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精神的疲労から帰宅して疲れて寝てしまったローザが起きてくると、母親のケイトがワクワクした顔をして待っていた。
「聞いたわ。レオナルド殿下とお会いしたんですって?」
「お父様は?」
欠伸をかみ殺しながら聞くローザにケイトは時計を指さした。
古ぼけた置時計の針はもうすぐ昼になろうとしている。
「とっくにお仕事に行きましたよ。昨日はローザに手伝ってもらって助かったって感謝していたわ」
「大変だったわ。世の中、書類を改ざんしてまでお金や地位を相続をしたいと思っている人が多くて嫌になるわ」
「それで、レオナルド殿下とお会いしてどうだった?」
期待を込めて聞いてくる母親にうんざりしながらローザは首を振った。
「お父様から聞かなかった?無理やりリーネ様に連れて行かれてお会いしたけれど、隣に噂の美人が座っていたわ。とても親密そうだったわよ」
「噂は本当なのねぇ。いくら王子といえども愛人を連れて歩くような男性は結婚相手としては無いわね」
「そうでしょー。マルー、おはよう!」
尻尾を振って近づいてい来る小型犬を抱きしめてローザはフサフサの白い毛に顔を埋める。
幼い頃飼い始めた小型犬のマルは嬉しそうに尻尾を振ってローザの愛に答えている。
犬の匂いを嗅いで至福の時を過ごしているローザに、ケイトが声を掛けてくる。
「お昼過ぎに友達のマリーちゃんと会う約束しているって言っていなかった?」
「忘れていたわ。刺繍の糸を一緒に買う約束をしていたのだったわ」
時計を見てローザは慌てて犬のマルーを床に降ろすと慌てて出かける準備に取り掛かった。
「ローザ、久しぶりね」
馬車を降りてすぐに待ち合わせの店に行くと、すでにマリーが待っていた。
ふわふわの茶色い髪の毛に、優しい雰囲気のマリーはなぜか昔から気が合う友人の一人だ。
見た目がキツイ顔をしているローザと違い見るだけで癒される存在のマリーは羨ましくもある。
いつもニコニコ微笑んでいるマリーにローザは手を振った。
「ごめんなさい。待った?」
「私も今来たところよ。お兄様に送ってもらったの」
ローザの兄、コンラートは今年25歳になる。
親の仕事を継ぐために勉強中ということもあり、ローザも最近姿を見ていない。
「久しぶりに、ご挨拶をしたかったわ」
ローザが言うとマリーはころころと笑う。
「お兄様は変わりなく過ごしているわよ。最近、町にお友達が出来たみたいで前より忙しくしているわ」
「そうなのね」
疲れている様子のローザにマリーは首を傾げる。
「どうしたの?何かあった?」
「色々あったのよ。昨日お父様の忘れ物を届けにお城へ行ったら、リーネ婦人に拉致されてレオナルド殿下とお会いさせられたわ」
ため息がちに言うローザに、マリーは納得したように頷いた。
「とうとうローザもやられたのね。未婚の女性を見つけてはレオナルド殿下に紹介しているらしいわ。それも身分の釣り合う女性をね」
「でしょうね。レオナルド様の隣には噂の黒髪の女性が座っていて親密な雰囲気だったわよ。あれを見たら誰も嫁に行こうなんて考えないわよ。愛人がすでにいるんですもの」
疲れたように言うローザにマリーはコクコクと頷く。
「わかるわ。愛人が既にいるのは嫌よね。私、妻が数人いるのも嫌だわ。王族だけは認められているけれどあの制度はどうにかした方がいいわよね」
「わかるわ!リーネ様も嫁ぐときは揉めたらしいわよ。第二夫人だから。マリーは恋愛結婚の予定があって羨ましいわ」
身分は少し下がるが、城の騎士と婚約中だ。
春が来たら結婚をする予定で、今が一番幸せだと言わんばかりの笑みを浮かべて顔を赤くしている。
男の影すらないローザは羨ましくて頬を膨らませる。
「きっとローザにも素晴らしいお相手が居るわよ」
「……そうかしら。とてもそう思えないわ」
本格的に落ち込みそうなローザの背中を撫でてマリーは声をかけた。
「気分を変えて刺繍糸を買いに行きましょう。今度は何を作るの?」
「そうねぇ、あまり込み入った物を作る気力が無いからハンカチに簡単なものでもしようかしら」
たわいのない話をしながらマリーと手芸屋さんへ向かって歩き出した。
店が並ぶ通りは人通りも多く賑わっている。
通り過ぎる人を避けながら目的の刺繍屋までたどり着くと突然腕を強く掴まれた。
驚いて悲鳴を上げようとするが掴んでいる相手の顔を見て声を出すのを耐える。
フードを被っているが、美しい顔は昨日会ったレオナルド殿下だ。
どうして彼がこんな城下町に居るのか不思議だが、それよりもなぜ腕を掴まれているのか理解できずローザは目を見開いた。
「追われている、匿ってくれ」
「はい?」
小声で言うレオナルドの言葉が理解できず首を傾げるローザの腕を強く引っ張り裏路地へと連れ込んだ。
バタバタと数人の足音が聞こえたかと思うとレオナルドに抱き込まれた。
ローザが抵抗する間も無く強く抱き込まれて美しいレオナルドの顔が近づいてきたかと思うと唇を塞がれる。
驚いてレオナルドから離れようとするが強く抱き込まれてローザの体はピクリとも動かない。
後頭部を力強く支えられて顔さえも動させない状況にローザは軽くパニックになる。
(どういう事?今、私レオナルド様とキスしているの?)
