永遠に続く
「……ローウェン、頼む。ムイを、ムイを探し出してくれ」
ムイが行方不明になったのを受けて、城中がわっと騒がしくなった。
その反対に、リューンの心はどんどんと冷えていった。
ようやく、ムイが何かの拍子に少しだけ笑うようになってきた、という矢先のことだったからだ。
「……なぜなんだ、どうして、」
空っぽになったベッドの側で、呆然として立ちすくんでいるリューンの横を通り抜け、ローウェンはタンスの引き出しを開けた。
「……リューン様、これを、」
押し花を施したシガレットケース。そして、その代わりにとでも言うように、無くなっていた花の髪飾り。
「ムイは自分の意思で、ここを出たのでしょう」
リューンは、シガレットケースを受け取ると胸に当てて、天を仰いだ。
「そんなに俺が嫌だったのか、俺はそんなに、嫌われていたのか……」
胸が潰れそうに痛み、その痛みを受け入れるように弱々しく呟いた。
そして俯いたリューンに向かって、ローウェンの怒声が飛んだ。
「そんなことがあるわけないでしょうっ‼︎」
リューンが歪んだ顔を上げる。
「リューン様、ムイはあなたを想って、ここを出ていったのです。あの事件であなたが愛するこのリンデンバウムに泥を塗ってしまったと、ムイは思い込んでいる。だからこそ、自ら出ていったのですっ。そのシガレットケースと、ムイが持っていったお母様の形見の髪飾りが、何よりの証拠でしょうっ」
はあはあ、とローウェンが心臓を押さえながら、言い切った。
唇から飛んだ唾を手の甲で拭うと同時に、ローウェンは初めてリューンの前で流した涙を、そのまま一緒に拭った。
「……ローウェン」
ローウェンはもう一度ぐいと涙を拭うと、リューンに顔を向けて、真っ直ぐに問うた。
「さあ、リューン様っ、あなたは一体どうするのですかっ‼︎」
リューンが同じように、真っ直ぐローウェンを見た。
「……探し出す、必ずムイを探し出してみせる」
「ムイの父上の行方が知れません。ですから、親娘連れの捜索も必要になってきますよ」
「ああ、ローウェン、手伝ってくれ」
「もちろんです。あなたの命令は、ずっと聞いてきましたから」
リューンがローウェンの背中に手を掛け、二人は部屋を出た。
✳︎✳︎✳︎
「お父さん、これも植えるの?」
「ああ、一番奥に植えてくれ」
「ムイ、あとは水をやっておいてくれないか」
「わかったわ、兄さん」
曲がった腰をぐうっと伸ばして、ムイの父リーアムは額に浮いた汗を布で拭った。
「今日も暑いな、」
「日差しをつけた方がいいわ。料理長のソルベさんがこうして畑に布を張っていたの」
「お前はとてもよく、勉強をしたのだな」
「城にいる時に色々、教えてもらったの。料理や洗濯以外でも、勉強もさせてもらって、」
「素晴らしい女性になったなあ。母さんも喜んでいるだろ」
「兄さん、」
「さあ、俺は火を起こしてくるよ」
ムイの兄、タジンが畑から家へと戻っていった。
ムイはその姿を見送ると、止めていた手を動かして、菜っ葉の苗をふかふかに耕した土に植えていった。
リーアムが立ち止まったまま、ムイを見た。そして、弱々しく呟くように言った。
「ムイ、お前の幸せの邪魔をしてしまったな」
ムイは顔を跳ね上げて、眉根を寄せた。
「お父さんっ、そんなことないからっ。私、ちゃんと幸せだよ」
ムイは、額から流れる汗を袖口で拭くと、頬に土をつけながら、にこっと笑った。
「さあ、私、ご飯を作るね」
引き抜いた根菜を腕の中に抱えると、立ち上がって踵を返した。歩き出す足を止めて、ムイは振り返った。
「それより、ムイと呼んでくれてありがとう。お母さんにつけてもらった名前がちゃんとあるのに……」
「そんなことはいいんだよ。もう慣れたし、それにムイと呼ぶくらい……それくらい、させてくれないか」
寂しそうに笑うリーアムに、ムイも同じように笑いかけた。
「……お父さん、本当にありがとう」
リリー=ラングレー。
真の名前はもう必要ない。
リューンもリンデンバウムの城の皆も、そして国王陛下も。
言葉も声も記憶も失ったと思っている。自分という存在ももう、リンデンバウムの地のどこにも無いのだ。
父と兄、家族の元で。ゆったりと流れる時間の中、もちろんここの誰にも、真の名前を使う必要はない。
そして。
ムイ=リンデンバウム。
(……もうリンデンバウムではなくなったけれど、ムイの名はリューン様にいただいたものの一つ。大切にしたい、大切に思いたい)
大きく息を吸った。
そして、どこまでも高く青い空に向かって、心で言った。
リューン様、あなたを、いつまでも……。
心の中で何度も何度も繰り返した。
胸を張って、何度も。
✳︎✳︎✳︎
