第四話
濡れた声が、震える唇から漏れ出る。
「……もうやめてよ、もう」
我が主ユキノは泣いていた。その双眸から溢れた涙が頬を伝い落ちていく。
その様を、チエル殿下が呆然となりながら見下ろしている。
「……ユキノ、ちゃん?」
「私、私は――」
彼女はその手から私を落とすと、両手で顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
「私は、強くなんかなりたくなかった!」
表情を真っ白にしている彼に、我が主が嘆きの声を叩きつける。
「でも、私、こんなおっきな体で、手だって大きくて、可愛くなくて……」
嗚咽混じりに我が主は言う。
それは、この私ですら初めて聞く、彼女の本音。彼女の悲嘆。
「どうやれば可愛くなれるかなんて、わからなかった。誰も私にそれを教えてくれなくて、だから、できることをやるしかなかっただけよ……!」
「…………」
我が主の悲痛な声を前に、チエル殿下は立ち尽くす。
そして私もまた、かけるべき言葉が見つからず、彼女の嗚咽を聞き続けている。
ああ、そうか。そうなのだな。
我が主は、ずっと己を欺き続けてきたのだな。
この国でも特に武に偏った家系に生まれ、母はすでになく、周りは男ばかり。
何より、ユキノは剣士として理想的な才能を持って生まれてしまった。
恵まれた骨格。恵まれた体格。恵まれた剣のセンス。
人の稽古を見ただけで技を盗み取れるなど、ただごとではない。
それは、女としておくにはあまりにも惜しい才能だ。
男としてならば、武を志す者ならば、まさに理想的と呼ぶべき才であったろう。
だが、ユキノにとってはそれは邪魔でしかなかった。
そして同時に、その邪魔なものだけが、彼女に人としての誇りを与えてくれた。
これは、何という齟齬だ。
私は今こそ、我が主ユキノの異常なまでの強さへ執着の理由を知った
彼女は『強さ』以外の生き方を選べなかったのだ。
それ以外に、彼女には自己を確立する手段が一つもなかったのだ!
だからこそ、誰よりも何よりも『強さ』に執着した。自分の本音に背いてでも。
ただ必死に、自分の心を守るために。
「私、本当は、殿下みたいに可愛くなりたかった……」
鍛冶場の床に塞ぎこんだまま、ユキノがくぐもった声で吐露する。
「でも、ダメ。こんな大きい体じゃ合う服がないの。男の人の服しか着れないの」
「ユキノちゃん……」
そう言ってまたすすり泣く我が主ユキノに、チエル殿下は何を思うのか。
彼も痛感したことだろう。
我が主ユキノと自分が、何も変わらないことに。
いや、むしろユキノの方こそ、現実から逃げていた。
ひたすら本音を押し殺し、強さこそが己の価値と自らに言い聞かせてきた。
――本当のユキノは、ただの年相応の少女でしかないのに。
そうか、彼女がアサクラの魔剣を好んだ理由は、それか。
我が主ユキノは、純粋にあの魔剣の美しさに惹かれたのだな。女性として。
「…………ごめん」
長い長い沈黙の果てに、チエル殿下が一言、謝る。
「俺、とんでもない思い違いしてたね。ごめんね、ユキノちゃん」
チエル殿下は、うずくまる我が主へと近寄って、身をかがませる。
「お願いだから、もう泣かないでよ。俺が悪かったから」
「ひっく、違います……。殿下は、何も……」
「あーあー、鼻水だしちゃって、もー。ほら、拭いたげるから」
ようやく俯くのをやめた主の顔を、殿下は自分の服の袖で拭っていった。
「あうう、殿下ァ、お召し物が……」
「今はユキノちゃんの方が大事。ほら、拭き終わったよ」
チエル殿下は手を伸ばして、我が主の頭を優しく撫でた。
彼は笑いかけながら、もう一度改めて「ごめんね」とユキノに告げる。
「君の気持ちも考えないで、勝手なこと言っちゃったね、俺」
「…………」
自嘲する殿下に、我が主は言葉を返さない。
いや、おそらくは返せないのか。恥ずかしくて。
あのような本音、今まで、アキヒトにも見せたことはないだろうからな。
「ねぇ、ユキノちゃん。お願いがあるんだ」
