるとレジ前の特設コーナーが目にとまった。色鮮やかに描かれたポップや積み上げられた新冊、綺麗に飾られた折り紙に見入りその場に少し立ちつくした。
「新訳源氏物語……著、紫式部…訳、村崎茂秀……」
日本人なら一度は聞いたことがあるであろう平安時代原作のその書籍と目が合った。俺は見ていないが今期の某放送の日曜夜ドラマは確かこの本と関わりが深かったか。特設コーナーに近づきふと値札に顔をのぞかせる。上・中・宇治十帖の3編セットで8800円……正直学生が手を出せるような品の値はしてなかった。だが。
「お買い上げありがとうございます。」
俺は笑顔で定型句を言う20代の女性店員に見送られた。大学生のバイトにしては愛想が良いなと率直に感じた。自動ドアが開き少し肌寒い外気が顔に当たる。最近の夏というのは特に暑いものだが、今年はそこまでなのか、なんて思いながら歩みを始める。左手にのしかかる3編と1冊が入った買い物袋が重く感じた。
「はあ」
今日一番を大きく更新する溜息をついた。
さて、書店ではいつものような感じで過ごしていたが自動ドアのその先は未知の領域で、一瞬何が起こっているのか良く分からなかったが、そう言えば、とここが初めてきた街だと思い出した。書店の向かい側にコンビニやクリーニング屋がある光景がとても真新しく思った。この通りはちょっとした商店街になっているらしく、様々なお店が立ち並ぶ。
ケーキ屋、靴屋、洋服屋、ラーメン屋、カフェ、カフェ。何故カフェが2店並んでいるかはともかく、このような商店街が意外と近くにあるのかと、子供心のようにはしゃいでしまい、気がつけばどこか分からないところまで歩いていた。周りを見渡すとそこまで人の流れというものはなかった。確かにこのようなレトロの商店街というと早くシャッターが降り始めるイメージがある。現にほとんどの店は営業を終え、僅かな人間の足音だけが屋根のある通りに響いている。
「7時……そろそろ家に帰らないとな…」
スマートフォンをポケットから出し、某地図アプリを起動する。この街に来た時は気づかなかったがこの商店街は駅に直結してるらしい。
スマートフォンを再びポケットに収める。そろそろ帰ろうかなんて思ったところ、左肩に誰かが叩く感触を感じた。少し驚いて後ろを振り向く。
「あのお兄さん、メイドカフェに…ご興味はないですか……?」
そこには野生のメイドさんが立っていた。