ムイは今、名乗り出てくれた兄タジンの家に、父親と一緒に住まわせてもらっている。
城を出たムイを探し出した父リーアムと一緒に、定住の地を探し彷徨っている時に、偶然にもタジンが二人を見つけて、再会となったのだ。
ある程度の畑を持つ兄のお陰で、昔のように貧しくはないし、毎日腹いっぱいにご飯を食べられている。
「ムイの歌声を聞いたことがあるか? それはそれは綺麗な歌声なんだ」
リーアムが得意げに笑う。
「おい、ムイ、聞かせてくれ」
「また今度ね」
「あ、このやろっ。いい加減、そう言ってかわしてばかりじゃないか」
「ふふ、だって恥ずかしいんだもん」
鍋からスープを掬って、タジンに渡す。
「ありがとう。ムイの作るスープは本当に美味しいなあ」
「マリアの、レシピ、よ」
そう言って、口を噤む。
リーアムとタジンが顔を見合わせる。
重くなりそうな空気を感じ取って、ムイは笑い声を上げた。
「兄さんの作る野菜が最高だから、こんなに美味しくなるのよ」
急いで、もう一杯掬ってリーアムに手渡す。
「私、ちょっと薪を持ってくる」
薪の上でゆらゆらと揺れる火が、小さくなっている。
「……ムイ、薪はあと少しでいい。俺も一緒に行く」
タジンが立ち上がり、ムイの後につく。
「兄さん、私一人で大丈夫なのに」
「なんだ、お前は俺を年寄り扱いしたいのか?」
笑いながら外の小屋の扉を開けて、中にある薪を二本取り出して抱える。すると、タジンが後ろから薪を取り上げて言った。
「俺が持つから、お前は扉を閉めてくれ」
タジンが抱え直すと、ムイは扉を閉めて、「一本持つわ」と言った。
「バカ、俺がそんな非力だと思うのか?」
手を伸ばしたムイから、ひょいっと薪を取り上げる。
あはは、と笑うタジンの足が止まった。
「どうしたの?」
道の向こう側に、誰かが立っている。
夕日が落ち、薄暗くなりつつあるこの時間。そのシルエットは、とても大きく見えて、ムイの胸がどっと鳴った。
タジンが無言で立っている。そのタジンの背中から、ムイは道の向こう側へと目を凝らした。
心臓は次第に高鳴っていき息苦しくなる。慌ててムイは、タジンの上着の裾を握った。タジンは、少し後ろを見ただけで、道の向こうの人影から視線を離さない。
けれど、とうとう痺れを切らして、タジンが声を上げた。
「誰だ」
人影が動いて、足元でジャリと砂を踏む音がした。
「ムイ」
その声。予想通りの声に、ムイはどうしていいのか、わからずに混乱した。
(りゅ、リューン、さ、ま、)
タジンが身じろぎした。
「まさか……あんた、リンデンバウムの領主様か?」
影はその声に答えずに、再度名を呼ぶ声。
「ムイ、」
優しさを含む声。けれど、その声には微かに震えが混じっている。
「ムイ、……結婚、したのか?」
「え、」
声を上げたのは、タジンだった。
「……ムイ、幸せなのか?」
ムイは、慌てて口に手を当てた。言葉を発してはいけない。名前を呼ばれただけで、愛しさがぶわりと湧き上がってきた。
けれど、言ってはいけない。ここで何か言葉を発してしまえば、身を切られるような思いで、リンデンバウムの城を出てきた意味がなくなる、と。
自分ではなく、リューンのためだけに。
「…………」
ムイは、唇を噛んで、耐えた。タジンの背中に身を小さくし隠れる。
震える手は、タジンの裾を掴んだままだった。
「ムイ、お前が幸せなら、……それでいい」
「お、おい、あんた」
タジンが声をかける。
「ムイ、」
愛しさが。今にも溢れ出しそうな声。その表情は宵闇が覆い隠してしまっていて、目を凝らしても見えやしない。
けれど、ムイはもう見ていなかった。見られなかった。
早く去ってくださいと、心で祈るのみだった。
「いつまでも……幸せでいてくれ、ムイ」
ジャリと音がして、足音が去ろうとした時。
「あんた、ムイを置いていくのか」
タジンが強さを含む声で言った。
「ムイを置いていくなら、俺が貰う。それでいいのか?」
「兄さんっ」
足音が止まった。
「……置いていきたいわけじゃない。ずっと探していたんだ……」
声が。震えている。
その低く抑えた声が、ムイの耳に届く。
「ずっと、ずっと探していた。ようやく見つけたんだ」
「だったら、言うことが違うだろう」
「兄さん、やめて」
ムイが掴んでいた裾を引っ張った。
「兄さん? 兄弟なのか? それなら尚更だ。ムイ、俺のムイ」
「リューンさ、ま、」
「お願いだ、俺を選んでくれ。愛してるんだ」
自分でも知ることのない涙が、溢れていた。
「私では、リューン様の、ご迷惑、に、なりま、す」
「ムイ、お願いだ。俺の側にいてくれ。頼む、ムイ……俺にはお前しかいないんだ」
「どうか、お帰り、ください」
