第四話
マリウスが命を賭して挑んでいる決闘はライザ嬢が婚約破棄されたところから始まる――
この愚かにして愛の深い女性はバローム侯爵の娘ライザ・バローム。エンシア王国の王太子ミカエルの婚約者であった。
その事件は隣国ラコール王国の長きに渡る侵攻を退け、疲弊した彼の国とついに終戦協定をむずび歓喜に沸くエンシア王国の祝賀パーティーでの一幕だった。
「ライザ・バローム! もはや貴様の横暴は見過ごせん!!」
「ミカエル様!?」
皆の喜ぶ空気を突き破り、怒りの声を上げたのは王太子ミカエルであった。
「貴様は我が愛するリーンに数々の嫌がらせをしたばかりか、遂に刃物を振るい怪我まで負わせたな!」
黄金に輝く瞳に怒りの炎を燃え上がらせ、ミカエルは自分の婚約者を睨みつける。その威圧に怯え震えているのは美しいライザ嬢であった。
「ですが、婚約者は私です。それなのにリーン様はミカエル様に近づき……」
「黙れ!」
「きゃっ!」
悲鳴とパンッ!と叩く渇いた音が重なった。
「何故ですミカエル様。何故あの女ばかり……あなたの婚約者は私なのです」
赤く腫らした頬を押さえ青い瞳を涙で濡らし、ライザ嬢はそれでも非情な婚約者に縋った。
「ふん、見苦しい女め」
「リーンはあれほど素晴らしい女性なのにな」
「おいおい、こんな奸婦をリーンと比べるなよ」
「まったくだ、リーンが穢れる」
婚約者に裏切られた哀れな令嬢をミカエルの側近達が蔑む。周囲を見渡せば似たような視線がライザ嬢に向けられていた。
「あれがリーン嬢に危害を加えた悪女か」
「リーン嬢に嫉妬して逆恨みとは見下げ果てた女だ」
「あれを婚約者にされた殿下がお可哀想だな」
元はミカエルの浮気が原因であるはずだが、どうにもライザ嬢に同情が集まらない。むしろ、異常な程に皆が彼女を敵視していた。
それもその筈で、リーンはエンシュア王国を勝利に導いた立役者の一人だからだ。彼女は戦地にて回復魔法を駆使し、多くの命を救った聖女として人気を集めていた。
リーンは見た目だけならまさに聖女の如き楚々たる美人である。そんな彼女は己が周りからどう見られているかを良く理解している狡猾な女だった。
この戦争で聖女と崇められている自分がミカエルに言い寄っても、周囲は味方になると目算したのだ。ミカエルの方にしても美人だがきつい顔つきのライザ嬢に陰気な雰囲気を感じており、彼が清楚と思っているリーンの方を愛した。
こうして始まった浮気だが、どうやら国王もその聖女人気にあやかりたい心積りがあったようで、これを黙認してしまったのだ。
当初、ライザ嬢とリーンの諍いは口論程度であったが、尽くミカエルがリーンの肩をもつものだから、愛する婚約者の裏切りにあった彼女は心を蝕まれていった。
積もり積もった負の感情は普段は聡明なライザ嬢から理性を奪った。ミカエルへの愛が彼女を狂わせたのだ。
本来ならミカエルの浮気こそ糾弾されるべきであったのだが、この様な背景でライザ嬢の方が四面楚歌となって追い詰められ、ミカエルへの愛をリーンへの憎悪と激情へと置換してしまった。
ついにライザ嬢は短刀を握り締めリーンを害そうとしたのである。
「もはや言い逃れは出来んぞ」
「このような悪女はこの場で首を刎ねてしまえばよい!」
「お待ちください。私は侯爵家の者でミカエル様の婚約者ですよ」
ライザ嬢に残されたのは王太子の婚約者という立場と家の地位だけ……だが、それも……
「ライザ! 貴様との婚約は破棄だ!」
「そんな!」
ミカエルから非情の宣告にライザ嬢はショックを隠せない。
更に……
「バローム侯爵より貴様の絶縁状を預かっている」
「お、お父様が私を!?」
身内からも見捨てられ、絶望に彼女は膝から崩れ落ちた。
「もはや貴様は殿下の婚約者でもなければ侯爵令嬢、いや貴族でもない!」
「貴様の悪行の報いを受けるがいい」
悪行と言うならばミカエルの浮気こそが事の発端であり、責められるべきものではないか?
何とも勝手な言い分だ。
だが、この場にライザ嬢の味方になる者は誰もいなかった。
「リーンに危害を加えた罪、死を以て償ってもらおう」
「聖女に仇なす毒婦に死の制裁を!」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
王太子の言に側近のみならず、会場の者達までもがライザ嬢へ敵意をぶつける。その憎しみの声は津波の如く押し寄せ、飲み込まれたライザ嬢は流れに翻弄され抗う術はもはや無い。
縋るように周囲におろおろと視線を彷徨わせるが、ただただ打ちのめされるだけでしかなかった……