帰還
数ヶ月前、いや半年?一年前だったろうか。
台風が来た。
上流のダムは水位の調節のために、吐水量を増やした。
大雨が降ると毎回それを行う。
サイレンが鳴り、水位が上がるので川から出るようにとスピーカーから録音されたメッセージが流れる。
そうなのだ。
水位が上がる。
雨の日に川を見ると、最大で1メートルほど水位が上昇しているのを何度か見た。
いま、自分が立っている川岸はその時は水没している。
その時、ここは川の中なのだ。
今、雨が降って来れば逃げ場がない。
空を見上げる。
曇天。
重く厚い灰色の雲が空一面に覆いかぶさっている。
今にも降り出すかもしれない。
風には雨が降る前特有の湿り気が感じられる。
時間がない。
急がなくてはならない。
しかし何を急げばよいのかがわからない。
結局最初の看板までもどってきた。
ここに来るのは何度目だろう。
総合病院とここの間を何往復したのか、もはや覚えていない。
くたびれた。
座り込む。
座るのは良い。
立っているより、川に落ちる可能性は低くなるだろう。
何故今まで座るということをしなかったのか。
腰を下ろしてみて、その理由がわかった。
水面が近いのだ。
視界が低くなり、水面がまるで襲いかかってくるかのように感じて、急いで立ち上がる。
立ち上がった瞬間、立ちくらみが起こり川の方によろけてしまい、恐怖を感じる。
今まで座らなかったのは、こうなることがきっと本能的にわかっていたのだ。
困った。
座れないとなると、急に足が重く感じ始めた。
腰を下ろして足を休めたい。
もう何時間も立ったままだ。
いや、何日もそうしているように思う。
途方に暮れる。
そういえば、病院とここの中間くらいに大きな岩があった。
あの岩に座れば、視界を高い位置に維持したまま足を休めることができるだろう。
また歩き出そうとして、どこかで何か聞き覚えのある声を聞いた。
なんだろう。
思考に薄い膜がはり、考えがまとまらない。
なにかの鳴き声だ。
耳に響いて神経がざらつく。
しかし、同時になにか懐かしい。
これを無視してはいけないという気がする。
声はどこから聞こえるのか。
上だ。
あの看板の裏から聞こえる。
その時
看板の下の潅木ががさりと揺れたと思うと、そこから茶色い何かが飛び出してきた。
犬だ!
芝犬だ!
見覚えがある。
そうだ、芝犬の散歩の途中で看板を見つけて……
芝犬は怯えた目をして、尻尾を力なく下ろしながらも私に飛びついてきた。
足元に立ち、見上げている。
その表情は、早くここから出ようと懇願しているようだ。
犬が降りてきたところを見やると、かすかだがまだ判別が可能だった。
灌木に隙間が出来ている。
私は芝犬を抱え上げると、潅木に頭から突っ込んだ。
気がつくと、コンクリートの階段の上にいた。
残りの数歩を駆け上がり、道路に出た。
膝がガクガクと震えている。
目の前にはいつもの日常の風景が見える。
通りの向こうでは自動車が走っている。
学生たちが数名、自転車を漕いで目の前を通り過ぎた。
腕の中で芝犬が暴れて、地面に降りようとしている。
見ると、リードが切れていた。
リードは川に降りる階段の横のガードレールに結わい付けた筈だ。
繋がれていたリードを噛みちぎって助けに来て来れたのだ。
後ろを振り返ってリードの先を確認する勇気は出そうになかった。
両腕の中の愛犬を強く抱きしめた。
犬は嫌がってもがいたが構わず力を込めた。
あれほど、川を嫌っていたにもかかわらず助けに来て来れたのだ。
私は後ろを振り返らず、川が視界に入らないように自宅へと向かった。




