『魔女』に出会う
ミンミンうるさい蝉の声に、うっすらと目を開ける。
視界に入った見慣れない天井に、思わずため息が零れ落ちた。ああ、夢じゃなかったのか。
「朔夜ー!部屋の片づけは終わったのー?」
「終わったー!」
下の階から聞こえてくる母親の声に少し苛立ちながら、半ば投げやりにそう言い返す。寝起きで大きな声を出したせいか、軽くむせてしまった。ああもうまじでいいことないなあ、なんて心の中で愚痴りながら寝返りを打つ。
ここは田舎にある祖母の家だ。それなりにいい歳の祖母を心配して、俺たち家族は都会から引っ越してきた。俺だってもちろんばあちゃんのことは心配だし、引っ越してきたことに関してはそこまで不満はない。
――というのは少し嘘だ。やっぱり友人たちと離れるのは寂しかったし、なんで高校2年生の二学期という中途半端な時期に転校せねばならんのだと両親に文句も言った。それでも去年の夏にじいちゃんが亡くなり、日々元気をなくしていくばあちゃんが心配だと言われてしまえば、何も言えなくなる。
確かにもといた家からだと気軽に来れる距離じゃないし、ばあちゃんにまで何かあったら、なんて考えるだけでも恐ろしい。そうは思うが、すぐに割り切れるものでもない。だってここには何もないのだ。大型ショッピングモールも、カラオケも、コンビニですら徒歩圏内にはない。さすがに電車は通ってるみたいだけど、一時間に一本くればいい方だと聞いたら肩だって落としたくなる。だってこんなの、都会じゃありえなかった。
「…やめよ」
都会には都会の、田舎には田舎の良いところがあるんだ。ないものねだりしたって、この現状が変わるわけじゃない。むくりと起き上がり、窓の外に視線を移した。見渡す限り緑で覆いつくされている――わけもなく、それなりに家は建っているし道路だって整備がされていて綺麗だ。もちろん都会に比べれば緑は多いし、道歩く人が多いわけでもない。それでもここは良いところだと、素直にそう思う。
小さな頃から何度か来ているけれど、ここはあまり変わらない。都会みたいに大きなビルが建つわけでも、人でごった返すような駅があるわけでもない。だからだろうか、この景色を見て安堵する気持ちを覚えたのは。
「…散歩でもしようかな」
いつまでも家に閉じこもっているのはもったいない気がする。財布とスマホをズボンのポケットに突っ込んで、部屋を出る。階段を降りると縁側に祖母が座っているのが目に入り、なんとなく声をかけた。
「ばあちゃん何してんの?」
「幸せをかみしめてるんだよ」
「?」
どういうこと?と尋ねながらその隣に腰かけると、ばあちゃんは朔ちゃん、とおもむろに俺の手を取った。以前に触れた時よりも小さくなったばあちゃんの手のひらはしわくちゃで、でも相変わらず温かかった。
「ごめんねえ、朔ちゃん。ばあちゃんのためにこんなところまで…」
「そんなのいいよ。俺、ばあちゃん好きだもん」
「ありがとう…。朔ちゃんはいつだって優しいねぇ」
面と向かって言われるのは気恥ずかしいが、それでも嬉しい気持ちの方が上だった。ここでばあちゃんとお喋りするのも楽しいけれど、暗くなる前にこの辺りを一通り見ておきたい。
「ばあちゃん、俺ちょっと散歩してくんね」
「だったらいい場所があるよ。ちょっと待ってね、今地図を描くから」
「いい場所?それってどんなとこなの?」
「それは行ってみてのお楽しみだよ」
気を付けて行ってらっしゃい。俺に地図を手渡して笑顔で言ったばあちゃんに、俺も笑顔で行ってきます、と返して家を飛び出した。
――ばあちゃんに貰った地図を頼りに足を動かしているが、はたして本当にいい場所とやらに着くんだろうかと疑問がわいてきた。ばあちゃんを疑うわけではない、ただ、いかんせん、道が険しすぎる。木々が生い茂っているこの中を突き進むのは、都会っ子の俺には少々荷が重すぎるのだ。まさか道を間違えたのかと地図を確認するが、何度見ても間違っているわけではないらしい。ここまで来たのだからと腹を決めてとにかく歩き続ける。こんなことならもう少し体力をつけておけばよかった、と肩で息をしていると、微かに水の流れる音が聞こえてきた。
川でもあるんだろうか、それなら丁度いい。8月も終わりに近づいているが暑いものは暑いのだ。水辺の近くなら少しは涼しいだろう。何とか力を振り絞って獣道を抜け出して、俺は思わず目を見開いた。
「……」
そこには確かに川があった。いや、川というより泉というのが正しいかもしれない。だけどそれ以上に驚いたのは、水と戯れている女の子がいたことだ。後ろの髪よりも長いもみあげという少し特徴的な髪型だが、どこからどうみたって普通の女の子だ。問題はそこではなくて、彼女の周りをまるで意思があるように飛び回る水、いやどういうことだ?水飛沫があがっているわけではない、ただぼんやりと立っている彼女の周りに水が、いやいやいや。何度も目をこすってみるが、何も変わらない。
――これは本当に現実だろうか?
確かに『魔女』は存在する。テレビで見たことがあるし、歴史の教科書にだって載っていた。だけど実際生で『魔女』を見たことはない。だからまさかこんなところで本物に出会えるとは思ってもみなかった。もしかしたら、ばあちゃんは知っていたのかもしれない。ここに『魔女』がいるってことを。
「あの!」
「!」
彼女は肩を跳ね上げて、勢いよく振り向いた。黒い目に黒い髪、肌は日に焼けていないのか真っ白で、確かに『魔女』の特徴を兼ね備えている。ただ彼女は、何を考えているのか分からない表情で俺を見つめていた。驚かせてしまった、んだと思うんだけど感情が読み取れない。とにかく突然声をかけてしまったことを詫びなければ。
「とっ、突然話しかけてごめん。俺月城朔夜。高2!あと、えっと、今日ここに引っ越してきて、散歩してたんだけど」
「……」
「ばあちゃんがいい場所があるってここを教えてくれて…覗き見するつもりじゃなかったんだけど、えっと…」
「………」
じとりと怪しむような視線が居た堪れない。それでもなんとかへらりと笑顔を返すと、少しは警戒心を解いてくれたのか俺にゆっくりと近づいてきた。相変わらず彼女の周りには水が飛び回っていて、不思議な光景だなあと感嘆のため息が漏れた。そんな俺の視線に気付いたのか、彼女はああ、と小さく呟いて右腕を緩く振る。その動きに合わせて水が弾け、彼女の周りに小さな虹がかかった。
「言っておくけど、これは魔法じゃないよ」
「えっ、そ、そうなの!?」
「魔法は自然の力を借りるものだから、『魔女』だと懐かれるの。彼らにも意思があるんだよ」
「へえ…そうなんだ」
それでも凄いよ、と素直にそう言えば彼女は無表情で首を傾げた。
「凄いの?」
「凄いよ!俺、こういうの初めて見たんだけどさ、なんていうか、凄いしか言えない!」
「…ふうん?」
そういうもの?と抑揚のない声で言う彼女は、『魔女』だからなのか不思議な雰囲気をまとっていた。
「あ、そういえば君の名前は?」
「…不知火葉月。高2」
「不知火か、よろしくな!」
「よろしく、月城くん」
そう言った彼女、もとい不知火は、やっぱり無表情だった。