涙が堰を切ったように流れ落ちる。ムイは、タジンの裾にすがりながら、大声を出した。
「お帰りくださいっっ」
「ムイっっ、お前がいないなら……それならいっそ、俺は独りで生きる」
「リューン様っっ」
「お前がいないなら、俺は独りだっっ」
「…………」
「前にも言ったはずだ……お前が俺の側で生きぬなら、俺は独りで生きて、独りで死んでいくっ」
吐き出すように叫ぶと、リューンは歩き出した。
その足音に、リューンが去ってしまう、と思った瞬間、ムイの身体がびくっと波打った。
ムイが慌てて顔を上げると、去ったと思ったリューンがこちらに向かって歩いてくる姿が。淡い月明かりの中、浮かび上がって見えた。
懐かしい、リューンの姿。
タジンが、ムイの背中を促して、前へと押し出す。
一歩、足が前へ出てしまうともう、自分の意思に逆らって、足が、身体が、動いてしまった。
そして、手を。
衝動に突き動かされて、伸ばしてしまっていた。その伸ばした指先までもが、リューンを求めてやまないことに、ムイは気がついた。
「リューン様、」
名前を呼ぶと、今度は心が。
魂で惹かれ合う。それが、最愛なのだという。
シバの言葉が甦ってきて、ムイの胸を熱くした。涙が流れて、落ちていく。
リューンは直ぐにもムイの前に来ると、ムイを抱き締めた。力強く、そして。
「ムイ、ムイ、俺のムイ、」
何度も名前を呼ばれ、愛しい声が、脳へと伝達されていく。
リューンの覚えのある匂いに、くら、と意識が揺れる。ムイは意識を保つために、精一杯リューンの首にしがみついた。
ムイがリンデンバウムを去ってから、そしてリューンがムイを血眼になって探し始めてから、二年という月日が経っていた。
✳︎✳︎✳︎
「マリー、マリー、あなたは一体どこにいるのかしら」
ムイが腰に両手を当てて、仁王立ちで立っている。
リンデンバウムの城の、長い長い廊下の真ん中である。
「もう探し疲れてしまったわ、出ておいでー」
ムイが叫ぶ。
すると、どこからか、くぐもった声が聞こえてきた。
「お母さま、お父さまはもっともっと、もおおおっと長い間、お母さまをお探しになったのよ」
ムイは、きょろきょろと辺りを見回しながら、応えた。
「でも、お母さまはマリーをそんなに長くは探さないわよ」
「えっ⁉︎」
「あああ、見つからないから、もう諦めてしまいましょう」
すると、ガコッと音がして、廊下に置いてあるゴミ箱の蓋が開いた。
「お母さま、ここよ。もぐもぐオバケちゃんの中よ」
「マリーっ‼︎ あなた、なんて所に隠れているのっ」
マリーがゴミ箱から出ると、あちこちにゴミが散らかった。そしてマリーも頭からゴミをかぶっている。
このゴミ箱は昔、ムイが手作りしてリューンへと渡そうとしたマドレーヌを、侍女のサラの嫉妬心によって捨てられてしまったゴミ箱だ。
このゴミ箱を見るたびに、苦いものが込み上げてきたものだったが、今となっては、こうしてマリーが「もぐもぐオバケちゃん」と呼んで遊ぶので、幸せの象徴の一つとなっている。
マリーのやんちゃぶりが、ムイに辛い過去を忘れさせ、そして幸せをもたらしてくれるのだ。
ムイはもう一度仁王立ちすると、呆れた顔をしてから怒っているふりをした。
「まったくあなたは本当におてんばなんだから……ゴミまるけじゃない」
「えへへ、もう一回、かくれんぼっ」
マリーは、頭からかぶっているゴミクズを払おうともせず、笑いながら逃げようとした。そこをぐいっと掴まれて、そのまま身体がふわりと宙に浮く。
「わあああっ、お父さまっ」
リューンがマリーを腕に抱える。
「なんてことだ、俺の可愛いお姫様が、こんなゴミまるけとはっ」
「お父さまあ、降ろしてえ。かくれんぼするんだもん」
「汚いぞ、マリー。これはもう、風呂に入れて綺麗にせねばならぬ」
ひょいっと肩に乗せて、廊下をずんずんと歩いていく。
「お母さま、助けてえ」
マリーがバタバタと足を振る。そこで、リューンが足を止めて踵を返した。
「おっと、忘れていた」
リューンがムイの元へと近づくと、「お前も一緒に風呂に入るぞ」
ムイの腰を引き寄せ、キスをする。
「リューン様、」
リューンがマリーを降ろして前向きに抱え直してから、左腕でムイをぐいっと抱き締めた。
そしてもう一度、ムイにキスをした。しっとりと唇を合わせてから、リューンがようやく唇を離した。
「お母さまばかり、ずるいっ‼︎ マリーにもっ‼︎」
慌てて手を伸ばしてマリーがリューンに抱きつく。
その様子を見て、リューンとムイは顔を見合わせて笑った。
そして、リューンとムイが同時にマリーのほっぺにキスをすると、マリーは満足げな顔をしてケタケタと笑った。