唇に触れる暖かい感覚に理解したくないが、事実を認識する。
パニックになっているローザの背後で、男たちの足音と舌打ちが聞こえた。
「なんだカップルか……。いちゃつきやがって……」
「付けられているのは気のせいじゃねぇか」
悪態をついて、男達が去っていくとローザはやっと解放された。
「すまない。助かった」
何事も無かったかのように平然として言うレオナルドにローザは震えるほど怒りがこみ上げてくる。
「た、助かったって、私に今なにをしたの?」
パニックになっているローザが震える声で聞くとレオナルドは平然とした顔で答えた。
「追われていたから匿ってもらった。助かった」
「ち、違うでしょう!今、私にき、キスをしたでしょう!」
怒りと驚きで震えているローザは”キス”という言葉を言うのも恥ずかしいと目に涙を貯めながらレオナルドを見上げる。
興味無さそうにローザを見下ろしていた青い瞳が何かに驚いたように大きくなる。
「確かに、キスをしたな。……が減るものでもないだろう」
ローザよりレオナルドの方がなぜか驚いているようだ。
自分で言っておいて、レオナルドは驚きながらローザを見つめてきた。
「は、初めてだったのに……!」
いくら王族でもこんなのはあんまりだとローザは小さく呟く。
レオナルドはローザの顔をまじまじと見つめてもう一度強く抱きしめてきた。
「ちょっと!一体なんなの!」
(親密な仲でもないのに抱きしめられて一体何なの?)
拘束から逃れようと身をよじるローザだったがレオナルドの体はピクリともしない。
ギュッと抱きしめられてローザの首筋にレオナルドが顔を埋めてくる。
「いい加減にしてください!」
声を振り絞ってローザが叫ぶと、やっとレオナルドの体が緩んだ。
その隙をついてサッと離れてレオナルドを見上げる。
なぜかレオナルドはローザの事を信じられない者でも見るような目で見つめている。
まるでローザが不思議な存在のような顔をされても被害者はこっちだ。
ローザは呆けているレオナルドを睨みつけた。
「信じられない!一体なんなの?」
キスをしたり抱きしめられたり、一歩間違えれば痴漢行為だ。
間違えなくても痴漢だ。
怒りを込めて睨みつけるローザに、レオナルドは呆けたまま何度か瞬きをするとゆっくりと笑みを作る。
「悪かった。追われていたのは事実だ。つい出来心でやってしまったな」
「王子様が一体誰に追われるというの?というか、どうしてこんな城下町に一人で……」
そこまで言ってローザはまたレオナルドを睨みつける。
(城下町に女が居るのね。護衛なのか見張りか知らないけれどその人たちを撒くためにこんなことをするなんて酷いわ!)
怒りとパニックで涙が出そうになり必死にローザは堪えた。
ここで泣いたら何かに負けたような気がしたからだ。
必死に涙を貯めているローザを笑みを浮かべたままレオナルドは見下ろす。
「野暮用があった。それよりお前はこの前義母上が連れてきた、ローザだろう?」
(誰だかわからないでこんなことをしたの?)
ローザのムッとした気配を感じたのかレオナルドは笑みを浮かべたまま軽く手を上げる。
「いや、お前だから匿ってもらった誤解をするな。誰でもこんなことをするわけではないし、俺は出来ないから」
「はぁ?」
相手が王子という事も忘れてローザは抗議の声を上げる。
思わず言ってしまったが、怒りは収まらない。
フルフル震えているローザにレオナルドは軽く頭を下げた。
「今度、きちんと謝罪をしよう」
「結構です!」
目に涙を貯めた状態で見上げるローザにレオナルドは微笑んで歩き出した。
(謝罪ってなによ!減るもんじゃないしって、減るわよ!)
「初めてだったのに……」
小さく呟いて去っていくレオナルドの背を見つめた。
人目ににつかない様にか、質素な洋服を着ているが一般離れした美貌は隠しようがない。
黒いフードを被っているが、歩いているだけで王族のオーラが出ている。
悔しい気持ちで見つめていると、レオナルドの歩く先に黒いロングスカート姿の女性が立っている。
長い黒髪の女性は先日レオナルドの隣に座っていたルーと呼ばれていた女性だ。
レオナルドが近づくと軽く頭を下げて合流をした。
「なによ!やっぱり女と会う予定だったんじゃない」
イライラしながらローザはレオナルドとルーが消えるまで見つめていた。