「お願い……?」
我が主の内心を見て取ったか、殿下の方から切り出す。
「――手を、見せてくれないか」
チエル殿下が言うと、我が主が目を剥いた。
私としても意外なほどの驚きようである。あれは、抵抗を感じている顔だ。
「やっぱ、見せられない? 恥ずかしいんだよね?」
しかし、チエル殿下の態度は、それを知っていたかのようだ。
皮手袋に包まれた手を握り締める我が主に、彼は自分の手を差し出す。
白い絹の手袋に包まれた手だ。
チエル殿下は「見てて」と言うと、手袋をスルリと外した。
現れたのは、白魚のような手としか呼べない、小さな手であった。
手首も指も細くて、肌の白さは透き通るようで、傷の一つも見られない。
可愛らしい、綺麗、美しい。スマート。
殿下の手を形容するなら、概ねそんな言葉がふさわしいだろう。
「……綺麗な手」
その手に見惚れた我が主が、そう零してまた泣きそうな顔になる。
白くたおやかな殿下の手こそ、我が主ユキノによって理想の手なのだろう。
「ありがとう。でも、俺には最低の手なんだ、これ」
「え……」
「だって、鍛えても何も残らない。何もしてない手のままなんだぜ?」
チエル殿下が苦笑する。
その笑みの苦み走った様子、まごうことなき本音だとわかる。
何もしてない手、とはまさに言い得て妙。
彼がいくら鍛えても、その手は綺麗に治ってしまうのだから。
まめもできない。
皮膚も厚くならない。
殿下の手は、ずっとずっと白く細く、弱くて小さいままなのだ。
「だから俺、誰かに手を見せるのイヤなんだ。絶対に見せたくない」
「じゃあ、何で私に……」
「あれ、それ言う必要、ある?」
手袋を脱いだ手でユキノの瞳の涙をぬぐって、チエル殿下は微笑んだ。
そうして彼に見つめられた我が主は、やがて自分も手袋を外そうとする。
「……殿下」
押し殺した声で言って、我が主ユキノは、自分の手をチエル殿下に晒した。
殿下の手よりも、明らかに大きい。そして節くれだっている。
浅く焼けた色をしたその手には、いたるところに傷痕が刻まれていた。
傷は、長い鍛錬のうちについたもので、指も相応に太かった。
それを見せることに抵抗感を捨てきれないのか、我が主は顔を背けた。
頬も紅潮していて、体などは小さく震えてすらいた。
「醜い、手でしょう……?」
「そんなことないよ」
チエル殿下が、自分の手のひらをユキノの手に合わせて、指を絡める。
感触に、我が主ユキノがビクリを大きく身じろぎした。
「君の手は、ずっと頑張ってきた人の手だ。世界で一番素敵な手だ」
「…………そんなの」
両手を合わせたまま、顔を背けていた我が主が、殿下の方に向き直る。
その瞳にはまた涙が浮かんで、けれどそれはきっと、嘆きの涙ではない。
「俺も君も、本当に欲しいものは得られなかった」
チエル殿下が言う。
「与えられたものは全然ほしくないもので、でも、それを磨くしか道はなかった」
「はい……」
「でも、これからは違う。俺は、君がなりたかった分まで可愛くなるよ」
「じゃあ、私は?」
「君は、俺がなりたかった分まで、強く、カッコよくなってくれ」
「私は可愛くなったら、ダメなんですか……?」
「勘弁してくれ」
かぶりを振るチエル殿下に、我が主の顔がくしゃりと歪みそうになる。
「今でさえ、すごい可愛いのに、これ以上可愛くなられたら、俺の心臓が止まる」
「そんな、嘘。嘘です。そんな言葉……」
「嘘じゃないよ。俺の手から君の手に、伝わってるだろ。俺が感じてる熱さ」
「……はい、すごく熱いです。とけそうなくらい」
「俺の心の熱だ。君が、俺に感じさせてる熱さだよ」
「チエル殿下……」
「本当の君を知って、俺はこのザマだ。もうゾッコンだよ。どうしてくれるの?」
「じゃあ……」
「ん?」
「私がカッコよくなったら、殿下は、もっと私を好きになってくれますか?」
「可愛い上にカッコいい、最高すぎるね。どこまでも惚れるしかないよ」
「……殿下」
「だから俺も可愛くなるよ。それは、君に捧げる可愛さだ」
