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時勢が人を作る

 「時勢が人を作る」と確か勝海舟が言っていた。これなどは、実に身に沁みる言葉だ。


 今風に言い換えると「時代が人を作る」「社会が人を作る」というようなものだろう。個人の在り方を社会の方向が決めていく。


 この事は極めて残忍な現実であって、個人の才能や能力だけではどうにもならないものだ。私は近頃、この真実の残忍さを身をもって、あるいは他人の姿を観察する事によって、噛み締めている。


 多くの人間はこの事実を「残忍な真実」とは決して認めないだろう。彼らは時流の流れる方向に沿って運動している為に、時代の重力というものを考えずに済む。だから、まるで自分が自由であって、自分は自分の意志で決めていると考える。


 例えば「時代がどうであれ、自分のしたい事をするのが一番ですよ」なんていう一般論を振りまく人間がいる。私は、こんな事を平気で言う人間が嫌いだが、こうした人間は「時代がどうであれ」という一語にどんな重みがかかっているのか、決してみようとしない。キリスト教が支配した社会において、キリスト教に反する事はどんな結末を引き起こすだろうか。大衆社会において、そこに迎合しない道を選ぶ事はどんな苦痛を生むだろうか。


 自らを完全に奴隷に化してしまった人間ほど、自らを自由だと感じる。これは現在・過去・未来で変わらない事柄に思える。川の上流から下流へ向かって泳いでみよう。体は楽であり、スイスイと前進できる。彼は「自由」でなおかつ「自分自身」である。これほど楽な事はない。しかし流れに逆らおうとした瞬間、水流の重たさ、強烈さが身に沁みる。時代に抵抗するとはそのような事だから、これに屈従している人にはこの苦痛は理解できない。


 時勢が人を作る、というのは本当の事だ。ここで残念な事は、時勢に反抗する人間もやっぱり時勢が作り出す、という事だ。


 古代ローマにユウェナリスという風刺詩人がいた。古代ローマと現代社会は極めてよく似ているから、ユウェナリスの風刺はまるで現代に対する批判のように見える。ユウェナリスは優秀な詩人であり、時代に抵抗しようとした個人だったが、彼の抵抗は時代を超越して、自らの形式を創造するに至らなかった。彼の詩にあるのは同時代に対するいらだち、批判であり、それ以上のものではない。


 だがしかし、そもそも「時代を超越して自らの形式を創造した人なんているのか?」と人が尋ねるとすると、その疑問は正しい。その疑問は絶対的に正しい。どんな天才も大なり小なり、時代を味方にしている。一見、反逆的な生涯を送って、孤立のままに死んだ天才でも、詳しく見ればやはり時代との協奏によって天才的な創造物を生んだ。


 古代ローマの時代は三大悲劇詩人のような偉大な詩人は出なかった。ソクラテス・プラトン・アリストテレスのような偉大な哲学者も現れなかった。だが、それは古代ローマの人々に「才能がなかった」からではない。そうではなく、「時勢が人を作った」のだろう。


 モーツァルトがいかに天才だとしても、五線譜を発明し、ピアノを発明し、バイオリンを発明して、なおかつ交響曲とか協奏曲とかいう形式を全て発明するのはとても不可能だ。どんな天才も、その時代が生み出したある水準にほんの一匙、自分のオリジナリティを追加する事しかできない。


 「語る藤田省三」という本を最近読んで、なかなかに面白かった。本の中で藤田省三は、江戸時代の学者・荻生徂徠を絶賛している。荻生徂徠と言えば、藤田省三の師である丸山真男が絶賛している人なので、その流れかもしれない。


 藤田省三は、荻生徂徠をいわば画期的な社会学者として捉えていた。当時は、社会学という観念はなかったから、荻生徂徠は独自にそれに近いものに迫ったわけだ。…とはいえ、藤田は荻生徂徠が身分制を越えられなかった事を指摘している。「誰にも時代を越える事はできない」ともはっきり言っている。


 丸山真男と藤田省三が褒めているからと思って、私も荻生徂徠の「政談」を買って読んでみた。しかし正直言って、あまり面白い代物ではなかった。あまり感心もできなかった。


 しかし後から考えてみて、自分の観点が間違っているのではないかと反省した。考えてみれば、私は既にマルクスやヘーゲル、マックス・ウェーバー、デュルケームなどを読んでいる。詳しいわけではないが、ぼんやりと彼らの作り上げた観念形態はわかっている。


 それら大物に比べれば、荻生徂徠はいかにもみすぼらしい学者だと言われても仕方ないだろう。私は海外の人に「ぜひとも荻生徂徠を読め!」とは言えない。それだけの普遍性があるとは主張はできない。


 しかし荻生徂徠が面していた社会的限界というものを考えると、荻生徂徠は偉大な学者であり、優れたオリジナリティを持っていると言わざるを得ない。それこそが藤田省三が絶賛していた箇所だろう。


 私が思うのは、ここでは評価が二重になっているという事だ。一つは普遍的な、世界的な観点に立ったもの。もう一つは日本の歴史を日本人として振り返るという視点。


 日本人としては荻生徂徠を偉大な学者であると大切に思わなければいけないだろうが、世界史的な観点からすると、他の国の人に「ぜひ読め」と勧められるほどでもないという事になってしまう。


 しかしそもそも、藤田省三の言うように、どんな偉い人間も、その人間が生きている時代の制約というのは越える事ができない。だから、自分がマルクスのように、ヘーゲルのように、あるいはカントのように偉大な存在になれないとわかっていたとしても、時代と闘って自分を作り上げなければならない。その闘争の結果が、時代に残らない、普遍性のないものだとしても、その闘争をやめてはならないだろう。


 荻生徂徠くらい偉大になれば大したものだろう。しかし同時に世界的な観点からすると、日本というのはどのくらいのレベルかという観点も決して忘れてはならない。これを忘れると、自分たちのナショナリズムに閉じこもり、夜郎自大な輩になってしまうからだ。


 現代というのがかなり厳しい制約のある社会だというのは、私は、はっきりしていると思う。十九世紀のような偉大な作家は国内にも国外にも見当たらない。我々はゲーテのような総合性を持ち得ないし、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、理性によって芸術と科学を総合するような営みもできない。メディアは三流の天才ばかり持ち上げ、大衆は自分たちを喜ばせる程度の低いもので満足している。


 この社会には厳しい制約が課せられているし、どこまで歩いても、そう遠くまで行けないのかもしれない。それでも、こうした闘争をやめるべきではないだろう、と私は思う。そうした人がこれから出てきてほしいし、そうした人の闘争の痕は、時間の中で全く意味のないものにはならないだろう、と思う。


 それは流星が溶けて去った後のように、何らかの光芒としてかすかに世界の空に意味を持って輝くかもしれない。


 …いや、例えそうならなくても、時代と闘って何かをなそうとするのを、決してやめるべきではないだろう。時代の制約と闘うというのはそういう悲しい努力であるのかもしれない。

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