「殿下、私――」
「ああ。俺達きっと、二人でなら、満たし合える」
力強く自分を見つめてくる殿下に、我が主は顔を赤くする。
彼女の心臓の高鳴りが、こっちにまで伝わってくるかのようであった。
そして、手を合わせたまま、二人は見つめ合う。
もはや互いに、相手だけしか見えていまい。
傍から見ていてわかる。
二人は、今日ここで出会うために生まれた半身同士なのだと。
ゆっくりと、チエル殿下が我が主に顔を近づけていく。
その先にあるものを、我が主とて確信しているはず。しかし拒まない。
頬を桜色に紅潮した彼女は、瞳を潤ませたまま、顔をゆっくり上向かせた。
かすかに開いた唇が、薄く濡れて光沢を放っている。
まさに二人だけの世界、であるが、そのとき強い風が吹いた。
桜吹雪が舞い散って、鍛冶場に立てかけてあった鋼の棒がその風に倒れる。
ガタン、という音に二人は揃って身を揺らして、鍛冶場の方を見た。
「……ああ、立てかけてあったヤツか」
床に転がる鋼の棒を見て、チエル殿下がため息をついた。
一方で、我が主ユキノは重ねていた手を離し、その場から立ち上がった。
「――帰ります」
そして彼女は私と大焔摩を拾い上げて、殿下に背を向ける。
「あ、あれ、ユキノちゃん?」
「本日はお招きいただき、ありがとうございました。また招待してください」
口早にそれだけ言って、ユキノはさっさと鍛冶場を後にしようとする。
「待ってよ、帰りの馬車――」
「いえ、王都まで走って帰ります。これも鍛錬の一環ですので」
さらに歩みを早める彼女の背に、チエル殿下が大きく呼びかけてくる。
「じゃあ、次も来てね! 絶対だよ! お茶とお煎餅、用意しとくからね!」
「できれば、お饅頭の方でお願いします!」
いけしゃあしゃあとリクエストを飛ばし、ユキノは私を携え、屋敷を後にした。
『そんなに顔を見られたくなかったか、我が主』
「うるさい、黙れ!」
私が指摘すると、叱り飛ばされてしまった。
しかし、耳まで真っ赤にしたその顔で言われても、説得力はないぞ。
「ぐううううう、手まで見せて……、あ、あんな恥辱……」
『見事なまでの敗北だな。もしや誰かに負けるのは初めてではないか?』
「負けてない! 私、別に負けてないモン!」
『合う服がないの。男の人の服しか着れないの。……だったか?』
「やめてよ!?」
『実はなかなか可愛らしかったのだな、我が主』
街道をズカズカ歩く我が主を軽く揶揄すると、凄まじい眼光が返ってきた。
「父上とか兄上に言ったらへし折るからね、ツキカゲ!」
『我が主の場合、本気でやりかねないからな……、まぁ、了承した』
「……ううううううう」
『なぁ、我が主』
「何だよ!」
『次の茶会でも、手合わせを願うのか?』
私が問うと、我が主はしばし押し黙る。そしてやがて、
「もう、しない」
その返答は、私の予想通りのものだった。
「……ところで、ツキカゲ」
『何かね?』
「殿下は私にカッコよくなってくれって言ったでしょ?」
『うむ』
「…………次は、か」
『か?』
「…………可愛くしてったら、ダメかな」
『我が主、耳までどころか首筋まで真っ赤だぞ、我が主!』
「うるさい、うるさいッ! ああ、もう、聞かなきゃよかった!」
『全くだ。私は武具だぞ。その私に色恋について尋ねるのが間違いだ』
「い、色恋じゃなくて、私を弄んだ殿下への意趣返しっていうか……」
『声がどんどん小さくなっているぞ、我が主。何? 殿下に見てほしいから?』
「ちーがーうー! もー!」
頬を膨らませながら、我が主は王都へと戻っていく。
この日、〈剣客〉ユキノ・ミリシア・サクラヅカは生涯初の大敗北を喫した。
さて、私がユキノを我が主と呼べるのは、あとどれくらいだろうか。
彼女が〈剣客〉でなくなる日は、そう遠くはないだろう。
ユキノの手の中で、私はいずれやってくるその日に思いを馳せた。
私はサクラヅカ家の宝刀ツキカゲ。
我が主ユキノのドレス姿を想像し『大いにあり!』と思う、最強の武具である。